goo blog サービス終了のお知らせ 

まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

私達にできること - 東北関東大震災

2011年03月14日 | う゛う゛ー

 テレビでは、地震の夜はひたすら首都圏のターミナル駅の映像が映し出され、「帰宅困難者」向けと思われる情報が流されました。自宅でそれを見る家族も、頻繁にやってくる余震に恐ろしさを感じながら、状況に応じて迎えに出たり、自宅待機をしたりしながら、夫が、妻が、子どもが無事で帰宅すること、所在を確認することに必死になりました。

 一夜明けると・・・映像は一変。
今まで、一度も見たことのない、想像を絶する光景が画面には映されていました。
 「津波」「TSUNAMI」4年前のスマトラ沖の地震で、大人である私達は、その脅威を知ったはず、でした。しかし、「知っている」という思いは、何と薄っぺらなものだったことでしょう。

 あの日以来、何度も何度も流される映像。
レゴで作った家のように、水の中で流され、浮かぶ家々。何にもなくなった海岸線の町の様子。時間が経つにつれて、一般人から投稿される生々しい映像も増え、私達は今回の地震がもた
した(もたらしている)未曾有の惨事を、じわじわと実感することになりました。
 繰り返し、繰り返し見る映像。あの映像の中には、きっと多くの人達の命があるはずです。心ない(と感じてしまう)被災者へのインタビュー。泣き崩れる人達、真っ暗な中で冷たい食事を採る人達を映すカメラ、などなど。私は、「もうやめて!」と叫びたくなりました。
 首都圏からさまざまな手段で現地に入ったテレビ局の人間は、暖かい暖房の効いた家も、家族もいるんでしょう?!こんなふうに、人の不幸を報道することって、いったい何??
 これは、阪神淡路大震災の時にも感じたことでした。きっと、同じ思いをもって、テレビのスイッチを消す方も少なくはないのではないでしょうか。

 でも、私は考えてみたのです。
幸か不幸か、そういう生々しい映像が流れる今の時代・・・その惨状の実態を、知ることのできる時代・・・そんな時代に生きている私達には、きっとその惨状を見ることによって、あらためて考え、実行する「その役割」がある・・・
 我が家のある東横線の菊名は、陸の孤島になりました。東横線は、午後5時半までは、渋谷-武藏小杉間しか運行されません。JR横浜線は運休。少なくとも、電車利用では都心に出かけることは叶いません。 グループ3のこの地域は、12時20分から約3時間、停電になります。
 生々しい報道を見て、悲惨な現場を映すな!と憤り、もう見ないようにしよう、と思うだけではなく、深い祈りの思いを持ってその現状を直視し、遠く離れた私達に「できること」を、一生懸命にやっていくこと。それが、私達の役目なのではないか?

  一生懸命に節電に取り組むこと。
  停電に備えること。
  品薄になったスーパーに行き、食べることにも事欠く被災者達を思うこと。
  交通機関の不便さに甘んじること。
  そして、被災者、亡くなった1万人を超えるであろう方々のために祈ること。

 多くの私学は、今日はお休みになったと聞きました。これから、学校が再開されても、通学にはさまざまな不便があることでしょう。お父様、お母様のご心配やご不便は、幼稚園から同じように電車通学をさせた母親として、十分に理解できます。
けれど、子ども達はその経験から、きっと多くを学んでくれるに違いありません。また、学べるような働きかけ、言葉かけは大事だと思います。私達の日常は、決して「当たり前のものではなく」ということも実感できるでしょう。
 携帯電話に大きく依存し、通じなくなると、たちまちパニックになってしまう自分達のことも、あらためて実感しましたね。私達は「いつでも携帯電話で、つながることができる」と過信し、それがなかった時代のように、非常時にはどうするか?を、十分に考えていなかったことにも思い至りました。

 ご卒業生の中には、今回の被災地にご実家、ご親戚がおいでになるご家庭もあります。

 私達にできること。幸い、こうして生きて、家族とともに暮らせている私達にできること。是非、考え、実行してみませんか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親のすり込み

2011年03月03日 | う゛う゛ー
 我が家は、あまりテレビを観ない家、でした
報道番組やドキュメンタリーなどは好きなのですが、ドラマ(単純明快な韓国ドラマは結構好きなんですが)や映画には全く興味がなく・・・息子や娘が食事の後は自室で時間を過ごすようになってからは、食事が終わるとパソコンに向かう、というのが習慣で、テレビがついているのは、朝の時間だけ、でした

 当然、地デジ化も遅く、ついひと月前までは、大きくて分厚いブラウン管テレビの画面の下には、常に黒い帯が出て、白字で「このテレビはまもなく見られなくなります・・・」という文章がずっと流れていました。(ご覧になったことはありますか?)
 それが流れ出した頃は、とても邪魔に思えたのですが、それも慣れてしまうと、「我が家のテレビには、こういう黒い帯がいつも出るもの」として受け入れられるようになり、総務省?からのご忠告も、ちっとも忠告の意味を成してはいませんでした

 でも、そんな我が家も、遅ればせながら「薄い液晶テレビ」となり、ブルーレイレコーダーまで購入しました そして、今では時代遅れのテレビっこのように、ワンタッチのボタン操作で録画できる番組をあれこれ録画し、週末の夜には、夫とふたりで大型画面のテレビの前に陣取り、お気に入りの飲み物をサイドテーブルに置いてハリウッド映画を見たり、私は見たいと思いながらそれが叶わなかった韓国の歴史劇を見たり・・・大型画面をしばし、実感して暮らしています 

 半月ほど前、娘の勧めで、おっかなびっくり駅前の「TSUTAYA」に行きました。
まるでおばーさんのようですが、映画にもあまり興味のなかった私は、レンタルビデオショップには今までご縁がありませんでした。(息子や娘が幼稚園に入る前には、購入すると1本2万円もしたディズニーの名作ビデオを、よく借りたものでしたが)
 そんなお恥ずかしい私でしたが、せっかく来たのだから・・・と、お店のおねえさんにおたずねし、会員カードも作ろうと思い、さっそく入会。数枚の割引レンタル券をいただいて帰りました

 そして先日、初めて数本の映画を借りました。
ずっと気になっていた朝鮮戦争がテーマになっていた韓国映画、そして、同じく興味があったトム・クルーズ主演のヒットラー暗殺計画の作品。
 どちらも、爆笑痛快エンターテイメント・・・とはほど遠く、夫の出張中、深夜まで観ていると、どーんと心に来てしまい、お布団にはいっても、いろいろと考え、なかなか寝付けませんでした
 特に、私は1973年に友好訪韓団として韓国を訪問。釜山、慶州、ソウルの高校を訪問し、現地の高校生とパネルディスカッションをしたり、ホームステイをしたりした経験があります。いやというほど、日本で訪韓団のメンバーと一緒に、事前授業として、日帝時代の教育を受けて訪問したのですが、あらためて訪問した時期を思うと、朝鮮戦争後、わずか25年、というまだまだ韓国激動の時代だったのだなあ・・・などと思いました

 さてさて。
二枚目、男前俳優のトム・クルーズ氏。借りてきた映画の中では、ドイツ人将校に扮しています。ジーンズ姿などで映画に出ている同氏を、テレビ用の広告で観たりすると、ああこの人はまさにアメリカ人だなあ・・・などと思うのに、あの独特の色のドイツの軍服を着ていると、不思議とドイツ人に見えてしまうのですねえ・・・
 ハリウッド映画ですから、ドイツ人将校のはずが、セリフはすべて英語で、最初は???と思ったものですが、やはり軍服のせいでドイツ人に見えてくる・・・

 そこで。私は不思議なことに気づいたのでした
私の父は、私がとても幼い頃、毎週、欠かさず「コンバット」という戦争映画、アメリカのドラマを見ていました それこそ、ビデオもない頃でしたので、欠かさずに観るために仕事を調整したりするのは大変だったことでしょう
 父は、大変な愛国主義者なのですが、なぜか軍用飛行機や軍艦が好きで、私は小さな頃から、戦争兵器好きの父の一面が嫌いでした 戦争映画好きだった理由も、知りません。

 まあ、とにかく、私も父と一緒にコンバットを観ていると、父は必ず「危ない ナチスの奴らが来た」とか「また来やがった、ドイツ軍だ」とか、舌打ちをしながら拳を握りしめ、言っていました。
 そんな父を見て、いつしか私の幼い意識の中に「アメリカ軍は良い人 ドイツ軍は悪い人」「アメリカ軍は味方 ドイツ軍は憎き敵」という思いがすり込まれていったのでしょう。

 画面の中の二枚目俳優、トム・クルーズ。
その映画には、ほとんど連合軍が登場しませんので、アメリカやイギリスの軍人は出て来ず、全編を通じてナチスドイツの軍服ばかりですが、どうしても、「悪者」としてのイメージが先行してしまいました・・・幼い頃にインプットされた意識とは、コワイものですねえ・・・

 そう言えば。
私の夫は、早稲田大学の出身です。まさに五木寛之の「青春の門」のシンスケしゃんのように、東京の右も左もわからずに、早稲田鶴巻町の下宿に到着した夫は、初めて大隈講堂を見上げた時の感激は忘れられない・・・と話します
 早稲女になった娘が、「ああ、この前で、小さい頃、パパとよくお弁当を食べたよね」と、アッケラカンと話す意識と夫の早稲田に対する意識とは、きっと重さも違ったのでしょう
 そんな愛校心の強い夫は、我が子達が小さな頃から、頻繁に六大学野球は、早慶戦に連れていきました 
 そんな「すり込み」から、二人の我が子は、いまだに「慶應」に対しては、ちょっと不思議な敵対心がある、と笑います それに、大学受験の折、慶應を受験することにも抵抗がある、と言っていたのはおもしろいことでした。

 大人の影響。親の影響。子どもへの無意識のうちの「すり込み」。
53歳になった私にもあるのですものねえ・・・
  花まるを絶対にもらわないといけない・・・という、すり込み
  いつも真っ先に手をあげないといけない・・・という、すり込み
  一番でなきゃ、パパやママは喜んでくれない・・・という、すり込み
  必ず~~しないといけない・・・という、すり込み 
  ○○は良くて、△△は良くない・・・という、すり込み などなど。
 
 
 いろいろと諸事情はあるでしょうが・・・どんな時にも、子どもの意識をニュートラルの状態に置いてやること。それは、豊かな感性を育む上では、親や大人が気を付けてあげなければならないことかもしれないな、と感じた出来事でした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊達直人のランドセル

2011年01月12日 | う゛う゛ー
 小さな善意「伊達直人」・・・日本中に広がっていますね。年明けから、とても心あたたかくなる素敵な伝染です
 こうして次々に各地に登場する「伊達直人」のニュースを聞いていると、日本もまだまだ大丈夫だななどと、ホッとしてしまいます。
 リーマンショック以来、ずっとずっと暗いニュースばかりが続いていたように思うここ1,2年 ちょこちょことハッピーなニュースはあっても、「吉報・吉事」としてしっかりと心に残っていないことを思えば、やはり気分低迷のニュースのほうが多かったのでしょう。

 ただ、今回の素敵なニュース・・・私は、どうしても視点は「伊達直人の善意」のほうではなく、その善意が向けられている児童養護施設のほうに向いてしまいます。
 どのニュースを見ていても、映像では真新しいピカピカのランドセルや伊達直人のメッセージが映し出され、本当に「さらりと」ナレーションで「事情があって親と一緒に暮らせない子ども達の施設」と言われるだけで終わってしまいます
 当然、マスコミが取り上げたいのは「善意」あり、善意がむけられているほうをクローズアップする意図はないわけですから、それは至極当然のこと、だとは思います。

 でもね、子を持つ親として。
みなさまには是非、伊達直人さんから贈られた善意のランドセルを背負って、春に小学校に入学していく子ども達のことにも思いを馳せていただきたい・・・心からそう思っています・・・

 大学生の頃から結婚して大阪を離れるまで、私はボランティアのクラブに所属していました。
アメリカに本拠地のあるライオンズクラブのサポートを受けて、活動をするボランティアクラブでしたので、比較的裕福な家庭の子女達の「善意のお遊び」などと揶揄されることもありましたが
 けれど、そこで活動をする私をはじめ、すべてのメンバーは、とても真面目に一つ一つのことに取り組み、そのつど、多くのことを感じ、考えていました。50歳を過ぎた今、私が当時のことを思い出して思うことは、やはり、若い頃の経験は、何でもストレートに心に響き、感性を揺さぶることだったと思います
 
 話しが横道に逸れてしまいました
その私の所属するクラブでは、通年、地域の児童養護施設のさまざまな行事に参加してお手伝いをしたり、クラブ主導で催しを企画し、そこに施設の子ども達を招いたり、参加してもらったり・・・という活動をしていました
 
 それは、その児童養護施設の子ども達を招いて、奈良に遠足に行った時のことでした。
バスの中では歌を歌ったり、ゲームをしたり・・・子ども達もとても楽しそうで、私もハッピーな気分で一日を終えるはず、でした
 けれど、小学校1年生の女の子のひと言で、その日の私・・・いえいえ、その後、数日間、数ヶ月間の私の気分は、ずっとずっとヒリヒリと痛むものになったのです・・・子を持つ親になったあとも、私は娘の遊ぶ姿を見ながら、その時のことを思い出しました・・・

 女の子と東大寺の境内を一緒に歩いている時、その子は、突然、私にこうたずねました。
 「なあ、おねえちゃん。おねえちゃんは、いつもお母さんと一緒に住んでるのん?」

 私は突然のことに、頭の中は大パニックになり・・・でも、瞬時に適切と思える言葉も見つけられず・・・結局は素直に。
 「うん、そうやよ
と答えました。

 すると女の子は、ニコニコ笑いながら、続けました。
 「ええなあ・・・私もお母ちゃんと一緒に住みたいわ

 ニュースで簡単に語られる「事情があって親と一緒に暮らせない子ども達」・・・
今回の伊達直人の連鎖は、確かに、日本にも小さな善意がたくさんあるということを実証する出来事であり、本当にうれしく、心あたたまるものです。
 そして、満面の笑顔で、贈られたランドセルを背負ってカメラに向かって「うれしい」と言っている子ども達の言葉にもウソはないでしょう。

 でも、当たり前のように我が子と暮らし、他人様からは時には「過保護」に見られているであろう幸せな家庭の母親ならば、やっぱり、伊達直人がランドセルを贈ろうとする施設が、日本各地にたーくさんある、という事実を知り、そして、その施設には、今もたくさんの子ども達が親と離れて暮らしている、という事実を思う時間も持っていただければなあ・・・心からそう願う、ここ一連の善意の話題です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈り - 11月1日

2010年11月01日 | う゛う゛ー
 今日、11月1日。東京都の私立小学校の考査日です
神奈川県や他の首都圏の私立小学校の試験日は、曜日主導や、各校の都合で微妙に変わることがあることを思えば、この東京の試験日は不変です。

 横浜という土地がどんなに東京までの足の便が良くても、私のお教室は神奈川県にありますから、11月1日の東京の考査日がその年の受験初日、ということはありません。けれど、東京校の考査日「不変の11月1日」は、やはり一年の中で私が最も緊張する特別な日、と言っても過言ではありません
 特に昨夜、今日の早朝?は、強い雨風だったため、窓の外の木々の揺れる音、風の音で目が覚め、風雨が静まった後も、もう寝付けませんでした
 毎年繰り返されることであり、私の友人達は、「最初の数年は緊張したかもしれないけど、もう18年間もこの日を迎えているんだもん。さすがに慣れるでしょう?」と言う人が多いのですが、いえいえ・・・この緊張感は、何年年を重ねても、慣れることはありませんねえ・・・

 もう10年以上昔のことですが、息子が中学受験をした時、2月1日や2日、受験をする学校の前や、最寄りの駅の前で、塾の腕章をつけた先生方が、自分の塾の子ども達を見つけては頭をポンポンと叩いたり、握手をしたりして、励まし、エールを送り、見送ってくれたことがありました あの先生方も、たぶん、私と同じようなお気持ちだったのでしょうねえ。
 毎年、毎年、同じことを繰り返していても、きっと新しい年がやってくれば、また同じ熱い思いで生徒達を送り出してくれる・・・でもなあ、あの先生方のように、直接「その日の朝」に生徒達に会って、手を握り、身体に触れてエールを送れたら、どんなに幸せでしょう・・・

 こうして、時にはパソコンの前に座り、時には窓から外を眺め、時にはランニングなどで身体を動かし、時には家事をして、「この日」を過ごすことは修行と言えるかもしれません
 信心深く、公私ともにいろいろな願掛けをする私ですが、10月に入ると験を担いで「赤い物を身につける」ことは、教室の卒業生の方々には有名なことです
 朱色のセーターを着る、深紅のマニキュアを塗る・・・真っ赤な口紅をつける・・・そのことで気持ちが高揚し、自分では、たくさんの「気」が湧いてくる気がします。そうしていると、子ども達と接している時、「プラスのオーラ」のようなものが、どんどんと発散されるように思うのです。
 でも、神奈川の考査日(今年は、10月19日でした)を含め、11月1日の考査の日は、不思議に「赤」の気分にはなれません 何と言えば良いのでしょうか・・・「赤の装い」が『動』の行為であるとすれば、考査日は『静』の日・・・祈りの日、です。

 じつは、昨年、まさに今日、今の私と全く同じ祈りの気持ちで11月1日を迎えた3日後、息子の心臓病が発覚しました。
 11月4日、横浜のホームドクターのところから、息子を車に乗せ、六本木の心臓血管研究所付属病院に移動する間も、病院での検査中も、メールが入ってきていました 考査が無事に終了したと知らせてくださるメール、今後のご相談のメール、合否のメールも・・・私は一つ一つのメールに対応をしながら、息子と夫と3人で検査結果を待ち、そして、驚愕の検査結果の宣告を受けました。
 「君が、この心臓の状態で、今こうして生きていられていることのほうが信じがたい・・・奇跡なんだよ。」から始まるドクターの検査結果報告。まるで心臓が「ここ」に取り出されて、置かれてあるかのように見えるMRIの画像・・・そんな、一連のとんでもない事実が語られても、私が至極冷静に、時には質問まで出来る状態でいられたのは、きっと、私が「祈りの時期・祈りの状態」にあったからこそのこと・・・今、あらためてそんなことを思っています。
 もし、そういう状態にいなかったら、きっと私は、にわかに重篤な心臓病患者になってしまった息子の前で、取り乱し、泣き崩れ、「先生、息子を、息子の命を助けてください」と金切り声を上げて叫んでいたことでしょう

 祈りとは・・・願いごとをすることではありません。
○○小学校に合格させてください と神頼みをすることでも、願掛けをしたり、験担ぎをすることでもありません
 そういう、ある意味、とても身勝手な、俗世的な?目の前にあるものを「触る」かのようなことではない・・・そう思っています。
 きっと、仏教でもキリスト教でも、それぞれの教理に基づく「祈りの定義・祈りの意味」というものはあるのでしょうね でも、残念ながら、不勉強な私には、そういう宗教的な祈りは、本当はどういうものなのか?ということはわかりません
 ただ、私の考える祈りとは、少なくとも「願うこと」とは違う、もっと深く、もっと自分自身の真髄に響いてくるような・・・まるで身体はそこになくなり、魂だけが強いパワーをもって正しいこと、正しいものを動かそうとする力・・・そういうものが祈りなのではないか・・・そう思っています

 心を寄せた学校、熱い思いをもって子ども達とご両親達が向かった学校に、是非ぜひ門戸が開かれますように それは私の切なる願いです。
 でも、もっとそれ以上に、教室の中で熱心に私の話を聞き、一生懸命に言葉を駆使して私に語り、真剣な眼差しで学び、成長してきた「手塩にかけた子ども達」が、持てる力を十二分に発揮し・・・そして、一番、幸せになれる道に導いてもらいたい・・・私はそれを祈っています
 その祈りの思いは・・・手術の日、私が「どうぞ私の息子の命を助けてください!どうぞ、助けてください!生かしてください!」そうひたすら祈った「祈り」と、何も違わない・・・やっぱりそう思います

 11月1日、2日、3日、4日・・・私の祈りの毎日は、まだまだ続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笑顔はどこから?

2010年04月21日 | う゛う゛ー
 すっかり老眼が酷くなり、メガネなしでは電車の中で本を読むことが出来なくなりました メガネのフレームに凝っている私 その日の装い、TPO、洋服の色合いや気分に合わせて、とっかえひっかえ老眼鏡を持ち歩いていると、老眼鏡は常にバッグの中。
 お買い物中、値札の数字がはっきりと見えず、¥1,000-なのか¥10,000-なのか、間違いそうになるということは数知れず そろそろ遠近両用メガネを常にかける・・・という生活にするほうが、物理的に考えれば、ずっとずっと便利なのでしょう。
 でも、今、手元にある中近両用メガネ(手元とパソコンの画面の距離、両方共に焦点が合うようになったレンズ)を、すべて遠近両用のレンズに入れ替える???ひゃ~~~、それは無理というものです
 結局、電車に乗ると、景色を眺めたり、元々好きだった「人間観察」をしたり・・・それはそれで、とても楽しいです。日頃見慣れた景色でも、季節の移ろいによって発見もありますし、建設中のマンションが建っていったり、天気によって町の色合いが違ったり・・・何でも、意味合いを持って「見て」いると、「ただもの」ではなくなるものですよ
 とは言え、地下鉄では景色が見えない。人間観察をしようにも、空いた電車の中・・・けだるい昼下がりの時間、車両のほぼ全員が居眠りをしている時は、本当につまらない
 つい先日、ちょうどそんな状況で所在なげに地下鉄銀座線に乗っている時、ふと前の窓に映った自分の顔を見て、驚きました!
 「なんて怖い顔をしているんだろう・・・」

 私は、自分で言うのもおこがましいのですが、子どもの頃から「あなたの笑顔がよい、あなたは笑顔が似合う」と言われてきました。52年間の人生を振り返ってみると、確かに、しかめっ面をしている時よりも、ずっと笑顔の時間のほうが長いだろうな・・・そう思います
 この笑顔は・・・私の生来の人柄であり、同時に、幼い頃に培われた処世術でもありました。
 幼い頃の私は、祖母や叔父、叔母達と一緒に暮らす大家族の生活。渡る世間は鬼ばかり、の劇中のえなりがずきのように、子どもの頃から「人の表と裏」を目の当たりにしていると、自然と「平和に暮らす術」は培われていくものです
 まわりの大人のもめごと、ぎくしゃく感に感づいても、決して「子どもらしい気楽さ、屈託のなさ」で思ったことを口にしてしまうと大やけどをしてしまいます。(それを学習していながらも、何とか母の味方になってやりたいとの一心から発言してしまい・・・私は何度も癇癪持ちの父親のバシーンの一発を食らったものです
 少し長じてからは、一人っ子の私の逃げ道は「鏡の中の私とお話しをする」ことでした。家族の悪口、罵詈雑言を鏡の私に吐いても、誰をも傷つけませんからねえ。ふわ~、こんなふうに文字にしてしまうと、えらーく暗い子ども時代のようですが・・・そんなこともありつつ、大家族だったからこその楽しさも、もちろんたくさん経験していましたよ

 そんな私が結婚して親元を遠く離れて気楽な生活を送るようになり、そして母になり・・・私の娘は、核家族の中で育ちました。
 突然、夜中に帰宅した父親が上機嫌で社員を連れて帰ってくることもなく、父親のワンマン振りに怯えることもない穏やかな生活・・・娘は、学校の中の人間関係で悩むことはあっても、家族の中で人の顔色を見て暮らす必要はありませんでした。(もちろん、そういうことを辛いと感じていた私が母親になったのですから、娘には、至極気楽な、平安な家族生活を送らせてやりたい!と切に願っていたのです

 でも、娘が高校1年生の頃だったでしょうか。
多感な時期の真っ只中にいた娘と私は、何となくぎくしゃくする母子関係にあり、その頃の私はよく娘に「あなたは愛想が悪い!ニコリとしない子ねえ・・・」と注意をしたものです
 私の言う愛想とは、表情としての「笑顔」だけではなく、会話中の言葉、表現力、すべてに関係する「人を和ませるような愛らしさ」とでも言うものでしょうか、そういう意味での「愛想」が娘には欠けている、と思っていたのです。
 また、頻繁に「あなたは言葉が足りないわよ。言葉足らずは、心足らずよ」と、娘を諭したのもこの時期だったでしょう。
 
 そんなある日のこと。いつものように、無愛想(だと私が感じた)な娘に注意をしたところ・・・娘は、もう我慢できない、という思いを発散させながら、涙を流して私に訴えました
 「ママ、私はママのようには笑えないの!一生懸命に人に微笑もうと思う!ここで笑顔を作れば、どんなに相手が和むことだろうって・・・でも、そう思えば思うほど、顔はこわばり、笑顔にならない・・・優しい言葉で話そうともしているのよ。でも、どんなにそう思っても、自分の気持ちとは裏腹にうまくいかない!私は、ママのように自然には笑えない・・・笑顔になれないの
 ショックでした・・・ ひたすら、ショックでした・・・私は、娘の真剣な訴え、ぽろぽろと流れる涙に、ただただ驚き、かける言葉が見つかりませんでした。
 
 何て可哀想なことをしてしまったのだろう・・・確かに、娘が豊かで、誰からも愛される美しい心を持った女性になるために、との思いから、教えるべきことは教え、母親としてのアドバイスを欠かしてはいけません
 でも・・・
そうだったのですねえ。世の中には、自然に微笑んでしまえる人と、なかなか思うように笑顔になれない人がいる・・・私はその時、初めて、そのことを実感した気がしました。
 「私は自然には笑えない!」そう必死に訴え、嗚咽する娘を眺めながら、私は娘が不憫でたまらなくなりました
 そして同時に、「嫁、姑、小姑」等、ドロドロとした複雑な人間関係の中で、幼いながらも常に人の顔色をうかがうように暮らさなければならなかった窮屈な環境にも感謝しました。思えば、ああいう大家族の生活は、人間関係の「修行の場」でもあったのでしょう。

 さて、その我が娘
無愛想だと再三私に注意されていた娘は、すっかり大人になり、今では「Mちゃんはいつも笑顔・・・本当に愛想の良いお嬢さんねえ・・・」と言っていただける娘になっています。いったい娘に何が起こったのか???

 中学、高校の多感な時期、彼女は女子校の生活の中で人間関係で悩み、もまれ、多くを感じ・・・「人とは?人間関係とか?自分とは?自分の表現方法とは?」というような多くのことを学習したでしょう
 そして14年間のカトリック校生活を終え、大学に入ってからは、今までとは180度違う価値観のバンカラな環境の中で、面食らうこと、戸惑うこと、変身を求められることも多かったはず
 3年間のコーヒーショップチェーンでのアルバイトでも、常に「人と接する事」「サービスをする側の人間としての心遣い」等、お客様に満足をしていただけるよう、神経を使っていた、と言います。
 きっとこの数年間で、娘は家庭の中ではなく、彼女の生きる社会の中で「修行」を積んできたのでしょうね。そして、その修行が実を結び、ほぼどんな時でも、パッと笑顔になれる人間性が備わったのだ・・・親バカではありますが、そう思っています

 でもね、母親として・・・最近になって、やっぱり思うことがあります。
確かに、DNAに由来する人懐っこい人間性が、自然な笑顔の源になり・・・生活環境の中で培われる処世術としての笑顔もあり・・・けれど、それでもなお、笑顔とは「心がそのままで反映されるもの、心に由来するもの」ではないだろうか・・・と。
 最近、娘はよくリビングに来て、私を相手に話し込んでいくことがあります。アルバイト先での出来事、自分が感じたこと、誰かが言っていたこと・・・そんなことを、楽しそうに、けれどとても一生懸命に話しています。そんな娘と接していると、痛いほど伝わってくるのです。
 それは・・・彼女が昔、世の中でたった一人の母親から、それも「笑顔が良い」と評判の母親から、「あなたには愛想がない あなたは笑わない」と真剣な顔で注意を受けていた頃・・・彼女はどんな気持ちだっただろうか? たとえそれがとても大切な忠告だったとしても、「なるほど・・・」などと、真摯な気持ちで受け止められただろうか?

 あの頃・・・娘は、安らげるはずの自分の唯一の家庭で、不幸せな気分で暮らしていたのかもしれません 少なくとも、すこぶるハッピーだった、とは言えない・・・
 学校でも人間関係で悩み、何となく気分優れず、家庭でも母親から「あなたには愛想がない」と、ある意味、女性としては致命的に思えるようなマイナスを指摘され 娘は持っていき場のない情けなさを抱えていたに違いない・・・
 今、娘が笑顔で表情豊かに話す様子を見ていて、私はやっとあれから5年以上も経って、「あの頃の娘は、笑顔になれるほど、幸せな気持ちにはなれなかっただろうな・・・」と気付きました。
 今の娘は、多くの人から「あなたの明るさ、いいですねえ!あなたの笑顔は素敵です」と言われ、彼女自身が「幸せな気持ち」で安心して暮らしていること・・・
 母親から、「あなたは愛想が悪い」と指摘されることもなく、平安な心で母親との関係を保てるようになったこと・・・
 このことが家族の一員としての娘を「幸せ」にしたのだと思えてなりません
 言い換えれば、娘は今、母親に「愛されている」実感、母親に「私の娘は素敵だ」と思ってもらっている実感があるでしょう。その大きな安心感が、今の娘の笑顔の源のひとつになっている・・・違うでしょうか。

 地下鉄の窓に映った私の怖い顔・・・やっぱり、それは気にかかることや、心配事が多い時の顔です (超氷河期の中での就職活動・・・やっぱり口に出して聞いたり、話したりできないぶん、とても心配で、不安でなりません。はやく決まればいいなあ・・・)

 人は誰だって、気持ちが満ち足りている時には、自然に笑顔になるものですものね
 我が子が笑わない時・・・我が子の生活から笑顔が消えている時・・・それは、お父さんやお母さんも笑っていないとき、かもしれませんよ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする