気ままに

大船での気ままな生活日誌

江戸時代の横綱と雷電 相撲博物館

2014-06-03 07:45:01 | Weblog

両国の国技館に相撲博物館があるのをご存知でしょうか。ぼくは、毎場所一日は相撲を観に行っているので、そのときは必ず寄る。稀勢の里が好成績を残した夏場所での博物館の特別展は、”江戸時代の横綱と雷電”。

江戸には12人の横綱がいた。そして横綱にはどういうわけかならなかったが、史上最強力士といわれる大関雷電も江戸の名力士だ。これら力士たちの紹介と、当時盛んに描かれた浮世絵、手形、そして実際使われた、綱、化粧まわし、締め込み、足袋など、そして横綱免状などの証文が展示されている。相撲好きには楽しい展覧会である。

江戸のお相撲さんについて知る機会が少ないので、エピソードなどメモしてきた。ふーん、そうだったんだというようなことばかり。(ホームページにも詳しく出ている)

初代横綱 明石志賀之助(宇都宮市?出身)
寛永元年(1624)、江戸四谷の笹寺(長善寺)で、江戸での初めての勧進相撲を興行したと伝えられる力士。明治22年(1889)に、陣幕久五郎が歴代横綱の代数を考案した際、初代横綱とした。経歴はほとんど不明だが、宝井其角の俳句に詠まれている。

2代横綱 綾川五郎次(栃木市?)
人気力士だったようだ。陣幕が綾川を横綱としたのは、谷風、小野川に横綱免許が与えられる際に、丸山権太左衛門と綾川がその先例だったとの資料に基づいている。

3代横綱 丸山権太左衛門(宮城県登米市)
前述のような理由で横綱に。手のひらが25cmあり、押しを得意とした。俳句をたしなみ、手形に「ひとつかみいざ参らせむ年の豆」の句を記して配ったといわれる。

4代横綱・谷風梶之助
小野川喜三郎とともに史実としては初めての横綱。免許証も実在する。仙台藩のお抱え力士。63連勝の記録をつくったが、5代横綱・小野川喜三郎に止められる。白鵬も63連勝、稀勢の里に止められる。だから稀勢も横綱になるノダ。寛政の黄金時代といわれる一時代を築いた。

5代横綱 小野川喜三郎(大津市)
久留米藩の抱え。寛政元年(1789)11月、谷風とともに横綱免許を受けた。谷風との対戦成績は、谷風の6勝3敗3分2預3無勝負。

大関・雷電為右衛門(長野県東御市)
谷風没後の相撲界を支え、寛政から文化年間にかけて無類の強さを発揮する。江戸本場所での負け星はわずか10番で、勝率は9割6分2厘だったという。最強力士といわれる由縁。197cm、170Kgの巨体から繰り出す突っ張りや寄りを得意としていた。

6代阿武松緑之助(石川県能登町)
しこ名は萩の名所”阿武(あぶ)の松原”に由来する。立合が慎重で待ったが多かった(笑)。講談をもとにした「阿武松」という演目の落語でも知られる。

7代横綱 稲妻雷五郎(茨城県稲敷市)
阿武松を好敵手として文政から天保にかけての相撲界を牽引した。書が多く残り、俳句もたしなんだ。相撲に対する心構えである「相撲訓」を説いたことでも知られる。

8代横綱 不知火諾右衛門(熊本県宇土市)
大阪相撲で出世して、松江藩の抱えとなる。のち江戸相撲に登場して、出身の熊本藩に抱えられた。しこ名は熊本の八代海に夜現れる無数の火にちなんだもの。

9代横綱秀ノ山雷五郎(宮城県気仙沼市)
歴代横綱で最も身長が低い。小兵ゆえに若いころは稽古もつけてもらえなかったが、強い気持ちで乗り越えたとのこと。

10代横綱 雲龍久吉(柳川市)
横綱土俵入の型にその名を残す。鶴竜がこの型。大坂相撲を経て江戸相撲へ登場。郷里の柳川藩の抱えとなる。組んでじっくり取る相撲を見せた。律儀で謙虚な人柄で慕われた。養父である師匠の後を継いで年寄・追手風となり、相撲会所の運営に携わり、部屋を経営したが関取は出なかった。

11代横綱 不知火光右衛門 (熊本県大津町)
横綱土俵入の型にその名を残す。白鵬、日馬富士がこの型で、二人の横綱の不知火型は史上初。大坂相撲で先代不知火の弟子となって修行。江戸相撲へ出て、熊本藩の抱えとなる。華やかな取り口と美男で人気があった。明治になると大阪相撲に復帰し、横綱土俵入だけを披露。その後、頭取・不知火となる。

12代横綱 陣幕久五郎(島根県松江市)
慎重な相撲で、なかなか負けないことからついた異名は”負けず屋”(笑)。大坂相撲で修行したのち、江戸相撲に登場。明治になると大阪相撲に戻り”頭取総長」として、大阪相撲の独立に尽力。大阪相撲を離れたのちは、東京の深川八幡宮の「横綱力士碑」も建てた。この碑を建てるにあたって陣幕が考案した歴代横綱の代数が現在に受け継がれているとのこと。

展示品の中に”谷風梶之助横綱免許状”があった。免許を授与している人物の名をみると吉田追風とある。そこには説明がなかったが、ピンときた。熊本の義父が、むかしは横綱になるには、熊本までこなきゃいかんとです。免許ばもらわんとね。自慢そうに語っていた。吉田司家が最近まで(とはいってもぼくの少年時代)40代横綱東富士まで免許を出していた。次の千代の山から相撲協会に権限委譲された。しかし、その後しばらく、隆の里(稀勢の師匠)までは、吉田司家は推挙式には出席していたし、九州場所のときは、熊本で奉納土俵入りもしていたそうだ。

雷電為右衛門(春亭画)と稲妻雷五郎の化粧まわし

大相撲横綱鏡 歌川豊国(三代) 画
中央一番上の明石志賀之助から時計回りに、谷風梶之助、阿武松緑之助、秀ノ山雷五郎、稲妻雷五郎、不知火諾右衛門、小野川喜三郎。

これから、太田記念美術館に相撲絵を観に行ってきやす。

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