ぼくのブログでは、龍馬を竜馬にしたり、定まらない。司馬遼太郎は”竜馬”だし、大河ドラマでは”龍馬”であるので、どちらでもいいだろうと、気ままに使っている。そういえば、読みかただって、ぼくの少年時代は、”りょうま”でなくて”りゅうま”だった。
今日もちょっと龍馬のことを書きたい。この日曜の、大河ドラマ”龍馬伝”に、日本画家が登場した。名前を河田小龍という。二条城の襖絵を描いたそうだ、とゆうくらいの説明があった。ちょっとこの画家のことを知りたくなり、司馬の”竜馬がゆく”を開いた。司馬は本を執筆する前に大量の関連資料を、司馬が住んでいた東大阪の近くの古本屋さんを通じて、全国から集め、それをもとに執筆しているので、小説といっても、史実の基本は崩していない、だから歴史書としても役立つのだ。
もちろん”竜馬がゆく”は、むかし読んでいるが、昭和48年刷りの頃だから、細かいことは憶えていないし、この画家のこともすっかり忘れていた。龍馬が千葉道場の留学期間を終え(免許皆伝となり)、土佐に帰り、そのとき、たしかに河田小龍に会っていた。”狩野派の画家で、藩のお抱え絵師である”、画家としての記述はそれしかない。(別の資料で調べたら、京で狩野永岳に師事し、前述の襖絵も師の手伝いで描いたらしい)。しかし、ただの絵師ではなかった。「漂巽紀略」とゆう、たいそうな本を書いている。”アメリカ漂流記”ともゆうべきもので、土佐出身のジョン万次郎が12年間の米国暮しを終え、帰国したときに聞いた話をまとめたものだ。
加えて、この絵師は、藩の命令で、当時我が国で最先進工業技術をもつ薩摩藩に行き、反射炉、ガラス工場、工作機械、大砲工場、造船所などを見学し、先端技術の知識をもっている。龍馬がこの絵師と出会い、西洋の機械文明のおそるべき発達を知ったのが、その後の龍馬の運命を決めたといって過言ではない。龍馬は、開国を迫る黒船を自分の目でみて、剣では巨大な黒船に勝てるわけはない、と考え、どうすれば良いのか迷っていたのだ。半平太ら、土佐の連中は、みな攘夷、攘夷とばかり叫んでいる。”土佐藩も日本も、ぼやぼやしちょられん。今の徳川幕府や土佐藩のやりかたでは、日本はつぶれてしまう”と龍馬は強く思うようになった。
”のう坂本さん、西洋に対抗する第一は、まず産業、商業を盛んにせねばならぬ。それにはまず物の運搬が大事であり、あの黒船が必要じゃ”と小龍。”よし、その黒船をなんとか都合しよう”と龍馬。龍馬はひまさえあれば、小龍の家に行き、半年ほど夢を語っていたという。”坂本の法螺船”と、城下で評判になっていたという。龍馬の、のちの海援隊の素地はここでつくられたのだった。
龍馬の師とゆうと、まず勝海舟が思い浮かぶが、土佐藩の一介の絵師、河田小龍も勝に負けず劣らず、龍馬の師といってよいであろう。
河田小龍の住居跡は、はりまや橋の近くにあるらしい。今度、また、よさこい祭りを観に行ったときにでも、捜してこよう。良かったなあ、土佐は。”ごめん”行き(笑)のちんちん電車があったけ。鰹のたたきと皿鉢料理を肴に、地酒、司牡丹をいっぱい飲んだなあ、ごめん。
。。。
大河ドラマ”龍馬伝”のポスター
そのポスターは、ここの、洋館内に掲示されていた。上野池の端の旧岩崎邸。岩崎財閥3代の岩崎久弥によって建てられた。岩崎弥太郎役の香川照之じょうずですね。弥太郎は、”竜馬がゆく”にもたまに出てきますよ。
金唐紙の壁紙
今日もちょっと龍馬のことを書きたい。この日曜の、大河ドラマ”龍馬伝”に、日本画家が登場した。名前を河田小龍という。二条城の襖絵を描いたそうだ、とゆうくらいの説明があった。ちょっとこの画家のことを知りたくなり、司馬の”竜馬がゆく”を開いた。司馬は本を執筆する前に大量の関連資料を、司馬が住んでいた東大阪の近くの古本屋さんを通じて、全国から集め、それをもとに執筆しているので、小説といっても、史実の基本は崩していない、だから歴史書としても役立つのだ。
もちろん”竜馬がゆく”は、むかし読んでいるが、昭和48年刷りの頃だから、細かいことは憶えていないし、この画家のこともすっかり忘れていた。龍馬が千葉道場の留学期間を終え(免許皆伝となり)、土佐に帰り、そのとき、たしかに河田小龍に会っていた。”狩野派の画家で、藩のお抱え絵師である”、画家としての記述はそれしかない。(別の資料で調べたら、京で狩野永岳に師事し、前述の襖絵も師の手伝いで描いたらしい)。しかし、ただの絵師ではなかった。「漂巽紀略」とゆう、たいそうな本を書いている。”アメリカ漂流記”ともゆうべきもので、土佐出身のジョン万次郎が12年間の米国暮しを終え、帰国したときに聞いた話をまとめたものだ。
加えて、この絵師は、藩の命令で、当時我が国で最先進工業技術をもつ薩摩藩に行き、反射炉、ガラス工場、工作機械、大砲工場、造船所などを見学し、先端技術の知識をもっている。龍馬がこの絵師と出会い、西洋の機械文明のおそるべき発達を知ったのが、その後の龍馬の運命を決めたといって過言ではない。龍馬は、開国を迫る黒船を自分の目でみて、剣では巨大な黒船に勝てるわけはない、と考え、どうすれば良いのか迷っていたのだ。半平太ら、土佐の連中は、みな攘夷、攘夷とばかり叫んでいる。”土佐藩も日本も、ぼやぼやしちょられん。今の徳川幕府や土佐藩のやりかたでは、日本はつぶれてしまう”と龍馬は強く思うようになった。
”のう坂本さん、西洋に対抗する第一は、まず産業、商業を盛んにせねばならぬ。それにはまず物の運搬が大事であり、あの黒船が必要じゃ”と小龍。”よし、その黒船をなんとか都合しよう”と龍馬。龍馬はひまさえあれば、小龍の家に行き、半年ほど夢を語っていたという。”坂本の法螺船”と、城下で評判になっていたという。龍馬の、のちの海援隊の素地はここでつくられたのだった。
龍馬の師とゆうと、まず勝海舟が思い浮かぶが、土佐藩の一介の絵師、河田小龍も勝に負けず劣らず、龍馬の師といってよいであろう。
河田小龍の住居跡は、はりまや橋の近くにあるらしい。今度、また、よさこい祭りを観に行ったときにでも、捜してこよう。良かったなあ、土佐は。”ごめん”行き(笑)のちんちん電車があったけ。鰹のたたきと皿鉢料理を肴に、地酒、司牡丹をいっぱい飲んだなあ、ごめん。
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大河ドラマ”龍馬伝”のポスター
そのポスターは、ここの、洋館内に掲示されていた。上野池の端の旧岩崎邸。岩崎財閥3代の岩崎久弥によって建てられた。岩崎弥太郎役の香川照之じょうずですね。弥太郎は、”竜馬がゆく”にもたまに出てきますよ。
金唐紙の壁紙