「ドライブ人生論」がまだ3つくらいしか書きためられていませんが、
臆することなく新しいカテゴリーを立ち上げてしまいます。
名づけて「幸せの倫理学」。
「幸福の倫理学」にしようかなとも思ったんですが、
どこぞの宗教団体と似てしまうので漢語ではなく大和言葉にしてみました。
「幸せ」でも「幸福」でも意味はいっしょです。
さて、カント研究者である私が「幸せ(=幸福)」について論じてしまうというのは、
けっこう研究者生命を危険に晒すことであります。
カントは「義務論」とか「厳格主義」と呼ばれる倫理学を打ち樹てた人なので、
一般に、幸福を排除しようとした倫理学者であると目されているのです。
「排除」というのは言い過ぎだと思いますが、
しかし、出発点においてカントが幸福を「度外視」しようとしていたのは確かでしょう。
そんなカントを研究している私が、
「幸せ(=幸福)」を正面から取り上げるというのは、
カント研究仲間から「裏切り者」と後ろ指さされかねないことなのです。
自分の中でも、カントを研究する自分と、幸福を論じる自分が、
どれだけ整合的に統合可能なのかはっきりしていない部分もあるのですが、
どちらも自分にとって重要なテーマであることは確かなので、
自分のカンに素直に従いつつ、書きたいことを書いていこうと思っています。
伝えたいことはただひとつ。
「みんな幸せになっていいんだよ!」
すでに言い古されたことではあります。
いろいろなフレーズが出回っています。
「幸せになってね。私祈ってます
」(園まり)
「幸せになりなさい。あなたはもっと自分を大切にしてもいい。」(くらもちふさこ)
まあ真理は不可避的に(=どうしたって)普遍性を帯びるものだから、
倫理学者は何も目新しいことを言い立てる必要はないはずです。
昔から言われ続けている大事なことを、
自分のことばでもう一度言えばいいだけのことではないでしょうか。
そのためにこのカテゴリーを立ち上げました。
みんな幸せになっていいんだよ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/atten.gif)
臆することなく新しいカテゴリーを立ち上げてしまいます。
名づけて「幸せの倫理学」。
「幸福の倫理学」にしようかなとも思ったんですが、
どこぞの宗教団体と似てしまうので漢語ではなく大和言葉にしてみました。
「幸せ」でも「幸福」でも意味はいっしょです。
さて、カント研究者である私が「幸せ(=幸福)」について論じてしまうというのは、
けっこう研究者生命を危険に晒すことであります。
カントは「義務論」とか「厳格主義」と呼ばれる倫理学を打ち樹てた人なので、
一般に、幸福を排除しようとした倫理学者であると目されているのです。
「排除」というのは言い過ぎだと思いますが、
しかし、出発点においてカントが幸福を「度外視」しようとしていたのは確かでしょう。
そんなカントを研究している私が、
「幸せ(=幸福)」を正面から取り上げるというのは、
カント研究仲間から「裏切り者」と後ろ指さされかねないことなのです。
自分の中でも、カントを研究する自分と、幸福を論じる自分が、
どれだけ整合的に統合可能なのかはっきりしていない部分もあるのですが、
どちらも自分にとって重要なテーマであることは確かなので、
自分のカンに素直に従いつつ、書きたいことを書いていこうと思っています。
伝えたいことはただひとつ。
「みんな幸せになっていいんだよ!」
すでに言い古されたことではあります。
いろいろなフレーズが出回っています。
「幸せになってね。私祈ってます
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/onpu.gif)
「幸せになりなさい。あなたはもっと自分を大切にしてもいい。」(くらもちふさこ)
まあ真理は不可避的に(=どうしたって)普遍性を帯びるものだから、
倫理学者は何も目新しいことを言い立てる必要はないはずです。
昔から言われ続けている大事なことを、
自分のことばでもう一度言えばいいだけのことではないでしょうか。
そのためにこのカテゴリーを立ち上げました。
みんな幸せになっていいんだよ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/atten.gif)
見つけたので。。
「幸せになっていいんだ」
と言われると本当にいいのかな?と思ってしまうあまのじゃくです…。
どうしても自分のことと、他のことを比べてしまい、
自分が我慢することで他が幸せになるなら…と考えてしまいます。
自分が自己犠牲をテーマにしているからか、
自分がそう考えるからテーマにしているのかわかりませんが。。
幸せが何かも自分にはまだよくわかっていませんが、
修論仕上げることでとりあえず幸せになりそうなので、
がんばりますっ!
あいかわらず自己犠牲的だね。
自分が幸せになれるならいくらでも自己犠牲していいと思いますよ。
マザー・テレサのように。
あなたがホントにそれで幸せになれるなら。
とりあえず中間発表会を乗り切って、
小確幸を手に入れましょう。
私は自己犠牲的な考え方ができず、
いつも自分の幸せ感ばかり先立ちます。
そしてそれはいつも目先。
隣の芝ばっか見すぎだからです。
かんこんの精神を分けて欲しい・・・
幸せの中でも最も強力な幸せは「分かちあう幸せ」だと思います。
「自己犠牲」でもないし、「自分の幸せ感」ばかりでもない、
みんなと分かちあえる幸せ。
かおりんも分かちあえる仲間がいるといいのだけれど。
昔高校の先生が、「何で世界平和なんて考えなきゃいけないか」って話になったとき、それがめぐりめぐって自分の幸せになるからだよって言ってました。
私はそれを勘違いしてたんでしょうか。
自分の幸せをみなが追求することが、
世の中の幸せにつながるんじゃなかろうかと・・・・
よく考えると可笑しな話。
分かち合う幸せの話、待ってます。
Oと橋の上を歩いていた
ふと川を覗くと
なんと鮭の一群れが橋の下を川上へ向って泳いでいる
しかも真ん中後方の一匹は真っ白だ
白鮭???
Oといると時々こんなひょんな幸運に出会うようなきがする
そんな時Oの存在をありがたく感じたりするのだが
Oのおかげという証拠はない
はかないものよなぁ
Oさんのおかげってわけではないかもしれませんが、
そういう偶然に出会えるようなゆったりした時間をともに過ごせる相手が、
Oさんだということなのではないでしょうか。
だとすると、これからもそういう幸運は何度もやってくるでしょう。
大事にしたいですね、そういう時間とそういう相手は。