
春信の話しはこうだった。お前のこと重助さんに描き下ろさせて、境屋の太夫(女形)、中村松江に演じさせ、舞台にあげようとゆう話しだ。お前にとってもいい話しだから、まずその役者さんに会ってもらおうと思って、今日、呼んだんだとのこと。すると、おせんちゃんは”お師匠さん、勘忍しておくんなさい。あたしゃ知らない役者衆と、差しで会うのはいやでござんす”と。”今さら思案もないであろう。こうしているうちにも、もうそこらへ、やって来たかもしれまいて”たとえば、青苔の上に、ふたつみっつこぼれた水引草の花に似て、おせんの、浮き彫りのような爪先は、もはや固く畳を踏んでいなかった。
様子がおかしいので、何かあるかと思い、春信は、まず客を待たせ、おせんの事情を聴く。”お師匠さん、勘忍しておくんなさい。あたしゃ、お母っさんにもいうまいと固く心に決めていたんでござんすが、もう何事ももうしましょう””おお、ではやっぱり何か訳があてのことか”と春信。”あい。わたしゃあの、浜村屋の太夫さんが、死ぬほど好きでござんす””えっ、菊之丞に” ”あい、おはづかしゆうござんすが”消え入るたいおせんの風情は、庭に咲く秋海棠が、なまめき落ちる姿をそのままの悩ましさに、面は袂におおい隠した。
当代一の若女形、瀬川菊之丞なら、江戸一番の相手にゃ、少しも不足はないからのお、境屋に会うのは気が差そう。こりゃ、なんといっても断るから安心するがいい。
(中盤のハイライトなので少し長くなりました

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”年からいえば五つ違いはあったものの、おなじ王子でうまれた幼馴染の菊之丞とは、けし奴の時分から、人もうらやむ仲好しにて、ままごと遊びの夫婦にも、吉ちゃんはあたいの旦那、おせんちゃんはおいらのお上さんだよと、たび重なる文句はいつか遊び仲間に知れ渡った”・・さて吉次はやがて舞台に出、子役としての評判がたち、3,4,5年と月日はたって、吉ちゃん、おせんちゃんと呼び合う機会はなくなってしまう。そのうち女形となり名声は高まり、二代目菊之丞を襲名する。人気女形のこと、どこどこの大名の妾が小袖をおくたっとか、何々屋の後家さんが帯をつくったとか、女出入りのうわさが絶え間なくおせんちゃんの耳に入っていたが、あたしゃ、やっぱり吉ちゃんが好きと数ある縁談を断ってきたのだった。
”名人由斎に、心の裏を打ちあけて、三年前に中村座で見た、八百屋お七の舞台姿をそのままの生き人形に頼み込んだ半年前から、おせんは今日か明日かと、出来上がる日を、どんなに待ったかも知れなかったが、心魂を傾けつくす仕事だから、たとへなにがあっての、その日まで見に来ちゃならねえ、行きますまいと誓った言葉の手前もあり、辛抱に辛抱を重ねて来たとどのつまりが、そこは女の、乱れる思いの耐えがたく、昨日と今日の二度も続けて、この仕事場を、密かに訪れる気になったのであろう。頭巾の中にみはった眼には涙の露が宿っていた。”親方、もし親方”。が、聞こえるものは樋を伝わって落ちる雨垂れの音ばかりだった。

今日も人形をみせてもらえず、さびしそうに雨の中を帰る、おせんちゃん。

雨の中、途中で若旦那徳太郎に会う。”お母さんの薬を買いに浜町までまいりました”とごまかし、涙にぬれて家に急ぐ。
(つづく)
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(今日のつぶやき)
昨日、母の月命日のお墓参りの帰途、北鎌倉で降り、東慶寺に入りました。3月から、5時まで開いているそうです。4時少し前でした。梅が満開に近く、とてもすばらしかったです。小林秀雄さんの祥月命日は前日の3月1日であると、前々日の新保さんの講演で知りました。小林さんの墓前には早咲きの桜がいっぱい供えられていました。
桜好きの本居宣長の執筆を始めた65年に、小林さんの宣長についての講演の音源がみつかったようですね。聞いてみたいです。
どうゆうわけか、東慶寺の多くの墓前に仏花が供えられていました。3月はじめに亡くなられた方が多いというわけではないでしようが、なにか理由があるのでしょうか。お彼岸はまだ先なのに。