♦️411の2『自然と人間の歴史・世界篇』マンハッタン計画

2018-11-18 10:19:28 | Weblog

411の2『自然と人間の歴史・世界篇』マンハッタン計画

 そして迎えた1942年6月、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領は、原爆製造計画であるマンハッタン計画(1942~46)に着手した。核兵器開発が最終的にマンハッタン計画として発足したのは1942年8月13日の事であった。マンハッタン計画にはカナダも関わっていた。このマンハッタン計画に深くかかわったアメリカの財閥としては、ロスチャイルド家が有名だ。

ウランの調達は、アフリカのベルギー領コンゴ、カナダのグレートベア鉱山、アメリカのコロラド州カルノー鉱山で行われたようである。その3か所ともロスチャイルドの支配下にある鉱山でした。おまけに、マンハッタン計画の監督を務めたのが、ロスチャイルド一族でハンブローズ銀行のチャールズ・ジョスリン・ハンブローであったと言われ、一財閥としては相当の入れ込みであったことになるだろう。
 ともあれ、アメリカ陸軍直轄のマンハッタン工兵地区を中心に開発されることとなった。開発は、オッペンハイマーらの手によって進められた。ヨーロッパから亡命してきたフェルミ(ユダヤ系イタリア人)、ボーア(デンマーク人)、シラード(ハンガリー人)などの物理学者が協力した。

この政府によって組織された計画に動員された人々は総勢約12万人、その中でもダウケミカル社、デュポン社、ロッキード社、ダグラス社などの軍需産業やシカゴ大学、カリフォルニア大学、ロスアラモス研究所など多くの大学・研究機関が参加・協力したのだという。
 原爆製造には、1942年から46年の間に約18億ドルが投じられた。爆弾には、ウランとプルトニウムの2種類の製造が目指された。プルトニウム原料については、1941年の1月、グレン・シーボルグとカリフォルニア大学の物理学者で構成される彼のチームが、バークレーのサイクロトンで1グラムの100万分の1より小さいネプツニウムの中に新しい原子の痕跡を確認したところであった。
 開発は、秘密裏に進められた。協力企業には、箝口令(かんこうれい)が敷かれた(例えば、デュポンのホームページに同社にとっての経緯が掲載されている)。1945年7月に爆弾製造が完成する。その爆弾には、2種類があり、その一つはウラニウムを爆薬による誘導で二方向から合体させることで爆発させる「ガン式」(山田克哉「核兵器のしくみ」講談社新書、2004)である。今ひとつは、プルトニウムを複雑な仕掛けで爆発させるもので、「インプロージョン式プルトニウム爆弾」(同)と呼ばれる。
 ところが、4月にルーズベルト大統領が脳溢血で急死したことで、副大統領職から突然トップに就任したのが、ハリー・トルーマンであった。そして7月の連合国首脳会議であるポツダム会談のときに、トルーマン大統領はこの原子爆弾の完成、その実用化の報告を受けたのではないか、と伝わる。

 一般には、彼は、その就任からわずか3週間後に広島・長崎に投下することを決定するにいたったとされるのだが、確かなところはわからない。もしくは、そのトルーマンが市街地への原爆投下を承認した事実が見つかっていないのを根拠に、軍の「暴走」で市街地への投下が行われたという説(例えば、2016年8月6日放送のNHK「NHKスペシャル、決断なき原爆投下」)も提出されている。

(続く)

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