がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

MRSA感染

2007年01月08日 | Weblog
術後1週間はベッド上安静ということで、全てをベッドの上で済ませる。骨をいじる手術では熱が出るのだが、ご多分に漏れず私も39度位の熱が出た。しかし、それほど苦しいといった気持ちはなかった。

1週間経過後車イスに乗って院内を動き回る。原発巣切除を終えて、松葉杖で歩けるようになったら一時退院させてもらう約束を取り付けていたので、7月4日からリハビリ室でリハビリを始める。一時退院に向けてやる気満々であった。一時退院の目標を7月15日に自分の中で設定していた。

しかし、このはやる気持ちが仇となる。抜糸は済んでいたが、ドレーン(血液やリンパ液等の滲出液を体外に排出する管)はまだ抜けていない状態でリハビリをしてしまっていた。一般的にはドレーンが抜け、傷口がふさがってからリハビリをはじめる。

7月8日位から熱が上がり始める。白血球の数値と炎症反応を表すCRPの数値も上がり始める。感染の徴候である。ただ、この時点では白血球・CRPともに急激に上昇したわけではなかったので、風邪だろうということで、数日間は風邪薬を処方され、それを服用していた。しかし、その後白血球数が18600(正常値は3000~8000程度)、CRPの数値が22(正常値は0~0.5)にまで上がり、明らかに風邪とは異なる感染症であると判断され、ドレーンが挿し込んである所から滲出液を採取し、細菌検査に出す。数日後結果が判明。MRSA陽性。この時点で既に熱が40度近くにまで上がっていた。そこからはMRSAに唯一有効とされている抗生物質であるバンコマイシンをこれでもかと投与。手術した所にも直接注射。闘病中1番しんどい時期を過ごす。

私はMRSA感染するまで「闘病」という言葉が嫌いであった。何か大袈裟な感じがしていた。「そんなに大袈裟なものじゃないだろう。治療って言えばいいじゃないか。」と思っていた。しかし、MRSA感染を経験してからは「闘病」という言葉を使うことにした。なぜなら、「闘病」という言葉に値するほどの苦しさだったからである。40度を超える熱。当然食欲なぞなく、気力も衰える。幻聴も聞こえ出し、いつ熱が下がるかもわからない。お年寄りや子供が亡くなってしまうのがよくわかる苦しみである。次の手術後も含め、40度以上の熱が1ヶ月以上続いたと思う。高いときは41度。本当に辛かった。

この時までほとんど冷静さを失わず治療に臨んできたが、初めて冷静さを欠いた局面であった。

腫瘍広範囲切除ならびに人工膝関節置換術

2007年01月08日 | Weblog
平成16年6月21日。腫瘍広範囲切除ならびに人工膝関節置換術。朝9時から8時間の手術。大腿骨から脛骨にかけて(わかり易く言うと太ももからすねあたりまで)15cmほどを周囲の筋肉とともに切除し、コバルトクロムという金属で出来た人工関節を埋め込む。私の腫瘍は割と大きめだったが、それでも足を残せたのは抗がん剤が良く効いたことと、主治医の腕が良かったことが理由であろう(ファーストオピニオンのがんセンターでは切断だと言われていた。)。抗がん剤が良く効くと腫瘍細胞と正常細胞の境界がはっきりしてくる。その境界線の少し外側を電気メスで切っていく。

骨肉腫に限った話ではないが、がんの手術で1番大切なことは腫瘍細胞に切り込まないようにすることである。誤って腫瘍細胞に切り込んでしまうと「播種(はしゅ)」と言って腫瘍細胞が散らばってしまう。散らばってしまうとそれらの腫瘍細胞は血液やリンパに乗って全身に散らばってしまう。万が一にも切り込んではならない。かといって余り広めに切除すると足の機能が残せない。私の主治医は人工関節手術の第一人者と言っていい人物だったので、幸いにも私の足は残った。この主治医でなければ足は残せなかったのではないかと思う。

手術後、切除した骨および筋肉を見せてもらったが、かなり大きく且つグロテスクなものであった。写真もあってこのブログに載せようと思えば載せられるのだが、ちょっとグロテスク過ぎるかなと思うので、載せないつもりでいる。