まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

心の中の黒い部分

2009年01月30日 | う゛う゛ー
 オバマ大統領の就任を間近に控え、突然、パレスチナ・ガザ地区の空爆が終結しました。けれど、罪のない大勢の子ども達が犠牲になったこの不条理な戦闘・・・いったい、彼らは、なぜ短い命を終えなければならなかったのでしょう

 以前、ブログで触れたことがありますが、私が初めて広島の平和記念資料館を訪れたのは小学校4年生の夏でした。
 昭和44年、終戦後24年目。当時の平和記念資料館の展示は、思えば現在の展示の仕方、展示内容より、もっともっと直接的で、むき出しのストレートのままだったように思います。
 きっとそれは、意図的にそうしようとしていたのではなく、当時の映像の展示技術や、展示の構成力などが、今よりずっと稚拙であった、というのが原因だったのでしょう。
 精巧なジオラマや音響効果のおかげで、現在の展示は昔より事実が伝わりやすいのに、心に与えるインパクト、原爆というものへのショックは、昔の平和記念資料館のほうが強かったように思います・・・
 とにかく。4年生の私は、心底、平和の尊さというものを五感で感じ、人が人を殺める戦争は無意味で、何の利もないことを痛感したのでした

 先日の宮内庁の歌会始。
福岡の久留米大学附設中学在学中の北川光くんの歌が、最年少で一般から入選しました。彼の歌は・・・
 修学旅行で訪れた広島の平和記念資料館。彼は、展示の中にあった「人の影」の写真を見ました。
 その影とは、石段の上に残された人の影で、原爆投下時、そこに座っていた人が強烈な原子爆弾の熱線にさらされ、出来たものです。当然のことではありますが、その「人」は影だけを残して原爆によって即死されたのでしょう。北川くんの頭には、その「影」が鮮烈に残りました。
 展示を見終えて、夏の強い日差しのもとに出てきた北川くん。広島の太陽に照らされ、まさに北川くんの「影」は、北川くんの動きについて動き回ります。
「あの人の影は、二度と動くことはないのに・・・」北川くんは、自分の影を見ながら、そう思ったのだそうです。
 
 私も、その「影」の写真のことを、とてもよく覚えています
もっともっとインパクトのある写真や展示があったのに、なぜか、あの「主のいない影」が、強烈な物言わぬ声となって、平和な時代に生きる人々に訴えているように思いました

 あの戦争から60余年。
時は流れ、テレビやインターネットという画期的な情報手段が生まれ、未曾有の殺し合いである戦争が、まるで実況中継のように、全世界にオンタイムで配信される時代になりました
 世界中の人々は、爆弾が落とされる様子、血だらけで逃げまどう人々の画像を、ご飯を食べながら、のんびりしながら見ることができる・・・見てしまえる?
 ベトナム戦争以降、兵士達が命の危機にさらされ、敵に対峙しているその一方で、その瞬間をタイムリーに伝える「非戦闘員」が、戦うすぐ彼らのそばで冷静に情勢を伝える・・・という、不思議な現実があります。

 何だか不思議だと思いませんか?

 上手く表現することができないのですが・・・私は、こんなふうに「伝える側」だけではなく、「見る側(これは、私たちです)」も含めて、こういう現実を、ものすごく残酷で、身の毛もよだつほど異常だと感じています

 今回のガザ地区の空爆では、「白リン弾」という信じがたい殺戮のための爆弾が使われたことが明らかになっています。
 照明弾としての目的で使用が認められているものの、実際には、白リン弾は身体に付着すると骨まで焼き尽くす(溶かし尽くす)という超兵器です。
 60年前、原子爆弾という想像を絶する核兵器によって、多くの人々が一瞬にして命を失い、その後も、長い長い間、後遺症に苛まれ真実。それは、チェルノブイリ原発事故でも、世界中の人々に認識されたはずです。それなのに・・・人は、こうして戦争という殺戮を繰り返しています。

 そして私たちは、眉をひそめ、目を覆いながらも、テレビや新聞、インターネット等の情報手段によって、戦争というものを見ながら、やっぱり「遠いところの人ごと」として感じている・・・
 そんな私たちも、じつは、とても怖い存在ですね。

 「ママが何度も言っているでしょ そんなことをしていたら転ぶわよ」とか・・・
 「~~しちゃダメよ ~~したら、そこから落ちてしまうわよ」とか・・・
 母親は、頻繁にわが子に注意をします。それは、わが子のことを心配するからこそ、のこと。

 でもね。再三の注意を聞かず、わが子が母親の注意を無視したり、注意を疎かにした結果、子どもが転んだり、落ちたりした時、多くの母親は何と言うか、わかりますか?
 子どもが、よほどの大ごとにならない限り、母親の第一声は大抵は。
 「ほらー
 「ママの言うことを聞かないからじゃない
なんですよね

 この「ほらー」って、どういう思いから発せられる言葉だと思われますか?
 
 あんなに私が言ったことを聞かないから、こんな結果になるんじゃないの、私の言いつけ、私の注意を聞かなかったから、こういう痛い目にあったのよ!と言っているのですよね。
 第一声は、「大丈夫?痛くない?」という心配や思いやりではなく、「ほら見たことか」的な言葉、なんですよ

 心の中の悪魔。
 人の不幸は蜜の味。

 私たちの心の中には、こういう「黒い部分」がきっとあるのでしょう。
その黒い部分の大小、濃淡の加減だけで、私たちの悪行?愚行?の程度が表面に出てくるのではないのかなあ・・・私はそんなふうに思っています。

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