おじさん山伏です

修験道の修行から見た心の散歩です。
アイヌのアシリ・レラさんからの命名です。
「キムン・マタギ」になりました。

長谷寺のお参り。今日は朝6時半から金峯山寺の勤行?

2018-01-15 | 山伏修行

 今日は、大阪住吉大社にお参りです。

これも清水さんの影響ですね。

 

 

 

 

 

 

ロウバイが咲き始めました。

 

ミツマタも咲き始めました。

大倉山のミツマタはどうしたのかなあ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありがとうございました。

鏑射寺の貫首さんで大阿闍梨さんの法話からです。

 http://kaburaiji.or.jp/mokuji.html(鏑射寺のホ-ムペ-ジです。)

お釈迦様の仰るように、この世は苦であり、その骨格をなすものは、人間は欲で動い

ているという事です。もう少し長生きがしたい、楽がしたい、権力をもちたい、お金か

欲しいなどと、いろんな人が、実にいろんなことを思うわけです。

 そこで、それによってだんだん自分自身が自分の働きを小さくしてしまう。心の動き

を片寄らせてしまう。あの蚕の繭が、自分の吐き出した糸によって自分の大きさを決め

るように、私達もやはり、自分かやっていることによって、自分の大きさを決めてい

 る。自分が思っていることによって、自分の居所を決めてしまっているのですね。自分

 で自分の豊かさを限っているわけです。

  本当の「豊かさ」というのは、今言ったようなレベルのものではなくて、『般若心

 経』にも出てきますでしょう。苦しみの無い世界はどうしたらできるか。「以無所得

 故」、無所得を以っての故に。所得がないと云うことが苦しみを呼ばないのだと云うの

 です。

  今、何もかも次々に集めたい、お金も欲しい、命も欲しい、名誉も欲しい、と申しま

 したか、これは所得を得ようとすることです。(中略)

 

今、何もかも次々に集めたい、お金も欲しい、命も欲しい、名誉も欲しい、と申しま

したが、これは所得を得ようとすることです。

 ところが、悟りと云いますか、本当に悩みの無い、自由に心が解き放たれて、勤きが

自由な、そういう境地に入るには、所得に執われてはいけないと云う。だけれども実際

には所得がなければ生きられないじゃないですか……と。

 でも、そこが佛教の深さ、すごさなのですね。この心の状態によって、そういう欲し

いとか何とか云うものを、普遍性と永遠性のある、大きな大きなものにすげ変えていく

ことが人間には許されている、と佛教は考えるのです。

 自分のことだけ一生懸命にやろうとすると、自分以外はみんな邪魔です。しかし、誰

かが本当に喜んで下さると思ったら嬉しいではないですか。その人の為に一生懸命に

やって、所得なんか考えませんでしょう。

 そういう、皆さんが良くなることをやる方法があります。そういうのが「無我・無

心」です。実際の意味はもっと深いのですが、易しく言えばそういうことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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