♦️333『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコの独立(1521~1862)

2018-11-21 21:02:53 | Weblog

333『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコの独立(1521~1862)

 1521年、エルナン・コルテスの率いるスペインの軍隊がアステカ王国を征服したことで、スペインによるメキシコの植民地支配が始まる。

 1808年9月15日、メキシコ植民地の独立を警戒するスペイン人たちがクーデターを起こし、メキシコにおける主権の一端を担おうとするヌエバ・エスパニャ副王イトゥリガライをとらえてスペイン本国に送り返すとともに、クリオーヨよりなる市会中の過激な意見の者たちを投獄する。

 これに対し、クリオーヨの中から、きたる1810年10月を期して蜂起する計画が立てられる。これが伝わるや、官憲は9月13日に首謀者を逮捕した。すると、その反体制派グループのメンバーで、メキシコ市から200キロメートルほど離れた村のイタルゴ神父が、16日教会の鐘を打ち鳴らし、集まった群衆に味演説を行った。

   その内容だが、スペイン官憲の独立派民衆に対する弾圧を激しく非難し、人々に蜂起を訴えるものだった。はたして、彼らは直ぐに行動を起こし、当時最大の鉱山町であったグァナファトに向かって行進し始めた。

   イタルゴに率いられた群衆の数は、グァナファトに着いた9月23日には、2万人以上に膨れ上がっており、農民に対する人頭税の廃止、奴隷制の廃止、不当に奪われた農民の土地の返還などを叫んだ。

   しかし、総勢がさらに増え、彼らがメキシコ市に迫った時には、クリオーリョたちはこれ以上の反乱を望まなくなっており、武装した群衆の隊列はスペインの官憲と軍の攻撃を受け、撃破された。イタルゴ神父とクリオーヨの協力者たちは、アメリカに逃れて態勢を立て直そうとしたものの途中で捕らえられ、その年の夏署名された。これが、メキシコでの独立戦争の開始とされている。
 こうしたイタルゴらの行動は、長らく植民地に甘んじてきたメキシコ人民の心に大いなる覚醒をもたらしたであろう。イタルゴの訴えた中にはスペインからの独立は明確ではなかったが、後継のホセ・モレーロスは、スペインからの独立と共和制を掲げるも、戦闘に敗れ、同年12月に銃殺される。

   おりしも本国では、フランスのナポレオンの脅威が去って、1812年憲法が廃止され、絶対主義王制が開始されたものの、これに対し1820年に軍隊の反乱がおこり、憲法が復活される。これに触発されたメキシコ駐在のスペイン人たちは、軍隊指揮官のアグスティン・デ・イトゥルビデを先頭に、むしろ自分たち支配層の特権を守るためにメキシコを穏健な形で独立に導くのがよいと考えた。

   そして迎えた1821年秋、彼らは、新しくスペイン本国からメキシコに赴任した軍事総督オドノフとコルトバで会談し、「メキシコ帝国」の独立を認めさせた。その体制としては、アグスチン・イトルビデ将軍が中心となって、帝政が敷かれる。続いての1824年には、帝政から共和制への移行があった。
 1862年に、フランスがメキシコを占領する。皇帝には、ナポレオン3世の親戚であるオーストリア大公マクミシリアンが就任する。そのときの軍事侵略の正当化の理由が奮っていた。いわく、「1821年のメキシコ独立以降の年月にたまりたまった未払いの債務が支払われていない」というのであった。

(続く)

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