恐竜展がもう終わっていたので、企画展の、”化学者展”をのぞいてきた。知らなかったが、日本の科学者技術者展シリーズというのがあって、その第9回なのだそうだ。そして、今、何故”化学者展”なのかというと、今年は国連が定めた”国際化学年”で、なんとマリー・キューリーがノーベル化学賞を受賞してちょうど100年、国際化学連合も設立100年になる、節目の年ということだ。
そういうことで、本来なら化学者にとっては、沸き立つような一年になるはずだっただろう。それが、3・11の原発事故。放射能をはじめて見つけたマリー・キューリーを前面に出すのは気が引ける。ひっそりとお祝いというところだろうか。かっては放射能の量を示す単位に、ベクレルではなくキューリーを使っていたから、もし変わっていなかったら、毎日のように新聞やテレビで目にしたり、耳にするところだった。
さて、展覧会では、我が国の明治以降の近代化学の発展に大きな役割を果たした、桜井錠二、池田菊苗、鈴木梅太郎そして真島利行の4名の化学者の業績や履歴などが分かりやすく紹介されている。ふむふむ、なるほど、そうだっけ、昔、学校で習ったことがあるよな、と脳の奥の奥の小便記憶小僧に尋ねてみる。お勉強はそれくらいにしてと、ミーハーの私メとしては、エピソードのパネルの前で時間をとってしまったのでございます(汗)。
ナヌ、池田菊苗がロンドンで漱石と同じ下宿だって?そういえば、漱石のロンドン日記に学者さんらしき男が出てきたわいな。菊苗は味の素のモトになった、うまみのモト、グルタミンを発見された方。また、語学が堪能で、大学卒業も英語の先生もしていて、国学院では坪内逍遥の後任だったという。文学者と縁があるんやな。
ナヌ、森鴎外が鈴木梅太郎の研究にケチをつけたと。梅太郎は当時、細菌病ではないかといわれていた脚気の原因は微量栄養素の不足である、わたしの発見したオリザニン(ビタミンB1)で改善できる、と発表。しかし、医学関係者から農学分野の者が何をいうかと、猛反発。鴎外もそのオロカモノの一人だったのだ(爆)。それに、これは、ビタミン(事実上の)発見の第一号だったから、ノーベル賞をもらうべき業績だった。また女性門下生から日本初の農学博士(丹下うめ)を出したことでも知られる。
女性初の(化学の)理学博士(黒田チカ)を出したのは、真島利行。漆の主成分、ウルシオールの構造決定をし、有機化学の開祖といわれる。お母さんから、医者にだけにはなってくれるな、ほかは何をやってもいいから、と懇願され、この分野に進んだ。何故かというと、お父さんは緒方洪庵の適塾に学び、町医者をしていたが、過労で46歳で亡くなってしまったから。
桜井錠二は何のエピソードもないつまらない男です。
(桜井先生の関係者の気持ち)。いや、ひとつだけありました。幼名は錠五郎だったが、留学中に欧米人に親しみやすい錠二と改名した。ジョージか。しかし、つまらないエピソードだ。
でも、すごい方です。加賀藩士の六男として生まれ、5歳のとき父が亡くなり、家計は困窮した。お母さんは家財を処分し、錠二を東京に連れて行く。大学南校(現在の東京大学)に13歳で合格、そしてロンドン大学に留学。23歳で帰国し、理学部の講師に、翌年、教授になった。日本人二人目の化学の大学教員だったそうだ。日本の化学教育・研究の先鞭をつけた方です。
楽しい展覧会だった。次回は”ノーベル賞110周年記念展”とのこと。そのちらしに出ていた、ノーベルの言葉。”候補者の国籍は一切考慮せず、人類の利益にもっとも貢献した人物に授賞すべきこと” これまで、どうだっただろうか。
