goo blog サービス終了のお知らせ 

まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

値打ちの話

2010年04月09日 | う゛う゛ー
 この間の日曜日は「今日はポカポカ陽気になる見込み・・・お花見に最適の気候です」という天気予報が大ハズレし、冬に逆戻りしたような寒い一日でした
その日、私は埼玉県の幸手市で開催された「さくらマラソン」の応援に行きました 今回は10マイル、という珍しい設定。10マイルと言えば、16キロなんですね。
 半年ぶりの熱海のレースで、やっと5キロのランで復活したばかりの私は、「16キロ」の設定に恐れをなし、早々と応援!と決めました

 幸手市は、江戸時代から「桜・お花見」で有名な土地らしく、町中には立派な桜並木があり、ランニングコースには、利根川の支流である川沿いの道の桜並木と満開の菜の花・・・という黄色とピンクの対比が美しい場所もあったそうです。(残念ながら、今回は走らなかった私は、この絶景を見ていません)

 いつもは、ランニングでかいた汗を流すためにシャワーやお風呂を探す私達のチームですが、今回は「あたたまるため」のお風呂探し レース終了後は、タクシーに分散して、スーパー銭湯のような入浴施設に急ぎました
 10分ほどで到着。たまたま、助手席に乗られた方がタクシー代を支払ってくださることになりました。大学を卒業して、早々と起業し成功したバリバリのビジネスマン 日頃からよく気の付く、気遣いのできるメンバーです。まだ30代半ばの男性ですが・・・お財布を探りながら、運転手さんにこう言って代金を支払われたのです。
 「運転手さん、ごめんなさい この千円札、ボロボロです 少しでもマシなお札がないか探したんですけれど・・・さすがに失礼ですよねえ、すみません。ほんと、ごめんなさい
 私はちょっと驚きました。確かに、運転手さんに手渡された2枚のお札のうちの1枚は、かなりヨレヨレでした
 とは言え、「お札はお札、お金はお金」であることは確か、です。状況からすれば、千八百○十円の運賃を支払うために、1000円札を2枚出した、というだけのことです。何も間違いはありません

 でもね。
この男性は、「ヨレヨレになった古いお札を支払うこと」に躊躇し、何とかそれを回避しようとしたけれど、それが出来ず、非礼を詫びた・・・ほんの1分にも満たない出来事でしたが、私はこの一連のことを見ながら、この方の育ちや品格に触れた気がしました

 私は10年以上前から「新札、新券」についてよく話題にします。むかーしからお付き合いのある方々は、「ほ~ら来たよ~、先生、よほど話題に事欠いたのかしら??」なんて思われるかもしれませんね でも、また敢えて!
 私のお教室に入会していただく時も、これほどまでに紙媒体を利用しないようにしているにも関わらず、わざわざ諸費用に関するプリントをお渡しし、お金やお金の支払い方について記載しています。それはなぜなのか?お考えになったことはあったでしょうか?

 比較的、お金の話題というものは(よほどの経済問題でもない限り)、人との関わりの中ではタブーですね 昔から、それを話題にすることは、「はしたない行為」だと昔から考えられているからでしょう
 けれど実際には、お金を支払う、という行為は、生活全般についてまわります そして、お金の扱い方、支払い方等は、その人の育ち方や考え方、家庭環境に大きく関係する、いわばその人の「品格」を如実に表す行為です。
 私は50歳を越えた今でも、さまざまなシチュエーションで「お金を渡す(支払う、お祝い、お悔やみ、すべてのお金関連の行為)」場合には、とても気を遣います。やはり、ここにこだわり、そつなくスマートにこなせることが社会人として、大人として、親として、とても大切だと思っています

 「新札、新券」については、このブログにも書いたことがありますし、ブログが始まる10年ほど前には、「お母様、ちょっとお耳を・・・」というHP内で月に一度更新していた手記にも書いたことがあります。
 一度は、そのことがコワ~イ受験ママゴンの目に留まり、受験関連の掲示板で、「この先生は細かいことにうるさく、ペーパーやテストの点数に関係ないお金やお金の支払い方にまで言及する」と非難囂々 たたかれた恐ろしい経験もあります。(またまた、懲りもせずに話題にしているところが、私の私らしいところ、です)
 でも、年度があらたまった今、いろいろな場面でお金を扱われることも多いかと思いますので、あらためてみなさまに「むー、なるほどねえ・・・」と考えたり、感じたりしていただくため、再度(再々度?)この話題に触れたいと思います
 以前に書いたものを、もう少し分かり易く、短くして、お話しをしましょう

 昔むかし、NHKの大阪局で制作されたドラマに、昭和初期の「船場」の商家を舞台とするものがありました。そのドラマの一場面・・・長年、その店に勤めてきた番頭さんが、嫁いできたばかりの若奥さんに語るセリフが素敵だったのです。
 シチュエーションとしては、経験不足で未熟な若奥さんの失態を隠そうと、助けてくれた番頭に対して、若奥さんがお礼の気持ちだと言って、ちょっとした額のお金(お札)を祝儀袋に入れて渡すシーンです。

 「若奥さん、ありがとうございます でもねえ、これではいけません 奉公人である私が相手だとしても、これではあまりに失礼です。もし、本当に若奥さんが本当にうれしい、ありがたいと思ってくださったのであれば、きちんと私に渡してくださるお札には、ぴしっときれいにコテを当ててくださったものでなければなりません。こんなに古くなり、ヨレヨレになったお札がそのままで祝儀袋に入っていては、若奥さんのお気持ちも半分になってしまいます 頂戴する額がたとえ同じ額だとしても、きれいなお札と使い古されたお札では「お金の値打ち」が違うのです。きっと若奥さんは、古いお札も、新しいお札も、みな同じお金、そう思っておいでなのでしょう?それは違うのですよ。新しいお札や、コテを当てられたお札には、値打ちがあるのです

 いかがですか?どう思われましたか?
私が幼い頃、お稽古ごとに持っていくお月謝袋を母に渡すと、必ず母は、決まった引き出しの中の封筒から新札を出し、きちんと同じ方向に向けて、念入りに入れてくれました。幼い頃の私は、あまりその理由に関しては考えることもなく、ただただ「お稽古ごとの  月謝は、引き出しの中の、銀行の封筒に入った新しいお札を入れるもの」というふうに思っていました。
 封筒から出したお札を数え、うやうやしく、目を閉じて頭の上まで一度おしいただき、お月謝袋の中に入れる・・・今思えば、それが一つの礼儀であり、同時に、母の各先生に対する無言の敬意の気持ちだったのでしょう。

 私は、卒業生のお母様方から、よく言われることがあります。お世話役や役員さんなど、学校で集金をされるようなお仕事に就かれると、いろいろとお感じになることが多いご様子・・・
 「日頃はみな同じように見えているお母様方でも、実際にお金を集めるような機会があると、一人一人のお人柄等が手に取るように見え、ちょっと複雑ですね。みなさまには、同じ額を提出してくださるのですが、実際には、その方の『お人柄』まで一緒にいただいた気がしてしまいます・・・」
 会費や積立金のようなものは、ほとんどの場合、事前に金額が知らされているものです。その時、その日、突然に支払うことのほうが少ないですね。
 要するに、事前に「支度をする、準備をする、用意をする」という時間は、ある、のです
 にも関わらず、お世話役の方の目の前にいらして、恥ずかしい様子も見せずに「えーっと・・・いくらでしたっけ?」と平気でお財布を出されるお母様・・・平気で1万円札を出され、全くお釣りのことをお考えになっていないお母様・・・
 その一方で、決まった額をきちんと封筒に入れてご用意なさり、「ごくろうさまです ご面倒をおかけします」と役員さんの労を労い、提出なさるお母様・・・封筒の中には、きれいな新札が入っている・・・
 受け取る側は、こういうふうに様々な対応を見せるお母様方と接していると、やはり、それぞれの方から「同じ」ものは感じない・・・そりゃあ、そうでしょうね

 さっきの番頭さんのお話し風に言えば・・・新札と使い古しのお札の値打ちの違いは、まさに「いくらでしたっけ?」とお財布を開く方と新札をきちんと用意された方の「人の値打ち」の違いになるのでしょう

 幸手のマラソンの日、タクシー代金を支払ってくださった方・・・きっと、「あまりにヨレヨレになった古いお札で支払うのは、運転手さんに失礼だ・・・申し訳ないなあ・・・」そういう意識、そういう思いを持たれるような教育をご家庭の中で受けてこられたのでしょう。たんに「仕事ができる」とか「頭脳明晰」とか、そういう無機質な人間的価値だけでなく、人と人とが関わり、互いに影響しあって生きていく上での「人間としての値打ち」が身に付いて育たれたんだなあ、と思い、あたたかいものを感じながら、私も一緒に運転手さんに頭を下げました
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生かすも殺すも親次第

2010年02月23日 | う゛う゛ー
 それにしても・・・国母選手、残念でしたね 間違いなくメダルを取るものと思っていました 予選のパフォーマンスを見ていても、驚異的、超人的なゴールドメダリストに負けない技術と表現力があったように思います。

 喉元過ぎれば熱さを忘れ・・・昔から、ウワサは75日と言いますが、オリンピックも終盤を向かえようとしている今、開会式前の騒動はすでに忘れられようとしています
 そのスノーボード、ハーフパイプの国母選手のお話。
私は、彼の容認派ではありません さすがに、彼がバンクーバー入りした時の格好を見て、ひえーっと思った一人です。
 ただ、「こういう着方をする世代も出てくる時代になったのだから、日本のオリンピック委員会も、いろいろと対応を考えないといけない時代になったよな・・・」というのが、あの映像を見て真っ先に思ったことでした。 騒動は、その矢先でした。早かったですねえ、批判の嵐は

 私はあの彼のスタイルを見た時、渋谷あたりによくいる、ブレザースタイルの制服の高校生を思い出しました。彼の場合はドレッドヘアーでしたが、渋谷君達の中には長髪に茶髪、カチューシャ、という男子生徒もいますよね
 要するに、そんなふうに彼らが腰パンスタイルに制服をアレンジするのは、「体勢への批判?深い意味のないありがちな反抗心?」もしくは「決められた制服というスタイルを、いかにファッションとしてアレンジするか!」という、自己アピールなのだろうな、と私は理解しています

 ・・・ということで、オリンピック委員会も、そういう渋谷世代とも言える若者達が、日本代表として世界の舞台に参戦し、メダル争いをしてくれる時代が来ていることを認識し、良くも悪くも、優等生の着こなしをする、昔からある「爽やか系スポーツマン」だけがオリンピック選手になる時代は終わったのだ、ということを認識すべきでしょう

 国母君容認派ではないものの、私はあの腰パン騒動を見ながら、彼は気の毒だなあ・・・と、ずっと思っていました。
 そして何よりも呆れていたのは、国母選手を指導する立場にいるまわりの指導者達の不甲斐なさ、でした
 あの最初の監督と一緒に臨んだ記者会見も然り。
世の中というものを十分にわかっている社会人である監督が、あの場に臨む前に、騒動のやり玉にあがっている国母選手に、十二分なマスコミ対応の仕方を教えておくべきだった、と思います
 慌てふためいて会見を開くのではなく、同じ開くのであれば、あの場では、当然「どうしてああいう(あの場にはふさわしくない)格好をしてたのか?」「批判を受けて、今はどう考えているのか?」というような質問を、きっと何度も何度も言葉や表現を替えてたずねられることを知らせ、会見を開く以上は、何を言われても平身低頭頭を下げなければいけないのだよ、と、しっかりと教えるべきでした
 今回のことだけではなく、何か批判を受けた後、そのことへの対処というよりも「ひたすら謝罪と反省の態度を示すため」に開かれるのが記者会見なんでしょうからねえ
 
 にも関わらず、あの監督はきっと、そんな基本的なことも教えていなかった・・・そう思いました ただただ、その場しのぎというのでしょうか、マニュアル的に、ささやき女将のように、「~~いいなさい!」としか教えなかった・・・監督としての責任の自覚に欠けますよね
 というか・・・メダルを取れるであろう国母選手にビクビクし?!、甘やかし、本当の意味での国母選手を守ってやろうとする愛情が欠けていた!そう思えてなりませんでした

 大変おこがましいですが、もし私が監督だったら・・・もし小さな頃から国母選手の成長をつぶさに見ていたならば、愛情もひとしお オリンピックの代表に選ばれた時点で、あらためていろいろと注意をして、彼が気持ちよく、競技に臨めるように、しっかりと伝えたと思います。
 何となく、社会的に「あぶなっかしいヤツ」ならよけいに・・・です。そして、危惧が現実のものとなって、腰パン騒動が起こったら、即刻、彼を呼んで言ったでしょう

 「なあ、国母くん・・・こんな競技以外のことで、君が何やかんやと言われるのは僕は本当につまらないことだって思うよ。君だって、うるせーなーって思ってるんだろう
 君は今はまさに、世界に通用する本当に強い選手なんだから。強くなるための努力も惜しまない根性もあるしね。やっと、それがオリンピックっていう晴れの舞台で認められる時が来たんだよ。
 もしかしたら君は、金メダルなんて、そんなもん、どーでもいいって思ってるのかもしれないね。僕は、自分が楽しいようにやりたいだけってね。
 でも、楽しいことをやっただけなのに、それが認められ、評価されるなんて、ラッキー!!ってもんじゃないか 賞なんてもんは、くれるっていうんだったら、もらっておいて損はないよ。
 君が目立つべき舞台は、競技の場 君にとっては着こなしも自己主張だと言いたいのだろうけれど、オリンピックというものは、世界が見ている伝統的なスポーツの祭典であって、非常に保守的なものだよ
 今は、そのことを時代遅れだとか何とか云々する状況ではない!とにかく、選ばれちゃったわけだからね。そして、君だって、オリンピック選手であることを受け入れたからこそ、出場することにしたんだから。
 だから、日本代表として出場することになった今、君がわかっていないといけないことは、オリンピックは特別ってこと
 君にとっては世界選手権でも何でもかんでも、試合はすべて自分を表現するパフォーマンスの場に過ぎないかもしれないけれど、このオリンピックは、他とは訳が違う・・・それを認識していないと、大きな失敗をしてしまうことになるよ
 オリンピックは、国境を越えて、人の注目度が違う だから、世界的にこんなにマスコミの報道が過熱している時代だもの、日本でも、自国の選手のみならず、の世界中の選手達の行動、言動等、競技を離れたところにまでも目が向けられているんだよ なぜかって、それがオリンピックってものの持ってる「権威」というもんだよ。

 だから いらぬ批判を受けてしまうような言動、行動は慎むこと!わかったね
 君は強い選手だ。期待もされている。メダル候補なんだよ 
だからこそ、君の本来の強さをしっかりと世界に、そして日本に認めてもらうためにも、競技以外のところで人格や品性を云々されるようなことは避けよう。オリンピックで日の丸を背負って出場する、ということは、そういうことなんだよ」と。

 今回の騒動では、報道を見ていると、さまざまなところに論点がありました。
彼の格好が認められない、という理由から彼自身の人格まで云々する『国母選手 否定派』
 彼自身を云々するのではなく、日本代表選手としてふさわしくない格好だ、と格好にポイントを置く『TPO サジェスチョン派』
 私はそのどちらでもなく、彼を指導する立場のまわりの人間の責任を問いたい『指導者の力不足指摘派』でしょうか・・・

 とにかく、今の時代、若い人達は「まずは自分ありき」です。
自分にとって居心地の良い場所、自分が気持ちよく居られる環境、自分がハッピーでいられることが最大のポイント・・・なんですね。これは、子育ての世界を見ていても痛感することです
 このことを良いとか悪いとか、性急に言ってしまうことはできません。ある時はプラスに働きますし、ある時はマイナスに働く・・・ただ、こういう「自分至上主義」の時代なんだ、ということを、あらためて認識しているべきだ、と言いたいのです

 子育ての世界では・・・今のご両親が一番よく使われる言葉が「個性の尊重」です。つまり、我が子の「個性」を尊重し、その個性を認め、その個性を伸ばすことこそが大切、と主張されます。(もしかしたら、これは風潮であって、このことを非常に深く考え、信念を持って訴えている、という方ばかりではないのかもしれませんが)
 これは言い換えてみると、幼稚園や保育園、学校、お稽古の場に我が子がいる場合、大事なことは「我が子が気分よくいられているかどうか?」ということが「個性の尊重」という言葉で表現されているようです
 ですから、ご両親は「マス」を見ているのではなく、常に「我が子一人」を見て、我が子のハッピー度をチェックしている、ということです。我が子が団体の中の一員である以上に、「個人としての我が子」が常に尊重される時代なんですね

 ですから、時には我が子の主張や行動、言動がどんなに奇妙だったり、顰蹙をかってしまうものであっても、案外平気で「これはこの子の自己主張です」「これはうちの子の個性です」と言いきってしまう・・・やっぱり、私はこのことを困ったことだと思っています

 私は常々、自己主張と自分勝手とは別のものだと思います
社会、つまり団体には、たくさんの「個」が集まっています。金八先生の授業ではありませんが、その「個」が時には支え、時には支えられて生きています。
 「個」が集まった時点で、それは「団体」となり、それが一つの社会になります。ですから「個」が一斉に主張しあうと「団体」として統制が保てなくなってしまいます。団体の中でのルールを守ることは、時には「個」の主張を曲げなくてはいけないこともあるでしょう

 じゃあ、自分を曲げたくない、「他」のために辛抱したり、我慢したりはしたくないから、「団体・社会」には属さずに「個」のままでいるよ、というのであれば、人から評価されることも、認められることも、助けられることもない・・・
 また、そういう社会の中にいるからこそ受けられる、ある意味での「恩恵」は放棄しなければならないでしょう
 これをスポーツ競技として考えれば、一人でどんなに良い演技をして、また高い技術を持ってパフォーマンスをしても、評価は受けない。複数人数いるからこそ競いあえ、評価もされる・・・団体の中にいるからこそ1位、2位、3位・・・などと認められ、評価され、そのご褒美としてメダルをもらえる、ですよね

 じゃあ、これが幼稚園や保育園、学校ではどうでしょう?
我が子のまわりにたくさんの子ども達がいるからこそ運動会も出来れば、発表会も学芸会、音楽会などもできる・・・朝早くから良いカメラショットの狙えるところにビデオをセットしようと思ったり、我が子が一番見えるところに陣取ろうとするのは、「他」の中に「我が子」がいるから、ですね。
 歌が上手なこと、セリフがハキハキと言えること、立派に振る舞えることが認められ、独唱をしたり、主役級の役が割り当てられたり、始めの言葉や終わりの言葉やを仰せつかったり・・・親としては、我が子がオリンピックの代表に選ばれたような気分ですよね

 国母選手は、やっぱりあの競技の選手としては、高い技術を持った立派な選手でしょう。きっと、監督やコーチは、その彼の能力を高く評価し、自信も持っていらしたはずです
 世の中の親が、我が子の欠点を認めながらも、十分に良さを認識し、時にはかなり自信を持って「うちの子はスゴいんだから!」と自慢をしたくなるように・・・
 それならば
そのスゴさを世間に(たとえ、その世間が幼稚園や保育園、グループ、お稽古・・・等の狭い世間であっても、です)認識してもらえるようにするために、コーチや親は、最低限のその世間のルールや常識と呼ばれるものを教えなければいけないでしょう。それが、親に、指導者に課せられた責任です

 我が子が晴れの舞台に立つことになれば、皆と一緒にお手洗いを済ませなさい、とか、お手洗いに行ったらちゃんとシャツはズボンの中に入れて、他のお友達と同じようにしないさい、とか、皆が並ぶ時にはあなたもグズグズ自分勝手なことをしていないで、ちゃんと一緒に並びなさい、とか・・・言わないといけないですよね。
 「いいの、いいの、うちの子はお歌が上手だから、並ばなくてもいいのよ!」
 「うちの子は演技が上手だから、皆と同じように振る舞わなくてもいいの!」
 ということはないでしょう?
 せっかく歌が上手で独唱をすることになったのだから、せっかく演技が上手で主役をすることになったのだから、「すごかったわね。上手だったわね」と拍手喝采していただける子どもだからこそ、他のことでズッコケて、顰蹙をかってしまい、独唱や主役の演技が台無しになってしまう・・・あまりにもったいない

 指導者、大人、親の責任は大きい 私は、絶対にそうだと思います。だって、子どもは何も知らないで生まれてきているのですもの。

 子どもを生かすも殺すも、親の指導力、家庭のあり方・・・ドキッ 私は大人になった我が子を遠目で見ながら、やっぱり今でもそう思い、緊張しています

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さなレディー

2009年11月25日 | う゛う゛ー
 都心にある高級?ということで有名な病院でのことです
友人のお見舞いを終えた私が、1階のロビーにあるお手洗いに入っていくと、ちょうど3歳くらいに見える女の子が、トイレの個室から出てきたところでした
 ドアの前で待ちかまえていたお母さんは・・・
 「トイレットペーパー、三角に折った?」と訪ねると、女の子はにっこり笑って・・・
 「うん!折った」と答えました。

 お母さんはグレーのワンピースに黒のパンプス。女の子は白い小さな襟付きのきれいな水色のワンピースに黒のエナメル靴。胸のスモッキングが彼女の愛らしさを一層引き立てていました
 今度はお母さん・・・
 「さあ、次はハンカチでしょう?・・・ハンカチを出すのよね」と言うと、女の子は・・・
 「そうそう・・・ハンカチ、ハンカチ・・・」
と、小さな手でワンピースのポケットを探り、刺繍のついた小さなハンカチを取り出しました
 すると、お母さんが後ろから女の子の両脇を抱えてひょいと抱き上げ、洗面台の前に行くと、女の子は器用に蛇口をひねり、洗面台の横にハンカチを起き、手を洗い始めました
「しっかり洗って!・・・そうそう・・・ぎゅっと蛇口をしめて・・・はい、上手上手」そう言って女の子を下ろしました。
 女の子はハンカチを広げて手を拭き、またまた器用にハンカチをたたみ、ポケットにしまいました

 時間にすれば、3分程度、だったと思います。
私はお手洗いに入ることも忘れ、この親子の一連の行為を眺めていました。当然、それに気付いた母親のほうは、私のことを少々訝しげにチラチラと盗み見をされていたので、私は申し訳なく思い、お嬢さんに向けて言いました
 「なんてあなたはお利口ちゃんなんでしょう おばちゃまね、あんまりあなたがお利口だったから、おトイレに行くのも忘れちゃって、あなたのことを眺めてしまったわ ごめんなさいね!でも、本当にお利口さん。素敵なレディーね。ママに誉めていただかなきゃね
 そう言うと、お嬢さんはニコニコと笑顔で私を見上げ、さすがにお母様も我が子を絶賛され、嬉しそうに会釈をされました

 ちょっと前の私ならば、きっとこの光景を苦々しく眺めただろうなあ・・・と思いました。こんな幼い子どもに、まさに「考査を念頭に入れた、とってつけたような家庭教育」を施すなんて・・・と
 この出来事は、9月初旬のことでしたから、きっとあの親子はこの秋、都心の私立幼稚園の3年保育?を受験なさるご家庭だったはずです。もしかしたら、あれを1年間続け、来年の秋に、2年保育受験をなさるのかも・・・
 でも、今回ばかりは、私はその親子の様子にとても意味のある思いがしたのでした

 以前、私はこのブログにだったでしょうか、「子ども達のお出かけ着」「よそいき」について書いたことがあったでしょうか?
 もしかしたら書いたのではなく、教室のクラス内でお母様方にお話しをさせていただいたのかもしれません 
 いずれにしても、私はここ10年ほど、子ども達の「お出かけの時の装い」について、世の中の変化をとても憂いていたのでした。

 昔、そうですねえ、昭和の時代、とでも言いましょうか。あの頃は、どこかにお出かけをする・・・と言えば、一度は家に帰り、わざわざ着替えをして、その場に相応しい格好をて出かけたものです。それが祖父母の家であったとしても、友人宅であったとしても、立ち寄るのではなく、「わざわざ」という言葉がつくお出かけの場合は、必ず着替えて「よそいきの格好をした」わけですね
 とにかく、当時は「出かける」という行為が、平生の延長線上にあったわけではなく、ちょっと晴れやかな気分になるものであったり、かしこまったものだったり・・・特別のもの、でした。ですから、特別の装いにしたわけです

 でも現在では、お食事言ってもファミリーレストランやファーストフードという便利なものが登場し、それがすっかり定着をした今、そこは「簡単に行ける日常生活の中にあるもの」であり、誰もデニーズやジョナサンに行くために、わざわざ着替えるご家族はいないでしょうね。
 時には、草野球帰りのおとなも、アスレチック帰りの家族連れもいて、少々どろんこであったとしても、あまり気遣わずに立ち寄れる場所ですから。
 それに、祖父母の権威も失墜し、ひたすら甘やかしてもらえる、何でもかってもらえるジジババになった今では、敢えて着替えて、居ずまいを正して会う存在でもなくなってしまった・・・
 幼稚園の先生はお友達感覚 お稽古の先生方も子どもの機嫌と保護者の機嫌を損ねないように気兼ねをし、誉めて育てる場所
 そうなると、親子はほとんどのシチュエーションでは、家庭の中とほぼ同じ・・・ということになります。

 要するに・・・今はどこに行っても親子は緊張感なく振る舞い、装いも、言葉遣いも、すべてが「普段遣い」のまま。それで通ってしまうのですね、幸か不幸か・・・

 そんな現状を思えば、私はあの病院で見た親子の、少々とってつけたような躾?振る舞いも、悪くはないのではないか・・・そう思えたのです。
 あと10年もすれば、あのお嬢ちゃんもきっと、今どきのアニメやコメディー、お笑い番組で使われる流行語を使い、くだけ度合いの違いはあっても、どこにでもいる女子生徒になるのでしょう
 そうだとすれば、昔はうるさいママに厳しく躾られたということを、記憶のどこかに留め、たとえ錆び付いたとしても、何か特別の時には、その記憶の彼方の行為を思い出せるのではないか?

 10年前は、私のまわりにいる親子達ならば、ほぼ全員が当たり前にできたことが、今は「昔は出来る人が多かった」という古(いにしえ)の行為になってしまっていることを、私はやはり残念に思います
 言葉遣いも立ち居振る舞いも、一朝一夕に替えられることではありません。私立の小学校受験のためにと、2,3ヶ月で身につけさせようとしても、どうしてもできないこともあるものです
 昔でいうところの「読み、書き、そろばん」的なことは何とかなっても、言葉遣いや立ち居振る舞いには時間がかかるのです。

 あの病院のお嬢ちゃん・・・きっと今日も、厳しくママに教えられているのでしょう。それも、あの子の財産のように思えます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ママ友世界の裏表?!

2009年10月12日 | う゛う゛ー
 私が子育てをしていた頃には「ママ友」という言葉はありませんでした。
当時、流行りだした言葉が「公園デビュー」でした はてさて、今でもそんな言葉は育児の世界では生き残っているのでしょか・・・

 今は、「何でも一緒にする」というのが、子育てに限らず、の中の風潮のようです。それは、個性没と言うよりも、不安な人が増えたということ・・・私はそんなふうに思っています
 インターネットの普及で、様々な情報がいつでもどこでも簡単に手に入るようになり、自分の力で考え、判断し、時には大決断をする・・・というような、時にはリスクを伴うかもしれない恐ろしい作業をしなくても「みなと一緒にする みなと一緒である」というほうが楽であり、不安を緩和させる安全な道・・・と思うでしょうね
 そんな社会にいると、自分で考え出したことが結果的に突飛で、他人から驚かれたり、ちょっと風変わり扱いされることは是非とも避けたい そう思うようになっていくのも自然な成り行きです。
 
 とにかく
今の人々はみな不安でいっぱいになりながら、あまり自分に自信が持てないで生きているようです 特に不慣れな子育てをしている時期の母親は、その不安人種の中でも筆頭にくるでしょうね。
 だから、ママ達は安心するための情報をたくさん集め、心の平安を求めて毎日の子育てをしています
 
 ところが・・・です。
このママ友。「みなと一緒」のことをしている時には、すこぶる不安を緩和してくれるオアシス的集団ですが、ひとたび自分が「ちょっと違うこと」をしようとしたとたん、たちまち厄介な怪物になってしまうようです
 その「ちょっと違うこと」の最たるものが、幼稚園受験や小学校受験
 今まで「私達は仲間よね、私達はいつも一緒よね」と一種の連帯感を持って過ごしてきた仲間が、突然「特別な人」になろうとする
 今までは横一列だった仲間が、頭一つ?体一つ?飛び出そうとしている
口に出して「そ、そ、そ、そんなあ」と言ったり、露骨にイヤな顔をしなくても、本音は「あなただけ・・・なんで?なんでそんなことになるわけ?許せない」という思いや空気が生まれ、たちまち関係はギクシャクしてくる・・・
 今までは一番近しい、一番心やすらぐ仲間達が、異分子になろうとするヤツを「標的」にして、急に集中砲火を始める・・・それも静かに・・・密やかに・・・でも、確実に、強烈に、辛辣に

 きっと、あなたは悲しい思いをされるでしょうね。
「今まで、あんなに仲良しのママ友で、良き理解者だったのに なぜ?
 
 いえいえ、それはあなたの妄想だったのですよ

 女子校のおトイレ友達が、所詮は「お手洗いに行くための仲良しごっこの相手」だったように、私学を目指すあなた達親子を目の敵にするようになったママ友達は、所詮は、子育ての不安を慰めあうための仲良しごっこの相手だった・・・
 そこまで言い切ってしまうのは乱暴ではあります。ママ友の中には、子育てを終わった後も長く長く続く付き合っていく、大親友になる人もいるでしょうから だから、ママ友がみな、「軽く、はかなく、つまらないもの」と言うつもりはありません
 それでもやっぱり「当たらずとも、遠からじ」のはずですよ・・・
 
 けれど、もしあなたのご家庭の幼稚園受験や小学校受験を期に、急に態度が変わってしまうような人であったならば??
 残念ながら、その人との関係は、その程度のものだった、ということです

 あなたに本当に大事にすべきことは受験ですか?それともママ友ですか?
受験そのものが、わが子や家族にとっての一大事という認識をしなかったとしても、子どものために「小学校受験(幼稚園受験)を選択し、真面目に親子で取り組もう」と決めた「一つの貴重なチャンス」であることは間違いありません
 そうだとすれば、「我が子のチャンス」と「不安を癒すママ友」と、どちらを優先したいでしょう?
 おのずと答えはでるでしょうね?

 むかーし、むかし。
私自身も、Tくんママ、Mちゃんママとして、同じ経験をたくさんしましたよ
 娘が2年保育の幼稚園受験を控えた頃、彼女は長男と一緒に、年少児として近所の幼稚園に通っていました 娘は、一貫校の付属の幼稚園に合格をいただいたら、年中になるときに転園をさせることになります。
 そんな状況の中、急にある時期から、登園のために幼稚園バスに乗り込む時、娘が乗るのを嫌がり、シクシクと泣き出したのです
 すると・・・待ってましたとばかりに
 「あらー、Mちゃん、きっと疲れてるのよねえ。幼稚園受験のためのお勉強ってやつ、大変なんじゃないの?かわいそうに・・・」の声。
 そんな声は、同年、小学校受験の準備をしていた、毎日元気いっぱいだった息子にも向けられました
 「Tちゃん、うちの子が言うには、急に乱暴になったんだって きっとストレスなのよねえ

 ご迷惑をおかけしているなら大変だと思い、息子にも確かめ、幼稚園にもお聞きしましたが、何も変わった様子はない、とのこと。
 要するに、息子の件は、親が意図的に?!おもしろおかしく受験準備をあざ笑ったことであり、また、同じ小学校に行く仲間から「一抜け」しようとしている、というふうに思われ、そんな私達親子に良い感情を持てなかった・・・そういうことだったのでしょう

 さあ、あなたのまわりはいかがですか?
もし、ママ友達の様子が「違って」きたら、もう、あがかないことです

 そういうママ友達の豹変は、あなたにとってはとても残念でしょうし、悲しいに違いありません。
 時には人間不信の思いも生まれてくるかもしれません
 でも、あなたの大切な子どもを育てるのは「あなた自身」です 誰かに育ててもらっているわけではないですよね? 
 確かに、多くの人に支えられ、たくさんの親切や思いやりによってあなたは子育てをしてきたことでしょうね。中でも、ママ友達の時間は、あなたの心のよりどころで、何度も助けてもらった・・・

 けれど、ママ友があなたにとっての「癒し」ではなく、「重荷」や「悩み」になってしまったら???
 
 ママ友との関係は、ケセラセラ
思い悩まず、思い煩わず
 今のあなたにとって、あなたのお子様にとって、大事なものは何なのか?それを考え、ママは笑顔でいないといけません
 ねっ!そうだったでしょ?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まわりが見えない子育て

2009年09月23日 | う゛う゛ー
 少し前になりますが、教室の卒業生ママ達とお食事をしました 毎年、その学年のお母様方は、出願期に入って慌ただしくなるこの頃に、お食事に誘ってくださいます どの学年の卒業生のお母様方とご一緒する時でもそうですが、立派に成長されていくお子様達のご様子をお聞きするのは嬉しく、お教室に通ってくださっていた時、「出来ない、わからない問題」を前にして、口を真一文字に結び、拳を握りしめてうつむいていたお子様達の姿を思い出します・・・

 さて。
そんなママ達との話題は、多方面にわたり、今ではすっかり子どものことはそっちのけの話題も多く、いつも時間の経つのを忘れてしまう楽しい時間です
 とは言え、やはりこの考査前の時期に集まると、当然のことながら、ご自分達の受験期の話しや、本年度の考査の話題になることが多く、先日は「今の志願者達の変化」という話しになりました。

 今日の話題は、受験生の方々には、ちょっとこの時期に、耳の痛いお話ではありますが、やはり「考えるための、ひとしずく」としてお読みください。

 最近では、説明会の時に、わざわざ志願者の方々のための託児サービスのようなものをご用意する学校も多くなりました。
 ほとんどの場合、その説明会中の託児施設は、在校生のお母様方が、学校からの依頼で、ボランティアのかたちでお手伝いをして下さっているものです
 一人のお母様が、「とても驚いたこと」として、お話下さったものに、こんなものがありました

 最近では、学校内まで平気でベビーカーを押して入って来られるのにも驚くけれど、もっともっと驚くことは、その託児施設にしている教室までずかずかとベビーカーで入って来る方が多くなった、ということ ベビーカーとは、言ってみれば「土足」ですからねえ・・・
 もっともっと驚いたことには、にこやかに応対なさる在校生のお母様方に、「これを預けますから、よろしく!」と言って、幼い赤ちゃんのミルクを作り、ほ乳瓶を手渡される方がいる、ということでした そうして、赤ちゃんのお世話を頼み、自分はせっせと説明会会場に行ってしまわれる・・・

 そこが商業施設ではない限り(そこは、我が子がお世話になるかもしれない学校、なわけですから・・・)、託児の施設というのは、当然のこととして、ボランティアのお母様方・・・もしくは、先生方?職員の方?そんな発想にはならないのでしょうか・・・そういう話しになりました
 
 本当にそうですねえ。
「預けられるというから、預けるんじゃないか。預けて良いと言っておきながら、いざ預けたら、いろいろと文句を言われるのは不愉快」そうおっしゃるかもしれませんね。
 じつは、この話題を提供してくださったママは、ちょっと違った視点からもこのことを考えていらっしゃいました。

 「学校側の大きな思いやり、志願者への厚意ではあるけれど、やはり、あくまでもここは学舎。結果的に『サービス』を提供することと同質になるようなこと、そういう誤解を招いてしまうことを提供するのは、学校側の姿勢としては不必要なものではないでしょうか・・・」
 私は、なるほどなあ・・と思いました
確かに、志願者側を責めるのは簡単だけれども、そういう角度の違った見方もあるなあ、と実感しました

 昔は、私学とは、総じて敷居の高い場所、でした。
ですから、その学校に下の子どもを連れて行く、という発想すらなかった・・・
 どのご家庭でも、一人っ子やお手伝いさんのいるご家庭、もしくは、極々近所にご親族がおいでになる、というご家庭ではありません
 ですから、ほとんどのご家庭では、本来は保護者のみが参加する、というかしこまった学校行事がある場合は、下のお子様に関しては、各家庭が苦心をして、対処をしたものです。私の場合も、その例外ではありませんでした 
 当時は、みなが学校側には少しでもご迷惑をおかけしてはいけない、という強い思いを持っていましたし、それが極々普通の姿勢でした。

 しかし、現在では、在校生でさえ、平気で保護者会にベビーカーを持ち込む・・・授業参観に下の子を連れてくる・・・教室で静かにさせるためにお菓子を与える・・・という驚愕の行為があると学校側も、心ある在校生も嘆かれます
 すでに、学校にお世話になっているご家庭でさえそんな有様なのですから、未だ学校とはご縁のできていない志願者だけを責めるわけにはいかない・・・そうでしょうね

 私は、このお話を横で聞いていて、いろんなことを考えてしまいました。
親の行為・・・本来は、子どものお手本になるべき「親・大人」にさまざまなまわりへの配慮がなく、「自分が」楽チンだったら嬉しい・・・「自分が」心地よかったら・・・便利だったら・・・幸せだったら、有意義だったら・・・
 そうです、すべての基本は「自分」なんですよね。

 ここのところ、無意識のうちに、「自分を中心に考える」現代の親世代のことを考えていたら、先日、こんな仰天ニュースを見ました
 それは、群馬県の白根山に登る「観光客」についてのレポートでした。

 昔は、長年登山を趣味にしているような人達が訪れる場所だった白根山。現在は中高年の登山ブームを受けて、毎年、満員御礼状態なのだそうです このように登山の裾野が広がるのは悪いことではないでしょうが、それに伴い、登山が特別の危険を伴うスポーツではなく、「簡単にできること」という意識が定着した上、特に白根山には、夏場は車で登れます。

 すると・・・何と、パンプスやサンダル、短パンで平気でやってくる「登山者ではない、観光客」で溢れるようになったとか・・・
 彼らは、時には犬を連れて訪れ、散歩気分で犬の糞を平気でそのままにする・・・
 断崖絶壁になっているため、立入禁止にしている箇所に、平気でその看板を乗り越えて入り込む・・・
 高山植物の貴重さも知らず、摘んだり、根っこから引き抜いたりして持ち帰る・・・
 昔ながらの登山者が聞いたら、耳をふさぎ、目を覆いたくなるような行為が、日常茶飯事に繰り返されている、というのです
 実際、そういうカップルや家族の映像が、モザイクがかかった状態で、画面にどんどんと映されていきました。

 その映像の中で、私が一番驚いたのは、そういう「モザイクの人達」の中に、多くの親子連れがいたことでした
 幼稚園児くらいの年齢の子ども達の手を引き歩く父母。
 1,2歳児を抱っこした両親の姿。
すべての家族が軽装で、平気で「立入禁止」「危険区域」「高山植物を持ち帰るのは犯罪です」という立て札を通り越し、張られたロープを乗り越えていく・・・
 中には、登ったものの、サンダルやパンプス履きだったため、降りて来られなくなった家族までが映し出されていました

 モザイクがかかったまま、「ここは立入禁止区域なのに、どうして入ったのですか?」や「高山植物は採取してはいけない、と書かれているのに、どうして摘んでいるんですか?」の問いかけに、ある父親はあっけらかんと・・・
 「みんな入っていたから・・・」
 「うるせーなー、そんなこと、オマエに関係ねーだろー 俺たちだけじゃねえよ、みんなやってんだろ

 その昔、お笑いブームの時に、あるコントの芸人さんが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言い、どっと沸かせたことがありました。
 あの頃は、「なるほどねえ、そんな屁理屈もあったかあ、はっはっは」と、それはあくまで笑い話の中での行為でした。けれど、あれから20年以上が時が流れて、親たちは、本当に「みんなやっていることは、それがどんな行為であっても、悪いことじゃないでしょう、みんながやっているんだから。規則?そんなもの、みんなが破るような規則は意味ないんじゃないですかあ?考え直したほうがいいですね!」のような理屈がまかり通るようになったのですねえ・・・

 何事も「自分達を中心に考える」「自分のしたいことをする」「自分が心地よいことを一番に考える」こういうことが、知らず知らずのうちに、今、子育て中の親たち考え方の柱になっているように思います
 我が子、私、私達、これらがどっかと世界の中心にあり、自分たちに不都合なものは悪、自分達の好み以外のものは悪・・・という考え方もないとは言えません。

 これは、抽象的な例ですが、たとえば・・・「見せていただく」のではなく、「見たいから見る」という行為。これは行為としては同じ行為ですが、きっと、この2者の行動は違ったものに見えるでしょうし、「見せた側」にも違った印象が残るでしょう
 
 こういう親の思考、言動、行動に、たとえ「悪意」がなかったとしても、受け取る側の印象は、残念ながら、悪意があろうとなかろうと、あまり違いはありません・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする