気ままに

大船での気ままな生活日誌

函館五稜郭

2007-08-04 09:50:49 | Weblog
前夜、函館山からのすばらしい夜景に感嘆したボクらは、翌朝、市内の五稜郭へ向かった。あの榎本武揚や土方歳三らが、函館戦争で政府軍に対抗し、立てこもった城跡だ。ヨーロッパの城郭都市をモデルに設計したというこの城は、従来のお城のイメージとは全くかけ離れた、低層のものだったらしい。その上、城を囲む堀と石垣が異彩を放っている。建物は焼失してしまったが、堀と石垣は往時の姿をとどめている。その全容を公園内の五稜郭タワーの展望台から見渡すことができる。

展望台にあがると、その姿が突然、眼下に現われる。堀と石垣が、現在は公園になっている城跡を大きくとり囲んでいる。そして、それが見事な星型になっている。敵から攻撃を受けにくいようにと考えられた形だそうだが、とてもそれだけとは考えられない。上から観られることを意識して設計したのではないかと思う。それほど、エレガントでうつくしい、感動的ですらある。

ペリー来航により開港場となった函館を治めるために幕府は函館奉行所を設置した。そのとき、要塞としてこの五稜郭もできた。建設には蘭学者の武田斐三郎が中心になったが、フランス人の建築家の協力もあったという。これにはこんな逸話がからんでいる。まだ国交を結んでいなかった時代の、フランスの船籍が函館沖で遭難したときに、奉行所が助け船を出した。それ以来、フランスは敬意をもって奉行所に接したという。そして、この城郭の建設にも自国の技術を提供し、そればかりでなく、のちの函館戦争のときには自国の武官まで差し出している。

展望台の”歴史回廊”で、以上のような来歴を知り、感慨にふける。回廊の反対側に回ると、突然、土方歳三の座像が目に飛び込んでくる。司馬遼太郎の”燃えよ剣”の場面が目に浮かぶ。函館山からの官軍の猛攻撃で、最後の砦となったこの五稜郭で、榎本武揚や大島圭介は籠城をすでに決意しているらしい。籠城とゆうことは、降伏だ、そして出来れば生き延び、新政府に取り入りたい魂胆だ、と土方歳三は思う。そんなことをしたら、先に死んでいった近藤勇や沖田総司らに面目がたたない、生き恥をさらすことはできない、と密かに思う。

明治2年5月11日。歳三は馬上。従うものはわずか50人。「私は少数で錐のように官軍に穴を開けて突っ込む、諸君はありったけの兵力と弾薬でその穴を拡大してくれ」と戦場に突撃してゆく。勝ち目は始めからなかった。近藤や沖田のもとにゆくと心に決めての突進であった。そして、函館市街の栄国橋付近で壮絶な最後をとげる。その6日後に五稜郭は降伏。8人の閣僚のうち、戦死したのは歳三だけだった。生きながらえた7人のうち、榎本、大島ら4名はのちに新政府に仕えた。

役者顔とまでいわれた端正な歳三の顔の向こうに、歳三に負けないぐらい端正な、うつくしい、星形のお堀が静かに佇んでいた。そんなに激しい、つらい過去があったことをおくびにも出さずに、歳三像と五稜郭は静かに、静かに佇んでいた。
 
 
コメント
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