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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

子ども、いろいろな顔

2011年08月04日 | う゛う゛ー
 当然のことながら、「大人と同じように」子どもにはいろんなタイプの子どもがいるものです。

 たとえば。
  初対面から打ち解け、人懐っこくどんどんと話してくるタイプ・・・
  ニコニコはしていても、少し遠くから眺め、まわりの様子を観察し、自分がどのように接していこうか?と考えるようなタイプ・・・
  まったく無関心を装い、実際には全身を神経のようにして、何とかうまくその場に入っていく方法を考えているタイプ・・・
  完全に自分のまわりにバリアを張りめぐらし、まるで自分がそこにはいないがごとくしようとするタイプ・・・

 どの子が「良い子」なのか?なんて、まったくの愚問であることはご理解いただけるでしょう
 ただ、そこにあるのは「親として、我が子がどんなタイプの子どもであって欲しいか?」と考えているか?どのように振る舞う子を「親として良い子と定義づけているか?」ということだけ、です。
 もちろん、子どもながらもその場がどういう場であるかを理解し、最低限「~~な振る舞いはダメだろうなあ・・・」ということは理解してほしいとは思います

 いずれにしても子どもは、短いながらも2年、3年、4年と、両親の家庭教育のもと、それまでの人生を送り、その子の「人柄」が形成されているわけです。
 そして同時に、よほど特別な事情がない限り、父親と母親のDNAを受け継きこの世に誕生し、そのDNAが子どもの思考や行動の柱となっているのですね

 でも・・・
ついつい親は、子育てに一生懸命になればなるほど、そんな基本中の基本である「自分達のDNA」のことも忘れ、「自分達が毎日育ててきたこと」も忘れ、「どうしてあなたはこんな子なの?」と嘆いたり 悲しんだり 腹を立てたり するものなんですねえ・・・何て子どもってお気の毒なんでしょう・・・

 子どもが家庭内にとどまらず、保育園や幼稚園のように、親とは離れたところで過ごす時間が出来てくると、必ず、子どもには「親の知らない顔」が生まれます
 概ね、うちの子は良い子に育ったわと安心して過ごしていたら、ある時、先生に呼び止められ、ちょっぴりご注意、お小言を聞く・・・すると時々「え?・・・それって、うちのAですか?・・・まあ・・・我が家では、そんな乱暴な、粗野なことはしない(言わない)んですけれど・・・」と困惑されるようなことがあった・・・こんな話はよく聞くものです。
 それは、まさに「親の知らない顔」が、確かに子どもにはあるという実証例、ですね。決して、先生が人違いをしているわけでも、意図的にAちゃんママに意地悪をなさろうとしているわけではないでしょう

 もちろん、プラスの例もありますね。同じように先生に呼び止められ、おー、きたぞー、きっとうちのBは何かをしでかしたんだ・・・と覚悟を決めて先生のほうを振り返り、深々とお辞儀をすると・・・
「え?・・・それって、うちのBですか?・・・あれ、本当にBのこと、ですか?・・・我が家では、そんなにお利口なことしない(言わない)んですけれど・・・」と、狐につままれたような気分になる。それも「親の知らない顔」があった、ということに他なりません。

 まずは、親は「自分の知らない顔もある」という事実を、しっかりと認識をしなければなりません
 
 そして、大事なことは、「自分の知らない顔があった」「自分が気づかない顔を持っていた」という現実にショックを受け、悲しがったり、自分を責めたりせず、「ああ、うちの子も成長したんだなあ・・・なんてすばらしい・・・この子は、しっかりと育ってくれているんだわ」と思うこと、です

 幼い子どもを持つご両親、特にお母様は、「我が子を一番理解しているのは私だ!」と信じて疑いません。
 そういう強い思いが良いほうに働けば良いのですが、「私の知らない我が子の顔があるんだ」と知ったとたん、何となく、我が子に裏切られたような気がしてしまう・・・ そういうお母様は少なくはないものです。

 でも、そうじゃないんです
 そんなふうに思ってはいけません

 そして、私は我が子のことをすべてを知っていないといけない 我が子のことは、完璧に知っていることが母親の役目であり愛情だなどと誤解してはいけません。
 そんなことは不可能だし、我が子とは言えど、生まれたその瞬間から、やっぱり「違う時間」を持って生きているんですからね

 むしろ、子どもが「聞いて欲しい」と思っていることを、しっかり聞いてあげてください!
 「ねえ、ママ!あのね!」と話しかけた時、
 「ああ、もう今、ちょっと忙しいのよ、あとでね、あとで!」
などと一蹴してしまい、決して「あと」はやってこない・・・ それではあまりに子どもがかわいそうです。心当たりはありませんか?

 子どもの「素顔」を知り、子どもの「素顔」を認め、愛してあげましょうよ 隣の芝生は青い・・・ダメダメ ご自分の家の芝生だって、ステキな味のある色のはず、ですよ





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「してくれない」族に思うこと

2011年06月19日 | う゛う゛ー

 先日、友人と話している時に「してくれない族」という言葉を聞きました
最初、耳にした時には「紅(くれない)族」という文字が頭に浮かび、???と思ったものですが、帰宅し、あらためてインターネットで見てみると、「くれない族」という言葉は、案外、古い言葉であることを知りました
 もともとは、1984年のTBSドラマ「くれない族・・・」という題名から生まれた言葉らしく、当時は流行語大賞で銀賞になったらしいのですが、当時の私は出産直前で、テレビドラマを楽しむというよりも、自分の新しい生活でいっぱい。それで、そんな有名?な言葉さえ、記憶に残っていなかったのでしょう・・・とまあ、ここまでは余談ですが。
 
 私の友人が語ってくれた「してくれない族」とは、「○○してくれない」と文句ばかり言う人のことで、昨今、そういう種族が増殖中だ、というのです

 「僕はこんなにがんばっているのに、評価してくれない
 「私はきちんとやっているのに、○○はしてくれない」・・・

 聞いてくれない、話してくれない、わかってくれない、から、買ってくれない、作ってくれない、などなど。
 相手から、自分に対して何等かの行動や意思表示、評価がない、ということですね。
 そう言えば、親子間、対幼稚園、対学校、対担任・・・「まどか先生、昨日、幼稚園の保護者会に参加したのですが、幼稚園側は(担任の先生は)~~~してくれないのですよ」とか「私はちゃんと~~したのに、〇〇さんはまったく理解を示そうとしてくれません」のように、口を尖らせて私にグチをこぼす?相談される?ことが、以前よりも多くなったなあ、と思います
 もちろん、その方達のお話が、単なる愚痴や文句ではなく、正当な、憤って当然のことのほうが多いのですが、中には確かに「???この人、何言ってるの?」ということもないとは言えません
 いずれにせよ、私はそのつど状況を聞かせてもらい、それに対する対応や心の持ち方などをアドバイスしているのですが、あらためて「してくれない族」という言葉や現象を聞いてみると、考えさせられました・・・

 もちろん、私にもありますよ
私がこんなに大変な思いをして、ここふた月は週1回の頻度で帰省し、いろいろな段取りをしているのに、私の両親は次から次へと無理難題を持ちかけてくる・・・ちっとも私の苦労を理解してくれない
 私がこんなに懇切丁寧に説明しているのに、ちっとも両親は覚えようとしてくれない
 
 ハッハッハ 言い出したらキリがありません。

 ただね。この「してくれない族」の話を聞いてから、私はかなり真剣に「~してくれない」と腹を立てたり、落胆したり、失望したり・・・という、この時の感情について考えました。
 「~してくれない」という不満は、自分が相手に何かを求めている、ということから生まれる感情、ですよね。求めているのに、何も(十分に)返ってこない・・・だから腹が立つ、悲しい
 ならば、たまには、完全に発想の転換をしてみるのはどうでしょう?
 「~してくれない」ことに関しては、何の解決策にもなりませんが、全然別の次元で、別の話として、「私には何ができるか?」「私は何をしてあげられるか?」ということを考えてみる・・・

 以前の私は、世の中はすべて「give and take」である、考えていました
親子であっても、兄弟姉妹であっても、友人でも同僚でも、先輩後輩も上司と部下も・・・何かgiveするからtakeが生まれる・・・と。
 しかし、この考え方で暮らしていると、生活の随所で「~してくれない」という発想が出てきます
 夫は~~してくれない、息子はわかってくれない、娘は聞いてくれない・・・私は「give」してばかりで、ちっとも「take」がないと嘆くことの多い毎日です。
 こういう時の私には笑顔はなく、いつもどこか不満顔で、鏡に映る自分がちっともステキじゃない・・・

 そんな時、さきほどの発想の転換を試みると・・・
「giveできることに喜びを感じる」こんなこともあり、じゃないか?と思えるようになったのです
 たとえば・・・いろんなことをしてあげられる夫がいる、息子がいる、娘がいる 一緒にいて、喜びや悲しみを共有できる友人がいる 一生懸命に教えると、みるみる育っていく生徒達がいる 私の言葉に「救われました」「感激しました」と言ってくださるご両親がいる
 これって、何てすばらしいことなのでしょう
 
 じつは・・・私は今、このブログを新幹線の中で書いています 早朝の新幹線に飛び乗り、今月に入ってからすでに3度目の大阪行きです
 月に1度であれば、車窓からの景色を眺め、季節の移り変わりを感じ、じっくりと本を読んだり、ちょっと居眠りをしたり・・・と価値ある2時間20分ですが、週1ともなると、この時間さえも苦痛になってきます
 けれど、今でも親孝行することのできる両親が健在であること、私の帰省を心待ちにしてくれる両親がいること・・・発想を「私にできることは何か?」に転換し、「~~できて、うれしい」と思ったとたん、車窓からの景色も鮮やかに見えるようになりますあり

 そんな、聖人君主のような発想なんて出来るわけないじゃないですかと、またまたあちこちからお叱りと呆れる声が聞こえそうですが
 でも、こんなふうに発想を替えてみると、何よりも自分自身がとても楽になります

 マイナスを頭の中で積み重ね、増幅させ、発酵させ、どんどんと疲れていくよりも、時にはマイナスをリセットするべく「プラスへの発想の転換」を試みてみませんか?
 ほんのわずかの時間であったとしても、心がフッと軽くなり、あたたかくなります そして、鏡に映る自分の怖い顔に、わずかながら優しさが見えるようになりますよ

 私は何ができるか?私は何をしてあげられるか?案外、たくさんあるものです


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携帯電話、子どもが十分に活用できるように・・・

2011年05月22日 | う゛う゛ー

 昨日、肝を冷やす出来事がありました
何と、携帯電話をほんの短い時間ではありましたが、「失くして」しまったのです。

 家を出て、駅までの道を歩いているとき、バッグの中の携帯電話が鳴りました 私は、かなり細かく鳴り分け機能を使っているので、着信のメロディーですぐに「両親の関係」からの「電話」であることがわかりました。
 5分ほど話をして、ではよろしくお願いします!と電話を切り、電話を閉じてバッグに入れました。(入れたつもり、でした
 バッグは布製で、内側にはポケットがたくさんついているタイプのものです。私はいつもその内ポケットの一つに、携帯電話を入れるようにしています。

 駅の向こう側の薬屋さんに行き・・・いろいろと買い物をし・・・次は郵便局に行き・・・ハガキを出しました。
 いつもなら、コンビニから宅配便を送るのですが、切手を買うために郵便局に行ったので、ついでに今日は郵便局から宅配便を送ることにしました
 さあ、送り状に送り先の住所を記入しようとしたところ、先様の郵便番号を思い出せません。携帯電話に記録した住所録でチェックしようとしたところ・・・
 アレ ないのです 内ポケットを一つ一つをさぐり、バッグの中身を全部だしても・・・ありません
「さっき電話で話したんだもの。家に忘れてきたわけじゃない!」
 すでにこのあたりのことを何度も何度も反芻しているうちに、私はパニックを起こし始めていました
 一度探したバッグの中を、もう一度探しました。
 ない・・・ おかしい・・・ そんなはずはない・・・ だって、電話を切って、確かにバッグに滑らせるように入れた記憶はある
 青くなる・・・そう言いますね。まさに、その時の私は血の気が引いて、青くなっていたでしょう。

 携帯電話は、ある意味、お財布以上に大事なものです
いやいや、やっぱり財布は大事です。なぜって?キャッシュがそれほど入っていなくても、財布の中にはキャッシュカードが何枚も入り、運転免許証も入っていますし、健康保険証も入っている・・・つまり、現金以上に、失くすと面倒なものが入っていて、それが問題になります
 携帯電話も然り、です。電話ができなくなる、というのは、さほど問題ではありません。困るのは、その中の「データ」です 400人以上のデータが入っていますし、メールは重要な日常のコミュニケーションツールになっています。
 私はすぐに郵便局のお隣の交番に行き、紛失届を出しました。心配で文字を書く手に力が入りませんでした・・・どうしよう・・・困った・・・

 私達はこれだけ、携帯電話に依存した生活を送っているのですねえ。あらためて、そのことを痛感しました。
 だからこそ、あの3月11日の震災時、横浜駅周辺にいた私が目にした光景・・・ビルの外に出た人のほぼ全員が、つながりもしない携帯を握りしめていた・・・

 震災後、我が子のことを気づかい、携帯電話を持たせた、というご家庭も少なくはないでしょう
 でもね、あの日がそうであったように、地震があったそのあとは、長い長い間、携帯電話はつながらないのです。
 どんなに政府が東海地震は来る!という高い確率を発表しても、次なる大きな地震はあって欲しくはありません。
 ただ、次の地震が来るときにも・・・きっと携帯電話はつながらない 携帯電話が活躍をするのは、地震が起こったもっと先の時点でのことです。
 何度も書きますが、地震直後、携帯電話という日頃は何よりも大事に感じている便利ツールは、地震の直後にはどんなに無用の長物になるか、と私達大人は知っています

 だからこそ、子どもに携帯電話を持たせたから安心・・・などとほっとして、
 「何かあったら、この①のボタンを押すのよ そうしたら、ママの携帯につながるからね
 と教え、パパやママ自身が自分の心を落ち着かせるだけは意味がありません

 携帯電話を持させたからこそ、携帯電話に「どういう便利さがあり、どういう問題点があるのか」を子どもの目線にたって理解し、そしてまた「なぜあなたに携帯電話を持たせようと思ったのか」ということを、親がしっかりと子どもが理解できる言葉で伝えてあげましょう

 決して「地震があっても、もう携帯電話があるから大丈夫」などと安直なことを言うのではなく、地震が起こった時には、その携帯電話を使って何ができ(何ができず)、どうすれば良いのか?を、再度、親子で話し合い、本当の意味で、便利ツールの携帯電話を活用できるようにしなければ・・・
 子どもにとって、ただの「高価なおもちゃ」になってしまいますよ


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節電と習慣のおはなし

2011年04月11日 | う゛う゛ー

 「節電」「せつでん」今や関東では、幼稚園児でもこの言葉を知らない子どもはいませんね。
「節電」は、ずっとずっと以前からその必要性が叫ばれ、その運動も続いていたわけですが、実際にはオール電化の集合住宅も増え、結果的に大きく電気に依存する生活に移行していたことは否めません

 私の子どもの頃は、炊飯器といえばガスが中心でした。火力の強いガス釜は、おいしいご飯を炊くことは今でも有名です 電話も、プルプルプル・・・という電子音でかかってくること慣れるまでには時間がかかりました。ジリジリジリジリン、ジリジリジリン・・・黒電話の音は、なかなか良いですよ 今では、一部の携帯電話で、この着信音が内臓されていますね。時々、その携帯電話の着信音を聞くと、妙に懐かしく、どんな人がそれを使っているのかな?などと見てしまいます
 いずれにしても、電気はまるで「空気」のように、私達の生活の中心に君臨していたのでした。

 先日、恒例の介護帰省で大阪に行った私は、まず、新大阪駅について「大きな違和感」を感じてしまったのでした そうです、駅が「明るい」のです つい2時間10分前、新横浜駅改札を入ったときは、キヨスクの看板の照明は消され、駅構内の照明もあちこちが間引き点灯の状態だったのに・・・です。
 
 町全体が節電生活に入った当初は、駅やスーパーが暗く、何となく沈んだ気持ちになったものですが、いつしかそれに慣れてくると、煌々と電気をつけているお店をみると「なんだ、この店は!電気の無駄遣いじゃないか」などと思うようになっていました。
 新大阪駅は、明るい そして、地下街もデパートも、どこもかしこも明るいのです 一部、全国展開をしているコンビニは、表の看板の照明を消していましたが、むしろ大阪の人たちの言葉を借りると、「コンビニが暗いと、入る気にならん。コンビニはあかるないとアカンなあ。」
 大阪で、どんなに節電をしてもらっても、関西電力から東京電力のエリアに電気を分けてもらうわけにはいかないので、暗くする必要性はありません。でも・・・節電生活の中で、すでに1か月近くを過ごしていると、あちこちのピカピカのネオンサインやめちゃくちゃ明るい駅にも、罪悪感を感じてしまうようになっていたのですねえ

 人の「慣れ」というものは、そういうもの、です。
最初のうちは「」や「」と思っていたことであっても、次第に感覚がなれていけば、それが「当たり前のもの」として受け入れられるようになります 今回は、まさにそれを体感したように思います。

 習慣をつけること・・・これは、子どもを育てていく上で、さまざまな場面で要求されることです。家庭教育の柱、と言えるかもしれませんね
昔から「早寝早起きの習慣」などと言われます。きちんと挨拶をする習慣 ご飯を残さずに、さっさと楽しく気持ち良く食べる習慣 手洗いやうがいの習慣 靴をそろえる習慣 あげるときりがありません。
 ただ、こういう家庭教育の中で躾の一部として施される「習慣づけ」は、その多くがマナーやエチケット、健康維持に関するものです。

 しかし、今回の「節電の習慣」は、幼いころから社会性を養う、社会貢献の一部として施されるもの、ですね
本来は、幼い子どもにこういうことを主眼とする習慣を身に着けさせるのは、実際にはなかなか難しいことなのですよ。けれど、子どもながらに関東の首都圏の子ども達は3月11日の地震を経験し、それぞれに直接的にその地震の影響を受けました。
 そしてその後、繰り返し流される地震、津波のニュース映像で、子ども達なりに「確かな何か」を感じているのです

 お父様、お母様方の中には、今回のことに限らず「悲惨な映像は見せない」という方がたくさんおいでになります。その意味はわかります。私も、そういう映像を、縛り付けるようにして凝視させる必要は感じていません。
 でもね、「現実を知ること」「自分の身の回りで起こっていることを知ること」を知り、子どもながらにそれを理解する必要性は絶対にあります これは、この世に人として生まれた限り、当然のこと、ではないでしょうか?
 見せない、聞かせない、経験させない・・・これでは、五感を通して学ぶチャンスを敢えて奪っているもの同然ですね
大切なことは、それを「どう伝えるか?」であり、そこが大人の手腕にかかるところです

 お教室で、5歳の子ども達に・・・
 「まどか先生、セツデン、ちゃんとしている?」
と真顔で尋ねられます。私は一生懸命に・・・
 「えーっと・・・洗面所の電気をね、使わないときには消してます むー、それから、お風呂の乾燥が終わったら、このごろはずっと換気扇をまわさないで、ドアを開けるようにしているわ。・・・それから、給湯、給湯ってね、蛇口をひねると、すぐにお湯が出てくるようにするやつね、あれを、ずっとスイッチつけっぱなしにしないで、お湯を使うときにスイッチを入れるようにしてるわよ
と説明をすると、とても満足そうに、「えらいね」と言ってくれます。

 「節電」をする意味、その必要性を、各年齢の我が子達にわかるように説明をする知恵を絞り、良い習慣をつけてあげましょう。いつも私があちこちに書くように、せめて元気な私達が、この大きなマイナスから学び、プラスに転じていけるような実践を心がけなければいけない!心からそう思っています


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空っぽの商品棚

2011年03月18日 | う゛う゛ー

 ここ数日、スーパーやコンビニに行くと、愕然とします。
ほとんど商品のなくなった棚が並んでいるのです。今週のはじめは、カップ麺やレトルト食品。でも、そのうち乾電池、パン、お水、お米、牛乳、卵、納豆、トイレットペーパー・・・となり、今では、ある意味で「手当たり次第、買えるものは買っておこう」のような買い物の仕方になったようで・・・今日、午前中に立ち寄ってみると、おせんべいやポテトチップスまで、姿を消しました

 昨日、震災の報道をする特別番組の中で、この「買いしめ、買いあさり」についての話題があり、心理学者がこの状況について、学術的に解説をしていました。
  「最初は、家族のため、自分のために備蓄をしよう、という真っ当な思いだったのに、いつのまにか『あった!買える!』ということが満足感になり、目の前にあるものを買うだけで安心してしまう、という気持ちになっていくのですねえ・・・」
 なるほどなあ、と思いました。

 乾電池や懐中電灯が必要なのは、よくわかります パンも、調理をしなくても食べられますから、何かおおごとがあってライフラインがストップした場合にも「買っておいて良かったね。」と思えるものでしょう。牛乳も、小さな子どものいるご家庭では、絶対に必要でしょうね。
 でも・・・
ほぼ毎日のように、開店と同時にスーパーに駆けつけて「入荷しました」の張り紙のあるものの棚を走り回り、複数個買っていく・・・万が一のための備蓄用だったり、停電の時のためだったり、正当な理由はたくさんあるでしょうが、果たして、全員、このようにしている人達にとって、カゴの中のものは、本当に必要なものなのでしょうか?

 自分を守る 家族を守る そうですね。
 自分(達)の身は、自分(達)で守る いらぬお世話を他人にかけない すばらしいです。

 でも、自分(達)以外の人のことを考える、自分(達)さえ安心になるのではなく「みなが安心でいられるように考える」という思いも、あって良いのではないでしょうか。

 私は、どちらの思いも正しいと思います。
私は地震のあった日、横浜のビルの9階にいました。揺れが一旦おさまった時、階段で1階まで下りて外に出ると、地震発生後わずか10分弱でしたが、横浜駅西口は大混雑で、誰もが通じない携帯を握りしめていました
 私はすぐに「家まえ歩こう 7,8キロだから」と決断し、歩き始めました
 帰宅困難者となった夫と娘は、会社や友人のお宅に泊まりました。
 
 私は地震発生から、まる一日一人で自宅で過ごし、家族や親戚、友人の無事を知ったあと、本当にとてもたくさんのことを考えました。一番考えたのは、「小さなお子様のいるご家庭のこと」でした
 
 私が「7,8キロだから歩こう!」と決めたのは、確かに、日頃からよく横浜―菊名間を歩くからでもあり、一応は健脚であることから、「長い距離を歩くこと」に抵抗がなかったからです
 でも、私ではなく、すごいアスリートで、歩くことにも走ることにも抵抗のない人であったとしても・・・
  小さな子どもが一緒だったとしたら?

 抱っこや、昔のように「おんぶ」をしていれば、歩くことは可能です。百歩譲って、ベビーカーを押していてもOKでしょう。
 しかし・・・
  2,3歳の子どもの手を引いていたとしたら?
  幼稚園や保育園帰りで、疲れた子どもが一緒だったとしたら?
 私のように、即決で「歩く」とは決められなかったでしょう。
上手く早めにタクシーを拾えば私よりも早く、帰宅できたでしょうが、いろいろと考えてタクシーを待っていたとしたら?帰宅はずっとずっと遅れ、子どもはむずかり、ミルクや食事、お手洗いの心配もでてきていたことでしょう。(何と、同じ時間に横浜にいたご近所の方に後日お聞きしたことですが、横浜駅のタクシー乗り場で待って、来ないタクシーを待っていたら、帰宅したのは夜の10時だったそうです

 地震の夜、何度も来る大きな余震にドキドキしながらも、テレビを観ながら何とか気丈にいられたのは、私が一人だったからです。
 もし、夫は帰宅できず、母一人で怖がる子どもを守らなければならなかったら?どんなに不安で、泣きたい思いになったことでしょう

 また、商品のなくなっていく棚を携帯のカメラで撮り、遠方にいる友人に「日本じゃないみたいです。昔の共産国の商店のようです」などと書いて、写真を添付して送っている私です。そんな私が、必死に備蓄を考えず、「まあ、あるものを、少しずつ、工夫して食べましょう!」と思えるのは、間違いなく、すでに大人になった娘と、夫との暮らしだからなんですよね。
 まだまだ小さなお子様(たとえ高校生であったとしても)と一緒の暮らしであれば、三度の食事のことは、真剣に考えなければなりません

  自分のことを守る、我が子を守る、家族を守る!そのために「買う」こと。
  少しでも人のことを思い、買いしめ、買いあさりをしないこと。
 
 これは、どちらが正しい、正しくないではなく、親として、どちらに近い行動をするか?ということでしょう・・・

 ただ、ひとつ、私が多感な子どもを持ったお父様、お母様に絶対に申しあげたいこと それは・・・
  空っぽの棚を見せて、それが「なぜ起こっているのか?」を教えてあげてください。
  そういう現象を「パパ(ママ)は、どう思っているのか?」を話してあげてください。
  商品がなくなっていくお店を見て、「パパやママは、どうしようとしているのか?」を伝えてあげてください。

 そして、地震を含めた今の状況を、子どもにわかる言葉で伝え、被災者、被災地に思いを馳せることだけではなく、「今の自分達が置かれている立場」について、子どもと一緒に考えて欲しい、ということです

 幸い、ご遠方にご実家やお親しい縁者がおいでになる方は、春休みになったこの時期、きっと期間を決めずに帰省をなさることと思います。
 おじいちゃま、おばあちゃまは、どんなに離れたところでご心配をされていることでしょう 「そんな怖い首都圏にいるよりも、こっちに帰っていらっしゃい」親とすれば、当然の思いですね。
 53歳になった娘に対しても、やっぱり「今日は大丈夫?何か送ってあげる?」と、私の母はメールや電話をよこします。もし、私が「今日、すぐに10キロのお米を、うちと、T(私の息子です)のところに送ってくれる?」などと言ったとしたら、母はどう対処できるというのでしょう?それでも、日頃はメールで済ます用も、今はひっきりなしに電話をして、あれこれと気遣ってくれます。

 ただ、それでも、「ああ、これで安心 もう大丈夫。良かった良かった」「これで、いつも通りの生活ができるのよ」というのではなく、自分達が暮らす東京や横浜で(今は、全国各地で買いしめが始まっていると聞きますが)何が起こっているのか?を教えてあげ、そして、幼いながらも、子ども達がそれに対して、「どういうことを言うのか?」「どんなふうに考えるか?」を聞いてあげてください

 子どもは、未熟で未経験な存在です
でも、未熟なりに、考えさせるチャンスを与えると、しっかりと考える能力を持っていますし、また、その能力を育ててあげなければなりません
 いつも「守ってあげる」ばかりで、子どもに考えさせるチャンスを与えていないと、「考えられない子ども」にしか育ちません

 空っぽの商品棚。きっと、子どもにもインパクトはあるはずです
こんなマイナスの時期だからこそ、元気な私達は、縮こまらず、子ども達をも縮こまらせず、頭をしっかりと働かせてあげましょう
 この復興を支えていくのは、これからを生きていく「子ども達」なのですから
 
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