気ままに

大船での気ままな生活日誌

由布姫の里

2007-04-03 18:24:18 | Weblog
このツアーには、歴史作家の方が同行していて、バスの中で「風林火山」の時代背景を分りやすく説明してくれます。私も、むかし読んだ井上靖さんの「風林火山」の文庫版を持ち歩き、ときどき目を通していました。2日目は主として、由布姫ゆかりの地を訪ねます。

先生のお話によると、当時の女性は高貴な方でも名前がなくて、この由布姫の名付け親は井上靖さんだそうです。因みに新田次郎さんは湖衣姫(こいひめ)という名前にしています。諏訪御寮人が正確な表現かもしれませんね、海音寺潮五郎さんの「天と地と」ではそう呼んでいます。由布姫の読み方も、テレビなどでも”ゆうひめ”としていますが、文庫本のルビは”ゆぶひめ”となっています。もともと名無しのごん平、失礼、名無しのごん子ですから、どうでも良いですね。

歴史小説は、史実を大事にしますが、書かれている物語の多くは作家の想像によるものだそうです。でも”事実は小説より奇なり”という言葉がありますように、由布姫の物語も、小説以上のものがあったのではないかと私はにらんでいます。

山本勘助(もともと史料にはあまり現われない謎の人物だそうです)が初めて由布姫に会ったのは諏訪湖畔の上原城です。諏訪頼重に和議を奨めにきたときで、頼重の美貌の娘、由布姫が14才のときでした。みな和議を喜んでいましたが、彼女だけが敵意の目を向けます。その1年後、頼重は謀られて殺され、上原城は晴信(信玄)の所領になります。近くの高島城にいた由布姫はこのとき自害せず、「私は生きのびて、この諏訪の城が湖がどうなっていくかを見届けたい」と勘助にするどい目を向けます。勘助は彼女を連れだし、対岸の湖南の丘の上の小坂の観音院に一時住まわせます。

その後、由布姫は甲府に連れていかれ、すでに目をつけていた晴信の側室になります。父を殺した男の側室になり、そして四郎勝頼を生んだ由布姫の心のうちは本当はどうだったのでしょうか。当然正室の三条氏とはいさかいが起こったでしょう、2年ぐらいで諏訪に戻されます。小説「風林火山」では、このとき、甲府を離れるのがいやで、運ばれる途中に逃げ出したことになっていますが、本当はどいう気持ちだったのでしょうか。諏訪では、小坂の観音院に落ち着き、生涯をそこで暮らします。生涯と言ってもわずか25才の若さで亡くなります。

私達はまず、由布姫が合戦後連れてこられた、そして晩年を過ごした小坂の観音院を訪れました。小高い丘を登ると、この観音堂がありました。そこには由衣姫の供養塔が佇んでいました。そして、その供養塔を囲むように、井上靖、水原秋桜子の記念樹、星野立子の参詣記碑がありました。由衣姫がながめた同じ景色がそこにはありました(写真)。この丘の上から、諏訪湖の対岸には彼女が若き日をすごした上原城や高島城が遠くに見えたはずです。またのちに、信玄の石棺がこの湖水に沈められたといわれています。来世で二人は幸せな日々を送っているのでしょうか、それとも・・。

そして、対岸の上原城跡に向かいました。バスが入らない小径をタクシーで上へ上へと登ります。途中から登城道を歩いていきますと、巨大な物見岩がそそり立っています。さらに神社の脇を登ると主郭跡に至ります。今も当時は木管で作った水道が、どくどくと水を吹き出していました。「カモシカがいる」との、どなたかの声に山の下を見ると、一匹の黒いカモシカがゆうゆうと歩いていました。それだけ山奥だということです。ここに住めば、防御上安心だろうなと思いました。子供時代の、気の強そうな由布姫がカモシカや野うさぎを追いかけている姿が思い浮かびました。

こうして、風林火山の舞台となった場所を実際に見聞したあと、帰路のバスの中で再読した、井上靖さんの「風林火山」の面白さは格別でした。おみやげは、信玄袋に入った桔梗信玄餅とワンカップ清酒「由布姫」にしました。
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