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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

「痛い」「辛い」ということ

2013年01月20日 | う゛う゛ー
 私は、同年代の女性の中では、比較的、力持ちだと思っています たぶん、それは「母譲り」のポイントで、今年82歳になる私の母も、私が幼い頃からよく重い荷物を持っていましたし、今でも足元に十分気をつけながらも、それなりに家の中ではモノを運んでいます
 我が家では、子ども達が小さな頃から夫は海外出張が多く、粗大ゴミを捨てる・・・古新聞を運ぶ・・・部屋の家具の移動をする・・・などの力仕事も、できる限り自分で完了するようにしていました。
 そんなクセもついていますし、力持ちの自分を自負する部分もあり・・・私は年明け早々、箱に詰めた本をトランクルームに運ぶときも、夫を待たずに「自分で終わらせよう」の気分があり、がんばってしまいました

 これは、整骨院の先生にお聞きした話ですが、重いものを持ち上げる時には絶対「頭を身体の前に傾けた状態で持ち上げてはいけない」そうです。頭は重いのですって
 その重い頭を元の位置に戻すためには、首に大きな負担がかかる・・・首はいつも重い頭を支え、傾いた頭を元に戻すためにがんばっているのだそうです

 そうです 私はそんなことを知らず、思いっきり頭を前に倒し、めいっぱい本が詰め込まれたダンボール箱の上にこすりつけるようにして、その箱を持ち上げました。そして、その箱を早足で運び、今度は下ろして車のドアを開け、また持ち上げて積み込む・・・これを4箱分
 あくる日の朝、お布団から起き上がることができませんでした。むー・・・馬鹿ですねえ・・・

 すでにその日から2週間が経過していますが、なかなかすっきり回復しません
日によって痛い日があったり、ジーンと重い日があったり・・・要するに、辛いのです・・・
 痛かったり、重かったりするだけではなく、気分がすっきりせず、滅入ります
 「年明け早々馬鹿だなあ・・・」とか「本調子で家事ができない・・・」とか「ランニングやスイミングに復帰できない・・・」とか
 現に夫に「腰を痛めたようです」と報告した時、間髪を入れずに返ってきた言葉は「大丈夫?」というヤワな言葉ではなく、「ひや~、痛かったら何にも出来ないやん」という超現実的な、想像通りの言葉でした。ここ1年、トレーニングを止めて、リバウンドしていくにまかせていた私の様子を気にしていた夫。ほんと、その通りです。腰痛では、泳ぐことも、走ることもできません。まいりました

 3年前、他界した叔母は長年リウマチを患っていました。
晩年は四肢の痛みがひどく、自力で家事をすることも、自由に移動することもできなくなり、すべて叔父の力を借りての生活でした。
 叔父、叔母には子どもがなく、姪である私が最も身近な親戚でしたが、私とは血の繋がりのなかった叔母は、痛みに耐える姿、だんだんと変形していく手足を他人に見せることを何よりも嫌い、私が久しぶりに叔母に会ったのは、他界する3ヶ月前、感染症で入院した時のことでした

 病院のベッドの上で、ほんの少し体勢変えるだけでも叔母は痛がり、顔を歪めていました。そんな現実を知った私はとてもショックでした。
 ちょうど息子が入院をした時期と同じだったため、思い返しても、ほとんど何もできないうちに息を引き取ってしまった叔母に申し訳ない思いでいっぱいでした

 でもね、叔母の長年のリウマチの痛みとは比較できるわけがありませんが、今、私自身が腰の小さな痛みや辛さを実際に経験し・・・叔母の痛さ、辛さは、どんなものだったか・・・初めて身近なものとして、真剣に考えるようになりました。

 健康な人は、痛みを持つ人に対し、同情の気持ちを抱きます。自分の生活に実害がなければ、大丈夫ですか?お気の毒に!と思います。
 けれど、本当に「痛い」という状態はなかなか想像できないものですねえ・・・そして、実際の痛みだけではなく、そういう状態、そういう状況を心底「辛い」と感じていることは、もっともっと理解できない・・・

 椅子から立ち上がる時、お布団を敷く時、「イタタタ・・・」となるたびに、私は叔母のことを思います。
見たこともなかった叔母の生前の生活・・・どんなふうに痛みを堪えてお手洗いに立っていったのだろうか?テーブルから転がってしまったお箸を拾っていたのか?食べた食器を流しに運ぶとき、少しでも痛さを軽減するために、どんな工夫をしていたのか?

 まだまだ叔母のことを思い出す生活は続きそうです。



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許してみませんか?

2012年12月29日 | う゛う゛ー
 今年もあと2日間。年をとったせいでしょうか・・・最近は、あっという間に1年が過ぎていく気がします まあ、古今東西、老若男女、時間だけはきちんと平等に与えられているものですから、「ああ、今年、あなたは残念でしたねえ。ご主人様のちょうど半分しか、時間は与えられなかったですね・・・」なんてことはないわけで

 その、あっという間に過ぎたと感じた2012年。
私は、さまざまな場面で「何と人々は小さなことで腹を立て、人を許せない生き物なのか・・・」と実感した年でした

 昨年、私達日本人は大きな不幸を経験し、それ以来、日本人は総じて「優しくなった」と言われています。
 確かに、豊かな生活に慣れ、一人ひとりが勝手なことを言い、勝手な方向を向いていた時代が続いた末、やってきた世界的な不況 誰もが悲嘆にくれ、殺伐とした心で過ごしていたとき、あの震災に見舞われました

 正しい表現ではないと思いますが・・・そんなとてつもなく大きな代償を払って、私達日本人は、あらためて「自分以外の人のことに目を向け、その人のことを考える」という行為を思い出しました。
 若者達のボランティアやチャリティーに対する興味や活動などは、その最たるものでしょう。「自分に何ができるか?」「こんな自分でも、人の役に立てる」というような言葉が、さまざまなマスコミ報道の中でもたくさん聞かれました。

 でもね。
電車に乗ってみると・・・混雑した電車の中、お隣の人の荷物が自分の体にあたることを、露骨に顔をしかめて迷惑そうにする人 自分の降りないターミナル駅で、降りていく人達に押され、舌打ちする人・・・居眠りする人が寄りかかってくると、ぎゅーっと肘で押し、怖い顔で睨む人・・・

 確かに、自分がそのシチュエーションの当人だとしたら、決して愉快なこと、ハッピーなことではありません。不愉快極まりない、と感じることも理解できます。
 けれど、電車に乗っている時間は、きっと長くても30分程度。一日24時間ある中の、ほんの30分です。
 「我慢をすればいいのに・・・」と言いたいのではなく、何とか「その相手を、許せないものかなあ・・・」と思うのです
 
 荷物が体にあったたら・・・
 「私も、もしかしたら、こうして自分の持っている荷物やバッグで、人を不愉快にさせているのかもしれないなあ・・・」と思えば、その人の無神経(実際には、とても気にされているのかもしれませんし)さを許せるのではないでしょうか?
 
 降りていく人達に押されたら・・・
 「きっと私は邪魔になってるんだな、失礼、失礼」と思えば、腹を立てるより、むしろ詫びたい気持ちにもなり、やむを得ず「押して」降りていく人を許せるように思います。

 ぐらぐらと体を揺らし、居眠りしている人に寄りかかられたら・・・
 「この人は疲れてるんだなあ・・・お仕事、大変なんだなあ。仕事での疲労ではないとしても、こんなに電車の中で爆睡するんだから、よほど睡眠不足なんだろうな。」と思えば、ふっと気持ちは和み、優しい気持ちで少しは許せるのでは・・・

 多くの親子を見ていると、「人に対して、優しく広い心を持った親の子どもは、やはり優しい子どもに育っている」と思います
 いつも物事に対して攻撃的で、文句ばかり言っている親の子どもは、決して穏やかな温厚な子どもには育っていないものなんですね

 「許す」というのは、「受け入れる」ということだとも思います。
自分の発想を「拒絶」や「拒否」、「否定」から、「容認」や「許可」、「甘受」に変えるだけで、とても気持ちが穏やかになるものですよ
 自分の気持ちの持ち方を替えれば、「許す」ことはそれほど大変なことではありません。そして、許せるようになったとたん、心が軽くなり、顔つきまで柔和になるものです
 腹を立ててる時、ぶつぶつと文句を言っている時に、一度、ご自分の顔をご覧になってみてください。それはそれは、醜い顔ですから・・・

 こんなふうに「偉そうに」言っている私ですが・・・いつも「許せる人」であれるよう、修行の毎日です

 来年も、日々修行の思いで、毎日を大事にしていきたいと思います


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豊かな子育て、にかえる

2012年12月05日 | う゛う゛ー
 ここ5、6年、子育てに自信を失って右往左往する・・・というワーキングマザーが増えているように思います 私は、苦笑をしているわけでも、嘲笑をしているわけでもないのです。
 私はひたずら、そういうママ達をお気の毒だと思っているます。今すぐにでもお目にかかって、「大丈夫 あなたは、頑張っていますよ。今の子育てで大丈夫!あなたは素敵なママですよ」と、握手をし、ハグをし、励ましてあげたい

 ここで、仕事に関して考えてみましょう。
仕事の場合は、概ね、努力は報われます。仕事の大小に関わらず、計画的に仕事をし、そのパフォーマンスが自分の満足のいくものであれば、成果に結びつきますね
 多少、職場の人間関係等、仕事の成果に影響を及ぼすことはあっても、基本的には、自分の努力、自分の力量によって仕事は完成されていきます。
 ワーキングマザー達は、そういうご自分の確固たる経験が「自分のスタンダード」になっているのです。ですから、知らず知らずのうちに、家事であっても、育児であっても、その感覚を引きずってしまう・・・

 でもね、子どもは「生き物」です。
血を分けた愛する我が子であっても、生まれたその瞬間から、子どもは「その子の道」を歩んでいます。そうである限り、たとえ幼くても、親の「思い通りにはいかない存在」なんですよー、残念ながら
 もっと言えば、「親の子育ての努力は、即効性を持って報われるものではない」という認識が必要なんです

 子育てでの努力は、必要不可欠なものです。なぜなら、この世に産み落とした限り、親は我が子を立派な社会人になる卵として、一生懸命に育てる責任があります。じつは、この認識のない親はたくさんいます。「この子は私の子」という認識しかない親、です (まっ、このことに関しては、また別の機会にお話をしましょう。)

 話を元に戻しましょう。
仕事をするように、子育てはできません。仕事のときのように、子育てはすぐに効果は出ないもの、なのです。なぜなら、相手は自分とは違い生き物であり、経験のない、超未熟な存在なのですから

 でもね、仕事でそれなりの成功、成果を治めてきた(きている)ママ達の場合、たくさんのアンテナも持っていますからね。たとえば・・・
  Mちゃんが教えてくれた塾は、東大脳を育てるってことよ。1年生では遅いんだって。
  Aちゃんは2歳から○○っている英語教材を使っていたから、お嬢ちゃんはすでにネイティブみたいな発音なんだって。
  毎日、英語のCDを流していると、すごく効果的なんだって。
  ○○先生の教室は、かなりすごいらしい。すでに定員だから、ウェイティングリストにお願いした。
  Etc. etc.

きっと、すべてウソではなく、本当のことでしょうね。でもね、それらはあくまでも「情報」であって、子育ての切り札ではないはず、です。
 ところが、知らず知らずのうちに「育児も私のパフォーマンスのひとつ。ヘマをしちゃいけない。最高の情報を集め、最高のものを施せば、我が子は最高になる」という自己暗示をかけてしまい、それに雁字搦めになって、思い通りにならないと腹を立て・・・
 ここから先は2つのタイプに分かれます。ひとつは、思うような成果がでないと、子どもにあたってしまうタイプ。要するに、子どもに言葉の暴力で対応してしまう母親。そして、もうひとつが最も多い「子育てに不安を感じる。自分の子育てが正しいのかどうか、常に悩む」という母親、です。

 子育てでは、最高のものと言われる「100」のものを与えたとしても、たった「10」しか実らないこともあるのです じゃあ、残りの「90」は無駄だったか?と問われれば、1年後に「10」、数年後に「10」の芽が出てくるかもしれません。
 じゃあ、その残りの「70」は意味がなかったか?いいえ、そうではありません ママがもし、成果ばかりを求めるのではなく、深い深い愛情を持って、「100」のものを与えたとしたら、その「100」を与えたママの愛情は、決して無駄ではなく、とうとう母親の愛情として、子どもに届いているのです 母親の愛情ほど、尊いものはないのですよ。子どもはママの愛情を受けて、それを栄養にして、心身ともに成長していっているのですから・・・

 正しい子育て?そんなものは、箇条書きにできるものではありません。それに、そもそも「正しい子育て」とは、何でしょうか?
体罰はいけない、と言われて久しいですが、けれど、時には教育的見地からピシッとお尻をぶって教えないといけないこともあるはず、です。大声で叱ることは下品かもしれませんが、それが電車の中でも、間違ったことをする我が子に怒鳴る必要もあるでしょう。となれば、「正しい」と定義できる子育てなど、そもそも存在はしないはず、です。

 愛情を注いで育てること、これしかありません。これは正しい?間違ってる?などと、いつも不安になっているようでは、愛情を注ぐことさえできないでしょう 愛情を注ぐ・・・これは、3歳の子どもに対しても、10歳の子どもに対しても、15歳の子どもに対しても、同じです

 我が子に様々な「成果(ときには、成長、という言葉に置き換えられるかもしれません)」を求めて、無意識のうちに「give & takeの子育て」をしてしまっている自分に気づき、まずは、自分自身を救ってあげましょう。

 そして、ゆったりとした気分で、子どもに相対してみませんか?
自分が与えたものの成果を求めていることは、時には親の「エゴ」でもあるのです。

 見返りを求めず、子どもとの時間を、心底楽しみ・・・小さな発見の喜び、小さな変化に拍手する・・・そんな本当の意味での「豊かな子育て」に戻ってみませんか


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たくさんの言葉をあやつれるようになること

2012年10月28日 | う゛う゛ー
「たくさんの言葉」などと書くと、きっと英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語・・・というふうに、まずは外国語のことを思い浮かべられることでしょう。
 いいえ、違うのです
私今日、お話をしたいのは、私達が普段使っている母国語である「日本語」です。その当たり前に使っている・・・話せて当然、と思っている日本語・・・その日本語で「たくさんの言葉」をあやつれるようにならないといけないですね、というお話、なのですよ

 じつは、こんなお話があります。
入社2年目のA君。やる気もあり、真面目で、とても好感の持てる青年です そのA君、普段はなかなかお目にかかれない、会社の役員との会食の機会に恵まれました。A君も、A君の直属の上司も、大変喜び
 A君は、滅多にない機会を良い時間にしたい と強く望み、A君の上司は、将来を嘱望される立派な部下をアピールする良いチャンスだと嬉しく思っていました。

 いよいよ会食の日。いつも以上に装いにも気を配り、準備万端。
緊張しながらも、和やかな雰囲気の中で食事は進み、デザートの時間になって、ゆっくりと役員とA君が直接、話す機会がやってきました。
 その役員は、外国語も堪能で、育ちもよく、しっかりとした教育を受けてこられた、ということを聞いているA君。言葉遣いにも気を付けよう、ときっと思っていたでしょうね。

 「A君はとてもがんばっているそうだねえ。どう、仕事は?」
 「はい、学ぶことばかりです。」
 「そうだね、1年、2年は、いろいろと大変だよねえ。社会人となれば、学生の頃と違い、業務以外のことでもたくさん学ぶことはあるからねえ。ところで、A君は大学では何を専攻していたのかな?」
 「はい、一応、経済学を勉強していました。」
 「?そう、一応、経済学をね・・・」

 急に不穏な空気になり、役員の最後の言葉を境に、会話が弾まなくなったことに、残念ながら緊張の中のA君は気づきませんでした

 私は、A君の言葉の意味が理解できる気がします。
彼は、本当はきっとこう言いたかったのだと思います。
 「はい、経済学を勉強しました。しなしながら、しっかりと勉強できたか、となると、大変恥ずかしいことですが、何とも疑問です。」というふうに。
 A君が敢えて付け足した「一応」には、そんな意味があったのだと思いました。

 けれど、役員の耳には、この「一応」は甚だ耳障りな言葉で、本来の「一応」の意味である、「とりあえず、ひととおり」と受け取られ、A君の学びへの姿勢の不誠実さ、不真面目さとして、感じてしまわれたのでしょう。

 世間では、「話しの上手い人」「口下手な人」という言い方があります。確かに、私などは「話しの上手い人」と分類されるでしょう。
 しかし、話しが上手いと言われる人でも、その会話の中に心のこもらないものを感じさせたとしたら?単に話しが上手なだけで、そこに何か深みのなさを感じてしまわれるような言葉であれば、たとえ話しが上手でも、人としては上等とは言えませんね
 また、口下手な人と言われる人で、会話が流れるようにはいかなくても、そこに人間味があり、あたたかさがあれば、その人の人柄は評価され、愛される人となるに違いありません

 A君と役員の会話。
緊張や、何や、いろいろな要素はありますが、やっぱり、話の上手下手ではなく、A君にもっとたくさんのボキャブラリーがあれば・・・

 今では頻繁に使われ、多種な意味を含む「一応」ではありますが、役員の年齢や、対役員との会話、というシチュエーションで、A君が思わず口にしてしまったのは、やはり、日頃から使いこなす語彙に広がりと深さがなかったから、とも言えるでしょう

 国際化の進む中、外国語の習得は必須と思われていますし、実際にこの社会の中で、外国語を堪能に操れることは、社会人としては大きな武器になりますし、人としての豊かさになることは間違いありません
 でも、やっぱり、母国語である日本語の重要性を認識し、しっかりと習得していく中で語彙や表現力を磨いていくこと・・・これは、とてもとても大事なこと、です 母国語の幅が狭ければ、外国語の幅は、もっともっと狭くなる・・・

 A君が、やる気もあり、真面目で、とても好感の持てる立派な青年であるからこそ、残念ですよね
 きっと、A君のような若者が増えているはず、です。その責任の一端は、母国語の大切さを認識していない親にもあるのではないか、と常々感じている私です


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初めて、慣れない、は大変です。

2012年10月17日 | う゛う゛ー
 今年81歳になった私の母。今でも土日以外、午前中は会社に出勤し、午後は父の施設に立ち寄り、夕方に自宅に帰る・・・という生活を続けています
 月に1、2回は昔からの友人からお誘いを受け、馴染みのお店に夕食に行き、おしゃべりを楽しむ・・・月に一度、必ず帰省し、2泊する私との時間を楽しみにする・・・気が向くと、行きつけのブティックに立ち寄り、好きなお洋服を買う・・・それが母の生活です
 大阪の町の中心にある高層マンションに引っ越して、今年で6年。私が必ず月に1度は帰省をするという条件つきで、郊外の家から移ってもらったのですが、まさかここまで、その生活をしっかりとこなし、のびのびと楽しんでくれるとは想像はできませんでした。

 昨年の6月、長年の持病のある父は、ヘルパーさんと母と二人では、とうとう自宅では十分にお世話ができなくなり、父の意思もあり、介護付きのマンションに移りました。すべてを段取りし、実行に移した私でしたが、さすがにおしどり夫婦と言われていた二人が離れ離れの生活をする・・・ということには大きな不安がありました
 けれど、結果は「案ずるより産むが易し」。ここ1、2年、父、母お互いに密かに負担を感じ、密かに不幸せになり始めていた生活から解き放たれ、今、午後の数時間、世話をすることも、世話をされることもない「楽しい時間だけを一緒に」過ごしている両親には、再び昔のような満面の笑顔が戻りました。私も幸せになりました・・・

 その母。
毎日、電車利用で出勤はしていますが、実際にはほとんど歩くことがありません 駅にはタクシーで移動。父のマンションへも、結局は駅からタクシーです。けれど、本人は「私は現役。健康そのもの」という自負心があり、どんどんと筋力が落ちていっている自覚などはもう頭ありません。
 実際、81歳という年齢を考えれば、当然のことではありますが、しかし、母が理想としている毎日の生活を実現するためには、実年齢の平均的な体力、筋力以上のものが必要です

 そこで私は、またまた画策。自宅から歩いていける比較的高齢者の多いフィットネスクラブを見学。
ゆったりとした雰囲気や充実した施設、トレーナーやスタッフのお人柄に満足し、私はすぐに「母の入会」を決めました そうです、勝手に、です

 父が介護付きのマンションに移ったら、「絵手紙をならってみたい」「フラダンスをしてみたい」などと言い、私はせっせと帰省のたびにフィットする教室を探していたのですが、実際に父が引っ越していき、母の新しい生活が安定してくると、何と母は安心して完全に仕事復帰。
 「私には趣味はありません。私は仕事が大好き」とずっと言っていた母の言葉を思い出し、母の新生活スタイルに私は苦笑を禁じえませんでした。

 さあ、フィットネスクラブのこと、母に話さなければいけません
私はいろいろと考え・・・けれど、結局は、はっきりと話すころにしました。「今のようにほとんど歩くということがなければ、脚力が落ち、完全なO脚でのお参り歩きをするようになってしまうこと。もっと脚力が落ちれば、次第に歩くのが億劫になり、気持ちや気力だけがあっても、満足に思うよう行動ができなくなること。運動不足になると、脳も活性されないこと。」などなど。さすがに母はビビりました
 フィットネスクラブまで徒歩5分、ということもあり、母はあっさりと承諾 とにかく、一緒に見に行ってみることにしました。
 あらかじめ話を進めておいたトレーナーが待っていてくださり、どんな運動ができるか、どんなメニューを考えているか、を優しく説明し、随所随所に母の若さを「ヨイショ」してくださることも忘れず、本当に至れり尽せり。母もとても入会を喜びました

 でもね。
けっこう、その後は、いろいろと心が傷んだのですよ・・・

 初日に合わせ帰省し、私は母に同行しました。
母は、まるで幼稚園児の遠足の前日のように、私が一式揃えたスポーツウエアをリビングに広げ、明日はどれにしようか?と楽しそうに悩み・・・ やっとそれを決めると、お気に入りのバッグに詰め・・・ 本当に待ちわびているようでした(そのようには見えていました)。

 でもね、私は感じていたのです
仕事一筋で来た母が、どんな思いで初めてのフィットネス経験に挑もうとしているか・・・牛に引かれて善光寺参り、のように、娘に引かれてフィットネスに向かう母の内心は、きっと緊張でいっぱいだったと思います
 もちろん、期待もウキウキ感もあったとは思います。でも、それ以上に、「初めての経験」への不安は大きかったでしょうね・・・

 翌朝、いつもより早くに二人で朝食を済ませ、歩いて出かけました。
ここ数年は、私が帰省をすると、ほとんどのことは私が誘導し、母はそれについてくる・・・私に従う・・・ということになっていました。日常のローテーションの家事は母がしていますが、それでも、目新しいことは「私の役目」です。
 しかし、フィットクラブに関しては、事情が違います。その日だけは私が一緒ですが、次からは週に1度、母は一人で通わなくてはなりません 

 前夜、「これね、送ってきたのよ。クラブに入る時に使うカードなんだって」と自慢そうに話していた母でしたが、いざ、ドアの前に来ると、そのカードキーをどのようにスライドさせるかがわかりません・・・いえいえ、タッチするのか、スライドさせるのかもわからないわけです。もちろん、前回、行ったときには一度、教えてはもらっていたのですよ。でもね、たった1回だけ。その日は、すべて私に従っていた母が、カードキーの話を、それほど熱心に聞いていたとは思えません
 ドアの前で、母の顔はたちまちパッと赤くなりました。母が焦ったときのクセです。
 私は心を鬼にして、「いろいろとやってみたら?来週からは、お母さんが一人で来るんだもん」と話すと、母は泣きそうな表情になって、あれこれと試していました。
 私としては、「わからないやってちょうだい」と腹を立てることなく、真剣にカードとカードリーダーと格闘している母がとても健気に見えました
 横からちょっとヒントを出すと、母は子どものようにさっと表情を変えると、嬉しそうにカードをスライドさせました ドアが静かに開きました。「ああ、M様、おはようございますお待ちしておりました」と中からは大歓迎の声。母は笑顔になりました

 次はシューズロッカー。母はやっぱり緊張しているので、パパッとうまくやろうと気持ちが急けば急くほど空回りします。シューズロッカーの鍵をかけたものの、うまく鍵が抜けません
 私は自分の靴を入れ、わざと「えーっと・・・これはこうかなあ?・・・」などと大きな声で言い、母に見えるように鍵を抜きました。母は、こそっと私のほうを盗み見て・・・そして、何事もなかったように、自分の鍵を首尾よく抜きました。

 いよいよ着替え。ロッカールームは厄介なことばかりです
まず、カードキーをロッカー内にセットし、ナンバーをセットして開け閉めをするタイプ。これは、私が解説をしました。こんなこと、若い人でも慣れるまでは、何度か手順を間違えるでしょう。
 そのあとも、多少、迷路のように見える?施設内で、自分の思う場所に行くことや、自宅とは違うメーカーのお手洗いの使い方、お風呂のシャワーの出し方、カランの使い方・・・etc.etc. 覚えること、慣れないといけないことは山盛り、てんこ盛りです

 私はその夜、いつもより早くにソファで居眠りを始めた母の姿を見ながら、「お母さん、本当によくがんばったねえ お母さんって、カッコイイ 少しでも早く慣れて、自分自身で『ああ、楽しい!』と思えるようになってね」と何度も何度も心の中でつぶやきました。

 いかがですか?
この話はね、「81歳になった母と54歳の娘の話し」というだけのものではありません。これはね「4歳の娘と母親の話し」「5歳の息子と母親の話し」「6歳の子どもと両親の話し」にもなり得るのです

 誰だって、「初めての場所、初めてのこと、慣れない場所、慣れないこと」に挑戦するときには、十二分にそれに向かう意志があったとしても、実際にその場、そのときになれば、大きな緊張と不安がつきもの、です。
 その場やそのことに慣れた人(大人)にとっては、ちっとも大変なことでなかったとしても、初めての人、慣れない人にとると、それはとてつもなく大変なこと、なんですよね それは、大人でも、子どもでも、高齢者でも、すべて同じです。

 ところが、親は言います。
「うちの子は、初めての場所や、慣れないことがダメなんですよ・・・」当たり前、ですよね。

 どうしてそのとき、優しい言葉をかけてあげられないのでしょう?
 どうして、「もう、あなたったら・・・」と思うのでしょう?そう、言葉として口に出さないまでも「ああ、きっとまたうちの子たっら、泣きそうになるんだわあ、やんなっちゃう・・・」のように思い、呆れた顔、ムッとした顔で我が子を眺めるのです。
 もしそうだとしたら?その親は、「鬼」です

 初回の日から、1ヶ月半が過ぎました。
母は、毎週1回、2時間、トレーナーと一緒にトレーニングを続けています
「最近はね、駅を歩いていても、足が軽いのよ。筋肉痛になったこともないし、褒められちゃってる」と嬉しそうに話します。
 意気揚々とフィットネスクラブの玄関を入り、時々、ガチャガチャとシューズロッカーのキーを抜くときに手間取り、それでも、楽しそうにトレーニングをしている母の姿が見えるようです

 本当の意味での人を思う優しい心を持ち、適切なリードと言葉かけをすれば、人は(子ども)は、必ずそのことを楽しめるようになり、成長します
 好循環、悪循環、あなたはどちら派、でしょうね?


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