まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.なぜ「身体を洗うときは左腕から」が好きなんですか?

2017-09-08 18:14:05 | 人間文化論


これは、私のワークシートの問いに反応したご質問です。

「倫理学」 の第一回目の授業のときに、みんなの中にある倫理に目を向けてもらうために、

こんな問いを与えています。

「あなたが生きていく上で大事にしているモットーを教えてください。

『やられたらやり返す』 など生き方そのものに関わるものでもいいですし、

『身体を洗うときは左腕から』 など日常生活で気をつけていることでもいいです。」

この例示に反応してくれたんだと思いますが、

まさかこんなところにツッコミを入れられるとは思っていませんでした。

日常生活で気をつけてることって、モットーと言えるほど意識的なものじゃなくて、

癖とか習慣みたいなものだから、それに関してさらに 「なぜ」 と問われると思っていなかったからです。

さてしかしながら、問われてみて初めて考えてみたんですが、

よく考えてみると、たしかに癖とか習慣のように習い性になってしまっているところもありますが、

同時に、それ以外の洗い方があるんだろうかと、

この洗い順は人類に普遍的であるべきではなかろうかと思っている自分もいることに気づきました。

身体を洗う場合、まずタオル (またはスポンジ) を利き手である右手に持ちますよね。

次にボディソープのボトルのヘッドを押してタオルにボディソープを付けますよね。

この時、両腕はボディソープのボトルのほうに伸びているわけです。

この状態で、タオル (またはスポンジ) を持った右手から最短距離にあるのは左腕じゃないですか。

したがって最も早く洗い始められるのは左腕以外にはないことになります。

だとしたら左腕以外から洗い始める人なんて存在するんでしょうか?

いや、もちろん左利きの人は右腕からになりますよ。

それぐらいの多様性は理解しているつもりです。

しかし、いずれにせよ身体を洗う時は利き手と反対側の腕から洗うしかないじゃないかと思うのです。

これはもう好き嫌いの問題なんかではなく、

人間という生き物としてそうせざるをえない必然の問題のような気がするのです。


とまあちょっと極端に議論を進めてみましたが、

「利き手の反対の腕から洗う」 というのが人類に普遍的な法則ではないことを私はわかっています。

長年のこのワークで、別のところから洗い始めると書いてくれた人がたくさんいたからです。

はじめのうちは自分とは違う人がいてちょっとビックリしましたが、

人それぞれ好き好きがあるんだなあと思っておりました。

ただ、今回このような質問をいただいてみて、もう一段思索を深めることができました。

私はなぜ身体を洗うとき左腕から洗い始めるのが好きなのでしょうか?

それは、先ほどの手順説明の中の2つのキーワードに示されているように思います。

「最短距離」 と 「最も早く洗い始められる」 という部分です。

どうやら私はお風呂に入って身体を洗うという行為を、

できるだけ早く完了させるべき作業と考えているようなのです。

その目的を達成するために最も合理的な解が、

タオル (またはスポンジ) にボディソープを付け終えた時点で最も近くにある部分から洗い始める、

という戦略だったわけです。

私の上位5つの強みの中に 「戦略性」 と 「内省」 があるということを以前に書いたことがありますが、

私は身体を洗うときにどこから洗い始めるかという他愛もないことに関しても、

いかにして早く洗い終えられるかという観点から、

きわめて合理的かつ戦略的に考えて行動しているのです。

自分のなかではそのように思考を張りめぐらせるのが当然と考えているところがあって、

それゆえ他の洗い方はないとまで感じてしまったりするわけですが、

それはあくまでも私の考え方、感じ方の特性にすぎず、

もっと別の観点からこの問題にアプローチする人がいるにちがいないし、実際現にたくさんいます。

今まで考えてみたこともありませんでしたが、改めてその理由を考えてみると、

自分のなかの価値観やら特性、強みなどが反映されていたことがわかりました。

考えてみるものですね。

最初、質問をいただいたときは、そんなの個人の習慣、好みにすぎないのだから、

なぜと問われても答えようがないよなあと思っていましたが、

意外なところまでたどり着くことができました。

自分のなかの優先順位もそうですが、ダイバーシティ (多様性) についても考察を深められました。

このような質問をいただき、誠にありがとうございました。

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