145『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸大橋線沿線1(児島~下津井)
児島駅を出発して市街をしばらく走ると、列車は鷲羽山(わしゅうざん、倉敷市)トンネルに入る。
鷲羽山は、瀬戸内でも有数の景勝地とされる。児島半島の南端付近、備讃瀬戸に乗り出すような地形の先端にある。標高133メートルの山が、海面から屹立している。山姿が類稀である。両翼を広げ大空を羽ばたいている鷲に見えるとことから、江戸時代中頃に誰彼となくこの名が付けられた。
ごつごつした岩石肌の露わな山頂の「錘秀峰」からは、180度ある程の広角度で見晴らしがよい。ここから見下ろす風景は、文豪・徳富蘇峰により「内海の秀麗ここに集まる」と絶賛された。
それというのも、かかる山の全体が、1930年(昭和5年)に「下津井鷲羽山」として国指定名勝に指定、さらに1934年(昭和9年)には、この地区を含む瀬戸内海一帯が日本最初の国立公園「瀬戸内海国立公園」に指定された。
この辺り、霞がかっていない日には、瀬戸内海に浮かぶ釜島、櫃石島、六口島、松島、与島、本島、広島、豊島などの島々が眼下に広がって見えた筈だ。そして、それらの向こうには、四国の山々まで見渡たせたであろうか、あれは小学校の遠足時であったろうか、その時の記憶をたぐり寄せてみるのだが。
もちろん、瀬戸大橋(児島・坂出ルート、瀬戸中央自動車道・JR本四備讃線⦆はなかった。それでもバスで鷲羽山に上る時、下るとき、あれは水島の工業地帯の海沿いの尖端部あたりであったのかもしれない。その時のきらきらした白いタンクや、赤白まだらな煙突群などをちりばめた光景が、あれから半世紀余が過ぎた今でも、ほとんど色褪せることなく脳裏に焼き付いて離れていない。
このあたりの海は、古代、近世から明治の中期位までは、瀬戸内地域の天然の良港として栄えたことで知られる。向かって左、東側には田之浦(たのうら、倉敷市)が、向かって右の西側には下津井(しもつい、倉敷市)の港町である。
後者の下津井は、東隣の田之浦と結んで、備前を通る西海航路の起点となっていた。江戸中期以降は北前船が盛んに寄港して交易していた。萩野家などの多数の問屋の蔵が建ち並んでいた。当時の遊山や金比羅参りへの中継地にもなっていて、当時四国へ向かう旅人の多くはここから讃岐へ渡っていたらしい。
かのドイツ人医師のケンペルも、1691年(元禄4年)に長崎から瀬戸内海を経由して畿内そして江戸へ向かうおり、海上から下津井港を描いた、その絵を『江戸参加府記』に掲載している。
顧みれば、1640年(寛永17年)には、牛窓にもあった幕府の異国船遠見番所が下津井に出来た。1660年(万治3年)になると、さらに在番所が設けられたことで、海上警備や出入りの船の監視・取締まりが強化されていった。
さらに、参勤交代にここを通る西国大名や将軍の代代わりにやってくる朝鮮使節団の接待の場所としても、あれやこれやで便宜であったらしい。さらには、漁港としてもなかなか羽振りが良かったようで、『下津井節』なる漁歌に、こうある。
「1.下津井港はヨー、入りよて出よてヨー、まとも巻きてよ、よぎりよてヨー、トコハーイ トノエー、ナノエーソーレソレ。
2.下津井港に、錨を入れりゃ、街の行灯(あんど)の灯(ひ)が招くよ(以下、略)」
念のため、これに出てくる「まとも巻きてよ」とは、追い風をまともに受けて船が走ること、また「よぎりよてヨー」とは、向かい風に向かって船がジグザグに進んでいく様をいう。
さて、本線に戻ろう。この鷲羽山トンネルを抜けると、いよいよ瀬戸大橋の始まりとなる。橋の構成は、6つの橋と4つの高架橋で本州と四国とを結ぶ。自動車道を通っての場合、橋を通って観光客が立ち寄れるのは、パーキングエリア(休憩所など)と観光施設が設置されている与島(よしま)とのことだ。
(続く)
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