今日は、大阪住吉大社にお参りです。
これも清水さんの影響ですね。
ロウバイが咲き始めました。
ミツマタも咲き始めました。
大倉山のミツマタはどうしたのかなあ?
ありがとうございました。
鏑射寺の貫首さんで大阿闍梨さんの法話からです。
http://kaburaiji.or.jp/mokuji.html(鏑射寺のホ-ムペ-ジです。)
お釈迦様の仰るように、この世は苦であり、その骨格をなすものは、人間は欲で動い
ているという事です。もう少し長生きがしたい、楽がしたい、権力をもちたい、お金か
欲しいなどと、いろんな人が、実にいろんなことを思うわけです。
そこで、それによってだんだん自分自身が自分の働きを小さくしてしまう。心の動き
を片寄らせてしまう。あの蚕の繭が、自分の吐き出した糸によって自分の大きさを決め
るように、私達もやはり、自分かやっていることによって、自分の大きさを決めてい
る。自分が思っていることによって、自分の居所を決めてしまっているのですね。自分
で自分の豊かさを限っているわけです。
本当の「豊かさ」というのは、今言ったようなレベルのものではなくて、『般若心
経』にも出てきますでしょう。苦しみの無い世界はどうしたらできるか。「以無所得
故」、無所得を以っての故に。所得がないと云うことが苦しみを呼ばないのだと云うの
です。
今、何もかも次々に集めたい、お金も欲しい、命も欲しい、名誉も欲しい、と申しま
したか、これは所得を得ようとすることです。(中略)
今、何もかも次々に集めたい、お金も欲しい、命も欲しい、名誉も欲しい、と申しま
したが、これは所得を得ようとすることです。
ところが、悟りと云いますか、本当に悩みの無い、自由に心が解き放たれて、勤きが
自由な、そういう境地に入るには、所得に執われてはいけないと云う。だけれども実際
には所得がなければ生きられないじゃないですか……と。
でも、そこが佛教の深さ、すごさなのですね。この心の状態によって、そういう欲し
いとか何とか云うものを、普遍性と永遠性のある、大きな大きなものにすげ変えていく
ことが人間には許されている、と佛教は考えるのです。
自分のことだけ一生懸命にやろうとすると、自分以外はみんな邪魔です。しかし、誰
かが本当に喜んで下さると思ったら嬉しいではないですか。その人の為に一生懸命に
やって、所得なんか考えませんでしょう。
そういう、皆さんが良くなることをやる方法があります。そういうのが「無我・無
心」です。実際の意味はもっと深いのですが、易しく言えばそういうことです。
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