ありがとうございました。
最近 澤田瞳子さんの火定(かじょう)を読み、過去の災害について読んでいます。
火定は、天平7年と9年に新羅に行った人から天然痘が感染し、
都に流行った話です。
パンデミックになったときの世の中がどのようなことが起こるかについて
作家としての想像力から描いています。
薬もなくお医者さんお治せないときに禁厭札(まじないふだ)を
売り歩く宇須に町の人たちが必死に取り巻いて買い求める姿が描かれています。
最後に、その札にはそんな効力はないことがわかり人々から攻められる話です。
まさに武漢で起こっている社会現象が同じに感じるのは僕だけでしょうか。
学問の世界から見た病については、阿部シズ先生の「病が語る日本史{です。
この本は、骨や遺物が語る病や古代人の病、疫病と天皇いついてと歴史上の
ことが書かれています。
面白かったのは、「蘇民将来伝説」です。
「備後国風土記」に書かれていることです。
今でも6月と12月に神社に見られる茅の輪の原型出今に伝えられています。
上の写真は、鎌倉の町で見かけたものです。
「武塔神(たけとうのかみ)は、「われは速須佐雄(素戔嗚尊)である。
後の世も蘇民将来の子孫は、翔子として茅の輪を腰につけておけば
疫気から逃れることが出来る」と言った。
江ノ島の茅の輪です。
八の字この輪を回ります。
北村優季さんの「平安京の災害史」は、病も含めて
飢饉、洪水、疫病、地震、火災について京に起こった災害について
解説しています。
藤原宗忠の日記「中右記」に
「近日・世間多く道路に小児を棄つ、大略、天下の飢餓の致すところか。」と京の町は
死人で溢れていたようです。
山岡荘八の「織田信長」を読んでいて、信長が最初に京都に入ったときに
町は死人の悪臭に驚愕して、次に京都に入ったときに
町を清掃して悪臭が無くなったと書かれています。
面白いですね。小説家は別の観点から見ているのですね。
PHponline衆知 から
https://shuchi.php.co.jp/article/4569
いざという時の人間の行動を描く――今回、直木賞候補作となった『火定(かじょう)』は、奈良時代の天平9年(737年)、平城京で天然痘のパンデミックが起こり、時の権力者である藤原四兄弟までもが罹患して亡くなるという大事件を扱っていますが、この事件を選んだ理由を教えてください。
澤田 天平9年の疫病の大流行は、政治的クライシスを引き起こした大事件でした。なのに、日本史のなかではほとんど注目されていません。時の権力者だった藤原四兄弟が亡くなり、それによって聖武天皇の親政や大仏建立などがなされ、さらにその揺り返しとして、藤原家が権力を取り戻すという歴史が大きく動くきっかけとなる出来事であるにもかかわらずです。
だからこそ、この事件を取り上げてみたいとデビュー当時から考えていました。
――『火定』というタイトルは耳慣れない言葉ですが、インパクトがあります。
澤田 修行者が自ら火中に身を投じて、無我の境地に入るという意味ですね。普段はタイトルをつけるのが苦手なんですけど、今回はこの言葉が飛び込んでくる感じでした。
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