♦️638『自然と人間の歴史・世界篇』コロンビア(1538~)

2018-11-16 09:54:17 | Weblog

638『自然と人間の歴史・世界篇』コロンビア(1538~)

 コロンビアでは、1538年にヒメネス・デ・ケサダが、当時チャド族のいた土地に植民都市を建設した。以後、38金鉱山などの事業を展開していく。1718年には、スペインはボゴタに副王を置き、いまのコロンビア、エクアドル、ベネズエラ、パナマを合わせたヌエバ・グラナダ副王領を統治する。

 1810年7月には、その副王をボゴタのクリオーリョたちが追放し、独立を宣言する。スペインとの戦いがあっての1819年8月には、植民地解放軍がボゴタに入場する。そして迎えた1821年、グラン・コロンビアとして独立を果たす。

しかし、この共和国は1830年に解体し、エクアドルとベネズエラがそれぞれ分離し、独立していく。今のコロンビアはヌエバ・グラナダ共和国として落ち着く。

   1857年には、グラナダ連邦共和国に、1863年にはコロンビア合衆国と国名を変更していく。そして迎えた1866年、ようやく現行憲法のもととなる憲法が制定され、コロンビア共和国の国名となる。

 1880年には、ラファエル・ヌニェスが自由党穏健派と保守党の支持をとりつけ、大統領になる。この時期、コーヒー栽培が飛躍的に増大し、輸出が好調であった。1886年憲法においては、「コロンビア共和国宣言」を出し、それまでの連邦制から中央集権制へと変わった。

 そして迎えた1903年11月3日には、パナマが分離独立していく。これには前史があり、1899年から1902年の間に、保守党政権と自由主義者との内戦があり、「千日戦争」と言われ、10万人以上の死者が出た。保守党政権はなんとかこれを鎮静化させたものの、1903年新たな問題が現出した。

 というのは、千日戦争がパナマに波及したとき、政府はアメリカ軍に援助を要請したのだが、これがパナマ地区に運河をかける話の発端となった。いったんアメリカとの間で運河蛍雪についてのヘイ・エラン協定が政府間で結ばれる。しかし、コロンビア議会上院がその批准を拒否した。すると、パナマ地区で不満が増し、アメリカからの支援のもとにコロンビアを見限るのである。

 1929年の世界恐慌では、コロンビア経済を支えるコーヒーなどの一次産品の輸出が激減し、経済が傾く。1934年から1946年まで、自由党政権下で国内産業の保護や労働者の権利の保障といった自由主義政策が進む。

 しかし、1946年の選挙で保守党が政権を奪還すると、反動政治が始まる。1948年には、自由党の政治家ガイタンが暗殺されたのを契機に、ボゴタ暴動がおこり、以後10年間にわたり、ラ・ビオレンシア(暴力の時代)が続く。

 1953年には、ロハス軍事政権が発足し、57年まで強権政治が続く。1958年になって、自由・保守党の国民戦線協定が成り、これが1974年まで続く。1991年には、新憲法が成立する。

(続く)

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