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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

子育ては「連動」

2009年02月13日 | う゛う゛ー
 年末年始の大風邪がたたり、年明けから1ヶ月、運動らしい運動ができませんでした ランニングとまではいかなくても、ちょっとしたジョギングを・・・と何度も思い立つのですが、まずは気持ちが奮い立ちません 一度体調を崩すと、こんなに後々まで響くのか・・・と、かなりブルーになりました
 
 こういうことは、きっとランニングだけではないでしょう。
何事も、勢いを持って進み出したら、よほどのことがない限り、止まってしまってはいけない 形容で言うところの「立ち止まる」は、止まってしまう、ストップする、ということではないはずです。
 「立ち止まる」意味は、気持ちだけで前に前に進むのではなく、一度スピードを緩めて深呼吸をしたり、あらためてまわりを眺めたりすること・・・止まったとしても、足踏みはやめずに、息を整え、気分を新たにして、次に進む力を養う、ということでしょう

 さてさて。
そんな私も、やっと先週からランニングを再開 3月1日の三浦マラソンに向けて、調子を戻さなくてはなりません。
 ところが、横浜国際競技場そばの鶴見川を走り出すと、2キロほど走っただけで、右膝が痛み出しました ゲゲーッ・・・確かに、本格的にランニングを始めた頃から、調子が悪い時には右膝が決まって痛くなったのです。
 走るスピードを緩めても、痛みは引きません。結局、止まるしかないのです ところが、ほんの一瞬止まるだけで、なぜか痛みは消え、すぐに走り出せる・・・そして、また2キロほど走ると痛む・・・この繰り返しでした

 そこで、以前から懸案になっていた、スポーツトレーナーの曽我先生のところに行ってみることにしました 
 スポーツ選手でもなく、ガンガンとクラブ活動をしている大学生でもないのに大層だなあ・・・と思われるかもしれませんが、この年齢になっているからこそ、また、これから長くスポーツを楽しもうとしているからこそ、身体のメンテナンスは必要不可欠だと感じています
 その先生は、長年、ミズノ所属の陸上選手や、レナウンのアメリカンフットボールのチームを診てこられた方で、現在は東急東横線の祐天寺で「TKC BODY DESIGN ( TKC ボディーデザイン)」というクリニックをなさっています。
 たまたま、私や主人が所属しているトライアスロンのチームが、最近、懇意にしている陸上の為末大選手のパーソナルトレーナーをされている、というご縁で、年末の忘年会に、曽我先生は為末選手と二人でおいでになったのでした
 その忘年会の席でご一緒し、膝の話しや時々痛くなる右足の裏の話し、とっても固い股関節や手首の関節、動きの悪い肩胛骨等(要するに、長年、なーんにも身体を動かしてこなかったため、あちこちにガタがきていたり、ガタがきていることにさえ気づいていない私でした)、お話をうかがっていました。

 いよいよ、ボディーデザインに行く日です
事前に予約を入れ、久しぶりのランニングでの膝痛や、あらためて各所の問題をメールで知らせていたので、きっと、「いかに動きが悪いか、いかに固いか」を私が一生懸命にお見せし、各所に施術をしていただくのだと思っていました
 ところが・・・です。時間をかけた問診のあとは、先生がいろいろとチェック。私が自らガタがきている身体をご披露することはありませんでした

 その施術の間、曽我先生は根本的な筋肉の話しや、関節の話しなどを教えてくださり、「私の知らない、私が気づいていない」部位の筋肉の固さや、動きの悪さなどを指摘し、私を驚かせました 
 施術では、痛気持ちいいマッサージをしたかと思えば、今度は鍼を打ったりして・・・最後には、非常に理論的にわかりやすく伝えてくださりながら、「私自身が自分の身体を知り、その上で家庭ですべきストレッチや運動」を紹介してくださいました
 このお教えくださったストレッチや運動が、とても簡単なものなんですよ 1日に何分間!とか、何回!とかを課すものではなく、あくまで、原理を教えてくださり、その効果を解説してくださるものでした

 先生は、私が固い固いとうるさく言っている股関節をギシギシされたり、肩をバキバキ、ギュッギュ・・・とかされず、あくまで各所を丹念に動かしながら施術をなれただけでした。
 なのに、本当に驚いたことに、私の肩はなぜか軽々と回せたり動くようになっていて、股関節も目に見えて柔らかくなっていたのでした

 何にでもすぐに感動し、とても知りたがる私です 先生に、なぜ、そんなふうに動きが良くなったのか?どうなっていたのか?どうしたのか?今後はどうすれば良いのか?・・・とおたずねをしました。
 先生のお答えは、それはそれは「壮大な身体の不思議」を教えてくださるものでした。
 たとえば・・・「膝」が痛いからといって、膝そのものが悪い、何か膝に故障が生じた、というだけではない、ということ。太ももの前の筋肉の動きが悪かったり、筋力が弱かったりすることが原因で、膝に負担がかかって痛むこともある・・・とか。これは、ほんの一例です。まあこれは、よく言われることかもしれませんね。
 けれど 上手に表現できないのが残念ですが、医学的な理論や理屈というのではなく、あくまでも、さまざまな「人の身体の動き、筋肉の構造、関節の成り立ち、各種スポーツで動かす部位やその発達」などをわかりやすく説きながら、話してくださるものでした

 私はこのことから、日頃はあまり意識していなかった「真理」にあらためて気づかされた思いがしました
 当たり前ではありますが、「私たちの身体は各部分が独立して、それぞれがそれぞれの機能で動いているのではなく、実際には、それら一つ一つすべてがつながり、すべてが連動、連携して動き、それが一つの『力』になって私たちを生かしている」ということです

 帰り際、最後に先生が確認をなさるように言われたことは・・・
「教えられた運動やストレッチを、地道に、気長に続けていくことの重要性」
「続ければ必ず治っていく、身体本来が持っている力」
 でした。

 私は、先生のところを出てから帰宅するまで、時々、かるーくなった肩をくるくると回しながら、自分の身体とは別のことを考え、にんまりとしてしまいました 子どもを育てていくのも、同じ、です
  うちの子は人前に出るのが苦手だから、子役を養成する劇団に入れてみる・・・
  落ち着きがない子だから、春休みや夏休みには短期のお寺修業に行かせてみる・・・
  手先が不器用だから、あみもの教室に通わせてみる・・・
 これらは、全部、本当の話です。
子どもを思う親の思いは尊いですし、親が真剣であればあるほど、安直にその思いつきを笑うことはできません
 けれど、膝の痛みの原因が、膝にあることのほうが意外と稀だ、と教えてくださった曽我先生のお言葉と同じく、私も子育てにおいても、同じこと、を思うのです
 
 子どものさまざまな行動が、必ずしも短絡的には解決しないもの、だと・・・
一つ一つの機能が連動しているように、子どもの行動や言動は、子ども達の「心」「気持ち」「意識」に由来しているものが多いものです
 
 親が、わが子の行動や言動という「目に見えるもの」だけを見て、それに一喜一憂しているだけでは、さまざまな判断を間違うだけではなく、わが子を見失ってしまったり、わが子の大切なサインを見落としたりしてしまうことは多いものです

 ぐずぐずと行動する子を、いつもいつも眉間にシワを寄せ、叱りつけて急かせるだけでは、その子の行動をスピーディーには出来ないですよね にも関わらず、親は案外、毎日毎日・・・時には1年も2年も、「早くしなさい 遅れるじゃなの」と同じ言葉、同じパターンのことしか言っていないことは多いです。

 すべてが連動している・・・私は、すっかりこの言葉にヒットしてしまいました

  
 ご参考までに・・・
 「TKC BODY DESIGN ( TKC ボディーデザイン)」
 〒153-0052 東京都目黒区祐天寺1-27-2 コートガーディニア201 Tel.& Fax. 03-6659-6167



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心の中の黒い部分

2009年01月30日 | う゛う゛ー
 オバマ大統領の就任を間近に控え、突然、パレスチナ・ガザ地区の空爆が終結しました。けれど、罪のない大勢の子ども達が犠牲になったこの不条理な戦闘・・・いったい、彼らは、なぜ短い命を終えなければならなかったのでしょう

 以前、ブログで触れたことがありますが、私が初めて広島の平和記念資料館を訪れたのは小学校4年生の夏でした。
 昭和44年、終戦後24年目。当時の平和記念資料館の展示は、思えば現在の展示の仕方、展示内容より、もっともっと直接的で、むき出しのストレートのままだったように思います。
 きっとそれは、意図的にそうしようとしていたのではなく、当時の映像の展示技術や、展示の構成力などが、今よりずっと稚拙であった、というのが原因だったのでしょう。
 精巧なジオラマや音響効果のおかげで、現在の展示は昔より事実が伝わりやすいのに、心に与えるインパクト、原爆というものへのショックは、昔の平和記念資料館のほうが強かったように思います・・・
 とにかく。4年生の私は、心底、平和の尊さというものを五感で感じ、人が人を殺める戦争は無意味で、何の利もないことを痛感したのでした

 先日の宮内庁の歌会始。
福岡の久留米大学附設中学在学中の北川光くんの歌が、最年少で一般から入選しました。彼の歌は・・・
 修学旅行で訪れた広島の平和記念資料館。彼は、展示の中にあった「人の影」の写真を見ました。
 その影とは、石段の上に残された人の影で、原爆投下時、そこに座っていた人が強烈な原子爆弾の熱線にさらされ、出来たものです。当然のことではありますが、その「人」は影だけを残して原爆によって即死されたのでしょう。北川くんの頭には、その「影」が鮮烈に残りました。
 展示を見終えて、夏の強い日差しのもとに出てきた北川くん。広島の太陽に照らされ、まさに北川くんの「影」は、北川くんの動きについて動き回ります。
「あの人の影は、二度と動くことはないのに・・・」北川くんは、自分の影を見ながら、そう思ったのだそうです。
 
 私も、その「影」の写真のことを、とてもよく覚えています
もっともっとインパクトのある写真や展示があったのに、なぜか、あの「主のいない影」が、強烈な物言わぬ声となって、平和な時代に生きる人々に訴えているように思いました

 あの戦争から60余年。
時は流れ、テレビやインターネットという画期的な情報手段が生まれ、未曾有の殺し合いである戦争が、まるで実況中継のように、全世界にオンタイムで配信される時代になりました
 世界中の人々は、爆弾が落とされる様子、血だらけで逃げまどう人々の画像を、ご飯を食べながら、のんびりしながら見ることができる・・・見てしまえる?
 ベトナム戦争以降、兵士達が命の危機にさらされ、敵に対峙しているその一方で、その瞬間をタイムリーに伝える「非戦闘員」が、戦うすぐ彼らのそばで冷静に情勢を伝える・・・という、不思議な現実があります。

 何だか不思議だと思いませんか?

 上手く表現することができないのですが・・・私は、こんなふうに「伝える側」だけではなく、「見る側(これは、私たちです)」も含めて、こういう現実を、ものすごく残酷で、身の毛もよだつほど異常だと感じています

 今回のガザ地区の空爆では、「白リン弾」という信じがたい殺戮のための爆弾が使われたことが明らかになっています。
 照明弾としての目的で使用が認められているものの、実際には、白リン弾は身体に付着すると骨まで焼き尽くす(溶かし尽くす)という超兵器です。
 60年前、原子爆弾という想像を絶する核兵器によって、多くの人々が一瞬にして命を失い、その後も、長い長い間、後遺症に苛まれ真実。それは、チェルノブイリ原発事故でも、世界中の人々に認識されたはずです。それなのに・・・人は、こうして戦争という殺戮を繰り返しています。

 そして私たちは、眉をひそめ、目を覆いながらも、テレビや新聞、インターネット等の情報手段によって、戦争というものを見ながら、やっぱり「遠いところの人ごと」として感じている・・・
 そんな私たちも、じつは、とても怖い存在ですね。

 「ママが何度も言っているでしょ そんなことをしていたら転ぶわよ」とか・・・
 「~~しちゃダメよ ~~したら、そこから落ちてしまうわよ」とか・・・
 母親は、頻繁にわが子に注意をします。それは、わが子のことを心配するからこそ、のこと。

 でもね。再三の注意を聞かず、わが子が母親の注意を無視したり、注意を疎かにした結果、子どもが転んだり、落ちたりした時、多くの母親は何と言うか、わかりますか?
 子どもが、よほどの大ごとにならない限り、母親の第一声は大抵は。
 「ほらー
 「ママの言うことを聞かないからじゃない
なんですよね

 この「ほらー」って、どういう思いから発せられる言葉だと思われますか?
 
 あんなに私が言ったことを聞かないから、こんな結果になるんじゃないの、私の言いつけ、私の注意を聞かなかったから、こういう痛い目にあったのよ!と言っているのですよね。
 第一声は、「大丈夫?痛くない?」という心配や思いやりではなく、「ほら見たことか」的な言葉、なんですよ

 心の中の悪魔。
 人の不幸は蜜の味。

 私たちの心の中には、こういう「黒い部分」がきっとあるのでしょう。
その黒い部分の大小、濃淡の加減だけで、私たちの悪行?愚行?の程度が表面に出てくるのではないのかなあ・・・私はそんなふうに思っています。
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言葉は手段

2008年12月13日 | う゛う゛ー
 ノーベル賞の授賞式、それに引き続いての晩餐会
数日前のモーニングショウでは、どのチャンネルもこぞってその様子を放送していました。
 中でも、ターゲットになっている先生は、お茶目な物理学賞受賞の大学教授。受賞が決まったその時から、奇想天外なコメントを繰り広げるため、絶好の取材対象になっているようです
 私のように、物理と聞いただけで「身の毛がよだち、身震いしてしまうタイプ」からすると、あのように、ちょっと世の中の常識や社会概念から逸脱している?人が、どうしても物理や数学に長けた人みたいなイメージがあるのですが、それではあまりに「普通の科学者の方」にはお気の毒でしょうね
 あくまで、かわっているのは「あの方」だけ、それは個性や人柄の問題。誰でも彼でも十把一絡げに、物理や数学の先生方を変人扱いするのは、あまりに失礼でしょう。
 
 さて、その先生。何だか人を小馬鹿にしたようなコメントも、なぜかチャーミングに映ってしまうお得なキャラクター 
 しかし、今回だけは、「お茶目だけど、ちょっと・・・」と苦笑されたお父様やお母様も多いのではないでしょうか。
 というのも、今回の「日本語しか話せません」問題。他の受賞者が、国王妃殿下のお隣に着席なさり、英語で談笑されている一方で、ノルウェー国のご配慮か、英語の話せない教授のために、敢えてお隣は同じ受賞者の日本人の奥様。その甲斐あって、晩餐会を無言で過ごす、ということもなく、談笑をされながらのお時間だったようです

 さすがに「日本語が大事。まずは美しくて、正確で、人柄のでる立派な日本語を話せるように子どもを教育すべき」という持論を展開している私でさえ、今回の「私は日本語しか話せません」騒動は、とても残念に思いました

 あの先生のように、「外国語が話せない」ということは、たとえ世界的に認められる立派な功績を残しても、そのことを介して世界中の方々と話し、もっと人脈を広げたり、その研究について各国の専門家の方々と話したり、それをきっかけとして国籍を問わず、多くの方々と知り合い、ご自分を高めたり、見聞を広めたりができない・・・ということに他なりません

 ちょっと目先をかえて。
私が、「まずは日本語」と必死になって訴える理由は、「言葉は手段」ということを伝えたいからです
 「手段」の学習ばかりを先行させても、その手段によって伝える中身、語る中身が希薄であれば、意味がありません
 要するに、外国語に堪能になっても、言葉は単独であるくことはないのです。つまり、単語を1000個知っていて、文法を理解していたとしても、問題は「それで何を語るのか?」ですよね。

 私が推察するに・・・あの物理学の先生は、語る中身をたーくさん持っていらっしゃる方、でしょう
 専門分野の研究は当然のこととして、今までの大学での教員生活を考えても、本当に多くの、語ることのできる経験を豊富に積まれ、人として豊かな人生を送っていらっしゃるに違いありません。
・・・それなのに、それを語る手段がない
なんて残念なことでしょう

 「私は物理学の文献などは、もちろん、英語でも読みますよ!」と話していらっしゃいましたが、やっぱりそれだけではつまらない・・・あの先生の愛されるお人柄、すべてを人に語り、世界中の方々に、先生から学ぶチャンスを与えてあげられればいいのになあ、と心から思ったものです

 


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普及品と逸品

2008年12月01日 | う゛う゛ー
 先日、ひょんなことから、評判の高い天ぷら屋さんの食材を、そのお店でもなく、天ぷらでもなく、いただく機会に恵まれました まさに「ひょんなことから」で、決して今流行の『○○産の△△をいただく会』のような催しでもなかったのです。
 いただいたのは、「しいたけ」と「レンコン」でした。
要するに、車エビでも、江戸前のあなごでもなく、ちょこちょこっと私達がスーパーに行けば食べられる食材です

 ところがです。ひとくちいただくだけで、もう、すべてが違うんですよ 香りも、食感も、もちろんお味も・・・さすがに、かなりの驚きでした

 確かに最近では、生食用のお野菜は、味や香りにかなりの違いがある、ということはわかっていました。野菜ソムリエ・・・などと呼ばれる人がいる時代ですから、銘柄牛のように、お野菜も、かなり味に違いがある
 ただ、それもトマトやキュウリやほうれん草、にんじんのように、生で食べられるもので実感していたことで・・・
 ちょっと目先の変わったところでは、水菜やつるむらさきなど、あまり普通は生食でいただかないものを、バーニャカウダでいただく・・・という場合に、「へえー」と感心させられたくらいです。
 
 けれど、今回のしいたけとレンコン。
さすがに生食ではいただきません。ところが、火を通しても、香りも味も、本当に常々食しているものとは全く違う 似て非なるもの、とはまさにこのこと!と痛感しました。

 その二つが、どこの○○で~~~・・・のような講釈は敢えていたしません 食のブログではありませんからね。まあ、当然のことですが、しいたけもレンコンも、そのお店のご主人の「こだわりの逸品」であることだけは確か、でした

 私は、自宅でそれらを調理し(単にお味噌汁の具材にしたり、炒め物や煮物に使っただけです)、そして本当に形容しがたいほどに「美味」なお野菜をいただきながら、まったくお料理とは関係ないことを思いついたのでした・・

 『考えてみれば、人も同じ・・・』と。

 同じ格好、かたちをしている人間でも、じつは全く違う・・・そう気づいたのでした
 こんなことを書くと、「いやいや、『曲がりキュウリ』でも味は同じ!」と反論なさる方がいるでしょうね。
 確かにそうです 人が手を加えて、まっすぐにしたものは、見場が良いだけで、味に違いはない・・・見場を良くする必要はどこにあるのか?
 しかし、これはあくまで「見場を整えた」ということで、私が感服した「味」とは無関係です。私は、あくまで「味」の話しをしています。

 天ぷら屋さんのご主人にお尋ねすると、やはり、しいたけもレンコンも、確かに「○○産の△△」でした 
 生産者の研究と手間は大変なもので、私たちが普段、スーパーで簡単に手にいれているものとは、本当に「似て非なるもの」。
 
 しかし、それを求める場、求める人がいる限り、普及品と逸品はずっと存在し、同じように見えながら、全く違う機会、違う人に食されていくのでしょう
 普及品が粗悪品であるわけはなく、逸品だけが重用されるということではありません。どちらが良い、悪い、という問題ではないのです
 あくまで、「どちらを求めるか?」ですね。

 そして、逸品を育てるためには、当然、普及品を育てる以上の手間暇、研究、苦労はつきものです より良い逸品を作るためには、それ以上の努力と時間、研究は不可欠でしょう。
 普及品には普及品としての価値はありますが、けっして逸品に昇格することはない・・・そして時には、普及品を作っているつもりが、こっそりしてしまった手抜きで、たちまち普及品どころか、とんでもない粗悪品になってしまう、という危険性もあるでしょう

 手塩にかけた逸品とは、やはり、それだけの価値のあるもの、ですね 然るべき機会に、然るべき人に愛されるもの
 
 きっと人も・・・同じでしょう 
無垢で産まれた子供達。親という生産者の手によって、さて、どちらに育てられるのでしょうか?


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あるコーチの嘆き

2008年11月08日 | う゛う゛ー
 先日、ある有名な水泳のコーチにお目にかかり、お食事をご一緒いたしました
オリンピック2大会連続の金メダルの選手を育てられた方です。大変気さくで、愉快な方でしたが、ご自分のお仕事や選手のお話しになると、言葉を丁寧に選び、最も適切な表現、伝わりやすい表現を選ばれながら、大変熱意を持って話してくださいました
 トライアスロンのお仲間からのお誘いで、今回のお食事に参加させていただき、会の趣旨は、いろいろと泳力アップのお話しを聞こう!というものでしたが、チームメンバーが企業のリーダー達ということもあって、結局は「コーチング」や、人を教育する、というお話しにシフトしていきました
 たまたま、その席には、中学受験の準備塾で最大手の若きリーダーもおいでになり、その話題になってからは、私も、その方も、急にコーチに親近感を深めて、お話しに聞き入りました 

 日付が変わる頃まで、すっかり話しに花が咲き、水泳のお話しも含めて、たくさんの話題で盛り上がりましたが、中でも、私が大変印象に残ったのが、「最良のコーチングをし、それを効果的に進めていくためには、まずはその相手にティーチングの成果、結果というものが必要不可欠である」ということでした。
 
 つまり・・・
ここ数年、世の中では「コーチング」という言葉が定着してきました。学校や企業、さまざまなところのリーダー達は、生徒や部下達を、上手くリードしていくための「コーチング」を学ぶ、という時代になったのです。
 書店に行けば、たくさんのコーチングの本もありますし、そういう講座や、資格などもたくさん出てきました。
 要するに、リーダー達は、こぞって、生徒や部下を伸ばす、成長させる「スキル」を身につけよう、としているわけです こういう背景があって・・・

 このコーチも現在、マスコミを含めて、あちこちから講演や原稿の依頼があり、本業である水泳選手の指導だけではなく、そういう仕事でもひっぱりだこになっておられます
 ところが、その講演や原稿の演目、話して欲しい、書いて欲しいと言われる内容は、多くの場合は水泳に関する話題をメインにするのではなく「人を育てる」という部分、コーチングについて語って欲しい、ということだとか。

 ある時、企業の依頼で講演をすることになり、コーチは、なぜコーチングについて話せばよいのか?とたずねたところ、企業からの答えに驚いたのだそうです。
「そ、そ、そ、それって・・・コーチング以前の問題ではないですか・・・その人を伸ばすというよりは、それ以前に『教えること』をしなければ、伸ばすにも、伸ばす「素」がないではないですか・・・なーんにも教えもしていない社員を、より高いステージにリードすることなんて不可能でしょう???」
 そう思われたのだそうです。
私は、このお話しを聞いて、思わず「うん!うん!」と頷いてしまいました。それは、中学受験塾のリーダーの方も、私と同じ反応でした

 この場合は、企業のリーダーと社員・・・という設定になりますが、私がこのお話を我が事として聞く場合は、企業のリーダーと社員ではなく「親と子ども」に置き換えることになり、また、違う方向から考えると、「私とお母様方」ということになります

 このコーチは、現在は全日本のステージでお仕事をなさり、次のロンドンで開催されるオリンピックに向けても同様ですが、本来は、ご自分のお仕事の母体として、一つのスイミングスクールにコーチとして所属なさり、時間のある時には、そこで小学生のクラス等にも実際に水泳を教えたり、お話しをなさったり・・・ということが今でもあるのだそうです。(金メダリストの彼も、小学生の頃から、このスイミングスクールの生徒だったそうです。)
 そういう小学生や、5,6歳児のクラス時の苦労話、スクールでの親子の様子、親の反応などは、思わず二人(いえ、中学受験塾の方もおいでになりましたので、実際には3人です)で手を叩いて、うんうん!と共感し合ってしまいました

 最近では、ご家庭ではティーチングさえしない、というご両親が多くなったように感じます とにかく、最初から「専門家に外注する」とでも言うのでしょうか・・・親の役割が、どんどんと軽くなっていっているように思えてなりません
 以前、私立小学校の校長先生とお話をさせていただいたとき、とても嘆いていらしたことがありました
 校長先生がお母様方と直接にお話しをする機会があったとき、多くのお母様が・・・
 「今の子ども達はどうも親をなめていて困ります。是非、担任の先生に、子どもたちに厳しく、しっかり躾ていただけたらうれしいです
 というご意見がたくさん出たとか・・・
 校長先生はおっしゃっていました。子供たちを厳しく躾けるのは親の役目。学校には学校の、先生方には先生方の役割はあるのです・・・と。

 確かにそうですね。
人間が自分達より劣っている、と思っている獣の親でも、わが子達にしっかりと生きていくための手段である狩りの仕方や、エサの取り方、走り方、泳ぎ方、etc.etc. そんなことを、きちんと教えていますものね
 ・・・となれば、人間が、一番怠惰で無責任・・・ということになるでしょうか?
 ピアノやヴァイオリンを弾く技術を教わる、泳ぐ技術を教わる、これらは、専門家に教えて頂く他はありません。しかし、そこで習うのは、楽譜の読み方、両手の動き・・・蹴のびの仕方、水中で目を開けること、等・・・これは、技術です。
 けれど、公衆道徳、社会人の卵としてのマナーやエチケット等、これらは技術ではなく、親が、家庭で教えるべきことですね。

 私のお役目も、本当はティーチングよりもコーチングの部分が大きくなればいいなあ・・・としみじみ思ってしまいました


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