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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

「おいしくない!」と言わせない

2015年04月14日 | う゛う゛ー
「おいしくなーい」「イヤだ」「きらい
これは、私の大嫌いな「子どもが発する3つの言葉」です。正直なところ、こんな言葉を日常から我が子が使っていて、どうして許せるのか?どうして捨て置けるのか、理解に苦しみます。
 その子の親は、よほど鈍感なのか、よほど子どもが発する言葉に興味がないのか、よほど言葉の意味を理解していないのか、そのどれかなのでしょう

 「おいしくないもの」なんて、この世の中に存在しない、と私は思っています。たまたま、その人の口に合わないだけ、ですよね。

 本当にこの言葉、この表現って、おかしくないですか? 
最近、あまり見なくなったように思いますが、以前、よく民放のテレビ局が「世界の珍料理」のような番組名で特番をやっていました
 爬虫類や昆虫、鳥類等、日本では食べる習慣のない食材を使った料理を芸能人に食べさせ、「こんなものは食べられない」とか「気持ち悪い」とか「信じられない」というようなコメントを発させて、みんなで大笑いをするという番組・・・ 確かに、私も地中の幼虫を生で食べておいしいとは思わないと思いますし、食べてみなさいと勧められたら、やはりかなり躊躇すると思います。

 でも、これはテレビ番組としての非常にレアなケース。普段私達は、近所のスーパーや市場、もしくは自宅や近所で栽培されたり、飼育されたりした野菜や食材を使って調理をしますね 買ってきたお惣菜でも、やはり同じこと、です。
 だから、それらは、誰かが誰かのために作ったもの。それがコンビニのお惣菜で、かなり機械化されて調理されていたとしても「人の口に入るもの」「食卓に並ぶもの」として存在しています。
 食べる人達に「おいしいね」と言ってもらえるように、作り手は調理しているでしょう。残念ながら「ママのお料理が下手」だったとしても、そこに悪意はない、ですよね。
 にも関わらず、「おいしくなーい」「まずーい」と子どもが言うことは暴言ですし、そんな心ない、間違った表現を許してはいけない、と強く感じています(自分が自分のために調理したものが、残念ながら失敗作で「ああ、おいしくなかったな、失敗だったわー」と自分自身で思うのは、あり、だとは思いますが)

 先日、とてもとても懐かしい人から、メールがありました 私の教室のホームページから、アドレスを見つけ出してくれた方から。
その人は今から35年前、私と一緒にアメリカ、カリフォルニア州のSquaw Valleyに、サマーキャンプに行った方でした 彼は当時、小学校3年生。私は大学を卒業して1年目の夏、仕事の一環として、子ども向けの海外で開催されるサマーキャンプに通訳兼お世話係として同行しました
 参加者の中で一番小さかった彼の事はとても気にかかりで、10日間の滞在の間、お洗濯は上手に干せているか?とか、夜はホームシックで泣いていないか?と、細々と世話を焼きました。
 とても健気にがんばる彼は、積極的にアメリカ人の子ども達と一緒にアクティヴィティーにも参加していました でも、たった一つだけ、彼の困ったところは・・・食べ物の好き嫌いが多かったところ
 朝、昼、夜と食事をするたびに、「ああ、これはおいしくない」「これは、まずい」と何度も言っていました。始めのうちは私もそれを黙って見ていたのですが、だんだんとその言葉が耳触りとなって、3日目あたりだったでしょうか、「頼りになるけど、けっこう怖いおねえさん」は、その子のテーブルに行って注意をしました。

 「いい加減にしなさい 毎日、あなたがおいしくない、とか、まずい、とか文句を言っている食べ物は、おいしくないわけでも、まずいわけでもありません じゃあ、みんなに聞いてみなさい。あなたが言っているように、みんなもおいしくない、まずいって思っているかどうか。」

 (ここで、あちこちから「ぼくは好きだよ」「私はおいしいと思う」という合いの手が入りました)

 「いい これも、これも、あなたの口に合わないだけ あなたは、自分のおうちでもおいしくないとか、まずいとか、お母さんが作ってくれたお料理に文句を言っているのかもしれないけれど、それは大間違いよ お母さんは、あなたのために心を込めて作ってくれてるの それに、あなたが嫌だっていって食べないお肉もお野菜も、一生懸命に苦労をして作ってくれている人がいるの そんなこともわからずに、気ままにおいしくないとか、まずいとか言ってはいけません。たった今から、「口に合わない」と言いなさい。それに、口に合わないってことは、わざわざ口に出す言葉でもないのよ。だって、それをおいしいって思う人がたくさんいるんだもの。口に合わないと思っているのは、あなたの勝手な気持ちなんだから

 添乗員さんや、日本人のコーディネーターさんから拍手が沸き起こりました
いやいや、思えば、22歳の小娘が、偉そうなことを言い放ったものです。この子の親が一緒だったら、憤慨したかもしれませんね。でも、当時の私はどうしてもこの子の言葉が許せなかったし、とても良い子なのに、家庭でそんな暴言が許されている、ということが残念にも思えたのでした。

 すっかりオジサンになった「元3年生」メールの内容は・・・
長年待ち望み、生まれたお子さんは小学校3年生。この春にクラス替えがあり、初めて一緒になるお友達と席を並べて給食を食べた時のこと。お隣のお友達は「今日のおかずはまずい このデザートはおいしくない」と文句ばかり言って食べたのだそうです。
 この子は間違ってる!と思ったご子息は、「僕はおいしいと思うよ、まずくなんてない 〇君の口に合わないだけだよ」と注意をしたんだ、と、夕食の時、お父さんに話したのだそうです。

 「・・・先生。何だか、僕は泣けました。35年も経って、あのSquaw Valleyのロッジの食堂でのことを、まるでついこの間のことのように思い出したのです。先生は仁王立ちで、怖い顔をして僕に注意をしていました。「口に合わないって言いなさい」「でも、わざわざ口に合わないなんて、言わなくていいの」ってね。あの日は、確実に今日につながっているんですね・・・」

 私も泣けました 
「元3年生」は、45歳のきっと立派なお父さんとなり「頼りになるけど、けっこう怖いおねえさん」は、57歳の子育てが終わったオバサンであり、幼児教室の先生になっています。35年前の自分の姿を想像すると、とても偉そうで恥ずかしいですが、それも今の自分につながっているのだなあ、と思うと、とてもとても感慨深いです。
 確かに、こうして親から子へ、子から孫へ・・・家庭での教育は、脈々とつながっていくのですねえ・・・
 
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海で見かけた親子、いろいろ

2014年08月21日 | う゛う゛ー
 お盆の休みに海水浴に行ってきました とは言え、私はビーチパラソルの下のデッキに座り、本を読んでいただけで、水着には着替えはしたものの、結局、今年も泳ぎませんでした
 毎年、夏の終わりにある3キロの遠泳大会に出場する夫の練習のため、本番の前の週に海水浴に行くのがここ数年の恒例行事になっていて、私は毎年、夫が泳いでいる間、浜辺でじっくりと「親子観察」をするのがとても気に入っているのですよねえ・・・

 いやいや、今年も楽しませていただきました
まず、最初に私の目に留まったのが「オロナミンちゃん」。3歳から4歳という年齢の女の子でね、真っ黒なビキニ姿の、今時ママと一緒でした。私が初めてその子に気づいた時、彼女は腰に手を当てて、オロナミンCを飲んでいて・・・何だかその姿が愛らしく・・・  そのあとは、彼女を秘かに「オロナミンちゃん」と命名し、ずっと彼女を観察しました。

 オロナミンちゃんは果敢に波打ち際に行き、キャーキャー言いながら遊んでいます 彼女とママの「真っ黒加減」から見て、たぶん、頻繁に海に遊びに来ているのでしょう。ただ、彼女の遊んでいる姿からは、決して「海に慣れているから楽しそう」という感覚ではなく、遊ぶことが楽しくて仕方がない、遊び上手な子ども、というふうに見えました
 ママが砂浜に上がってしまってからも、オロナミンちゃんはイチゴみたいな小さなバケツを持ち、砂を入れてきたり、海水を入れてきたり、何度のママのところと波打ち際とを行ったり来たり・・・次々と遊ぶ内容を替えてはキャッキャとはしゃいでいます。寝そべるママの足に砂団子を積み上げたり、海水をママの足にかけては乾いた砂を振りかけたり・・・すこぶる楽しそうなのです

 その一方で・・・
次に目に留まったのが、3兄弟とパパ、ママの5人組。全員が長袖の黒いUVケアのシャツ姿。日焼け対策は万全です 今の陽射しは強いですからね。子ども達の日焼けは侮れません。親の無知が、幼い子ども達の「日焼けと言うヤケド」を引き起こすのですから
 3兄弟は、7歳、5歳、3歳、というところでしょうか。3兄弟は、まずはお昼ごはんを食べ始めました。その日は大層風の強い日でねえ。ビーチパラソルは、砂浜に埋めるだけでは飛ばされそうで、海の家のオジサン達は、深く掘ってパラソルを立てるだけではなく、別に飛び防止になる裏ワザを一緒に埋めてくれていました

 黒シャツ家族は、ご自分達のビーチパラソル持参。でも、裏ワザはないので、結局はパパがずっと手で支えることになりました。3兄弟は行儀よく並んで座り(ド・ミ・ソ、という感じ)、ママが一人ずつに配ったおにぎりを手に持ち、ママの「さあ、どうぞ」の合図で食べ始めました
 食べ終わると、ママがウエットティシュ―を一人ずつに配り、手と口元を拭き終ると、ママが差し出すゴミ袋に捨てます。大荷物でちょっとびっくりしましたが、ママのバッグはドラえもんのポケットのように、いろんなものが出てくるようでした
 ド・ミ・ソ君は、両腕に浮き輪を付け、ママに促されていざいざ海へ

 でも・・・波がやってくると大慌てで逃げ、茫然と波打ち際に立って、なかなか海には入っていきません それを6,7回繰り返したでしょうか・・・すると、ママはパラソルを支えるパパのところに戻ってきて、小さなバケツとスコップを持ち、再びド・ミ・ソ君のところに戻りました。
 どうも、海に入るのは諦めたようです (風は強かったのですが、幸い、その日の波は決して高くはありませんでした)ママとド・ミ・ソは、波打ち際からかなり離れたところで砂山を作り始めました。
 
 小一時間ほどして、再び私がオロナミンちゃんを見た時には、何と彼女は午前中とは違う水着を着て、またまた遊んでいました どうも、海の家でママとお食事をした後、お色直しをしたようでした。
 ド・ミ・ソ君とママは、お昼ごはんの時と同じように並んで座り、ウエットティシュ―で手を拭いていました。そして、ママが順番に配った小袋のお菓子を食べようとしていました。

 上手く言えませんが・・・私は、何とも切なくなってしまったのです・・・
きっと、本当はド・ミ・ソ君達も、十分に海水浴を楽しんでいたのだと思います。とても嬉しそうな笑顔でしたから。遊ぶ様子は違っても、ちょうど同じくらいの年に見えるオロナミンちゃんとド君は、楽しい時間を過ごしていた・・・
 でもね、やっぱり私はどちらが「良い」とか「悪い」ということではなく、「海での時間を満喫する」という意味では、ド・ミ・ソ君のママには「言いたい」と思うことがたくさんありました。
 
 ド・ミ・ソ君のママは、たぶん「マッチは危ないから、絶対に触ってはいけませんよ」と怖い顔で教えいるのだろうなあ、と思いました。マッチは、確かに発火のために使う道具です。でも、発火のためにこすり合わせなければ、そのままでは決して危険ではないものです。マッチそのものを禁止しなければ、息子達はマッチ棒を並べ、自由自在に形を作り、遊ぶ楽しみも味わえるだろうに・・・と思いました。
いやいや、私の勝手な思い込みからの単なる想像ですから、ド・ミ・ソ君は遊び道具が身近にない出先などで、上手にマッチ棒で電車を作り、遊んでいるかもしれません

 家庭それぞれの教育方針があります。また、その家庭そのものにもともと課せられた、代々受け継がれ守るべき格やレベルというものもあるでしょう。
でも、それらを十分に守りながら、それでも尚!子ども達の「人間的な幅を広げる」とでもいうのでしょうか、そんな豊かな育て方を求めれば、子ども達はもっともっと賢くなり、もっともっと楽しい毎日が送れるのではないか、と強く感じた出来事でした。

 電車に乗ると、ド・ミ・ソ君達はとてもお利口で、公共でのマナーをしっかりと守る良い子に違いありません もしかしたら、オロナミンちゃんは電車の中でも大はしゃぎで、靴のままで座席に座り、窓のほうを向いて座るのかもしれません

 すべての意味で「賢い子ども」に育てることは至難の業ですね でも、まわりのいろいろな家庭を見ながら、時にはご自分達の家庭教育や教育方針を見直し、その都度、TPOを鑑みつつ、マイナーチェンジすることも大事なのではないかな?と思いました


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母娘クライシス、から感じたこと

2014年01月28日 | う゛う゛ー
 母娘クライシス、という言葉をご存知ですか?
まだ子どもが小学生くらいであれば、なかなか深刻な問題として考えることはないかもしれません。
 昨年末、NHKの番組、特報首都圏で「母娘クライシス」の問題が取り上げられ、今まで以上にこの言葉に関心を持つようになったお母様達が増えたことと思います。
 極々簡単に言ってしまうと「母と娘の関係が上手くいかず、かなり深刻で修復不可能な溝になること」をこう呼びます。
 「お母さんは・・・好きじゃないです」という程度の問題ではなく、娘が成長して大人になった時、肉親である母親と絶縁をしてしまう、というほどの深い問題、なんですね

 昔から、DVのような問題が発生しなければ、母と息子の関係は比較的良好です  中高生になった息子に「うぜー 」とか「くそばばー 」と蔑まれた時、悲しいという感情は持っても、結構、母親は息子の暴言は受け止められ、いつまでも息子はかわいいと思う こういうことはよく耳にします。私の息子の中高時代、まわりには、このタイプのママ達が大勢いましたよ

 しかしその一方で、幼稚園児である娘との関係に悩む母親・・・は、決して少なくはありません。娘が真剣に「ママが嫌いだから、おばあちゃまのところで暮らしたい」と言う、とか、母親への嫌がらせとも受け取られる娘の悪行、愚行に振り回され、平常心を保てなくなった母親とか、こういうご相談は一年に数件はあります。
 とにかく、娘達がティーンエイジャーになってくると、幼児期には平穏だった家庭でも、どんどん母と娘の関係は難しくなり、深刻になっていきます(じつは、父と息子の関係も難しいものですが、ここでは敢えて触れません)

 母親は、娘がどんなに幼くても、同性であるがゆえに「こんな時、私なら〇〇するのに」とか「こんな場合には、私は絶対に△△しない 」と自分に重ね合わせ、心の中で娘の言動、行動を批判します。
 なぜか「批判や避難」なのですよねえ・・・不思議と愛情に満ちた「アドバイス」ではないのです。そして大抵の場合、母親は表情も硬く、気づけば「非難」や「忠告」「文句や愚痴の類」として、母の口から娘に発せられます 当然、娘はムッとして・・・母親を無視するか、暴言を吐くか、睨むか・・・

 息子の行動が理解不能であっても、「私は女だから、男の子のことは結局はわからなくて当然ね」と、あっさりギブアップをしたり、はたまた、涙を流して懇願したり・・・と、母親は息子相手には攻撃的にはならない場合が多いですねえ。
 でも、相手が娘の場合には、最後の最後まで重箱の隅をつつくようなバトルになってしまう・・・

 相手が誰であっても、こじれてしまった関係を修復することは、本当に難しいものです。
親子の関係の場合、本当の意味で「こじれた関係」というものは幼児期にまで遡り、すでにその時点でボタンの掛け違いをしていた、ということがほとんどです。そうなると、一朝一夕には、関係の改善はできません

 せっかくの機会です。
是非ぜひ、この話題を機に、一度ご自分のこととして考えてみてください
 話題としては「母娘クライシス」を提供しましたが、ここでは、相手が娘ではなく、息子の場合でも同じように考えてみましょう。
  あなたは「母親」「大人」「人生の先輩」「年長者」ということを振りかざし、息子や娘に多くを求めすぎていませんか?
  自分が若い頃に間違ったことは、我が子には間違わせたくない!という思いで忠告をし、自分が上手くこなしたことは、自分と同じ道、同じ方法を強いていませんか?
  無意識のうちに、自分のしえなかった夢を必死に我が子に託していたり、自分の過去の行いの自画自賛になっていたり・・・そんなことはないでしょうか?

 そして、知らず知らずのうちに、目の前の我が子の姿を落ち着いて真剣に見ることをせず、今自分に向かって話している子どもの声を聞くことなく、「母親」や「愛情」という錦の御旗をかざして、子どもに接していないでしょうか?

 子どもの心に寄り添うこと・・・美しい言葉、ですね
でも、決して簡単なことではありません。そして多くの親達は、「善」や「正」をシュプレヒコールのように繰り返し、子どもに覆いかぶさり、子どもを威嚇し、子どもに要求するのです。
 確かに、「善」や「正」は大切です。教えなければなりません けれど、果たして「母として善」「父として善」でしょうか?

 相手が幼児であっても、小学生であっても、真剣に子どもの言葉を聞こうとしているでしょうか?
 頭ごなしに、この子は未熟なんだからと、子どもが口を開くたび眉間に皺をよせ、耳のシャッターを下ろして、自分が「善」として話す体制になっていないでしょうか?

 子どもは、幼い頃からずっと、本当は両親、特に母親とは時間を共有し、同じものを見て、同じように美しいきれいだと共感しあい、優しい時間を過ごしたいと思っているのです
 それなのに、そんな子どもが発信しているサインをスルーして、「善」や「正」を諭すだけの鬼ババアになってしまうのは、とってもとっても悲しいです

 「私は善である」「母親は善であるべき」と勝手に自分を追い込み、そして自滅しそうになって子ども相手に怒鳴りまくる親・・・そんな親になるのは止めましょう。

 優しい心で我が子を見る目・・・せっかく2つも目があるのですもの。耳だって2つ。せめてその1個ずつは、目の前の子どもを見る目、子どもの言葉を聞く耳にしてみませんか?



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子どもの躾、子どもの社会性

2013年08月03日 | う゛う゛ー
 子どもの躾、子どもの社会性・・・長い間、ブログの更新を怠り、久々のテーマがこの重さ ただ、最近、よくこのテーマについて考えさせらる出来事が多いのです。

 私は職業柄、どんな時でも、どんなところでも、子どもがいるとそこに目がいき、行動や言動が気になります 時にはあやし、時には話しかけ、子どもを見ていると飽きません。
 けれど、5回に2回程度は、その子ども達の親に秘かに腹を立て、そんな親の元に生まれ、育てられている子どもの将来の社会性を憂います・・・ まあ実際には、そんなことは大きなお世話なんですけれどねえ

 先だって、恒例の介護帰省をした折、母と一緒に中国料理のレストランに行きました そこのシェフは、大阪の地方局のテレビ番組によく登場するらしく、かねがね母は行ってみたいと思っていたそうです。
 ホテルのレストランらしく調度品は重厚で、サービス、お店の方の対応、お味、すべてにおいて「さすが」でしたが、お値段も「なるほど」というものでした、ははは

 案内されたお席は、親子3人のお隣のテーブルでした。
じつは私は、お食事の時にはなるべく子ども連れのテーブルの近くには座りたくない、と考えています というのは、子どもの様子、親の対応等が気にかかり、その家族によっては時には食べた気がしない、ゆったりとした気分で食事ができないからなんです
 その子がお利口さんであればあったで、「偉いなあ ご両親の躾が行き届いているなあ」と感心し、親子の様子から目が離せなくなってしまいますし、その子が社会性のない野生児であれば、今度はどうしてしっかりと親は世話をしないのだろう?なんで叱らないのだろう」と食べた気がしない・・・
 その日も、正直、アジャ~と思いました。私一人の食事のような時には、コソコソっとお店の方にお話をし、席を替えてもらったりするのですが、母が一緒となると、またいろいろと説明をするのも大変なので・・・と、そのまま席につきました。

 その女の子・・・4歳くらいでしょう。とっても愛嬌のあるニコニコ笑顔のお嬢さんでね 表情は豊かで、仕草もとっても子供らしくてかわいいのです
 けれど・・・落ち着いて座っていない 食事をしているはずなのに、完全に席から降り、テーブルのまわりで遊んでいる状態。そして、時々、お母さんに呼ばれると、口だけ開けてお母さんの横に立ち、その状態で食べ物を口に入れてもらう かわいい子だっただけに、私はその飼育係と動物、という感じの様子が残念でなりませんでした

 長時間になれば、当然、子どもはその場にいることに飽きてきます。子どもの遊ぶ様子はどんどんエスカレートしていき、食事をしているお客様のまわりのテーブルにまで歩いていき、注意を引こうとおどけて見せたり、歌ったり、踊ったり・・・ホテルの方はハラハラとされている様子で、その子が各テーブルを離れると、その席のお客様に頭を下げて回る始末
 それでもいっこうにご両親は慌てる素振りもなく、子どもを連れ戻すこともなく、一生懸命にご自分達はビールを飲み、食事をされていて、時々子どもに手を振ったりするだけで、気になっていないようでした

 私自身も2人の子育て真っ最中のことを思い出せば、久しぶりの豪華なランチ、素敵なお店・・・となると、貪欲にもなります そのお気持ちも十分に理解できます

 でもね。やっぱり、それが外食の場であろうと、自宅であろうと、食事と遊びのメリハリはつけなければなりませんし、ましてやまわりに他のお客様がいる時には、その方達への配慮は不可欠です
 お箸の持ち方、食べ方、食事のマナー・・・すべて、毎日の食事の中で教えられて学ぶもの。そして、それが習慣となって身につき、その子の人となりの一部となっていきます。それが「躾」であり、その子の社会性として育っていくのです。

 そのお嬢さんは、本当にかわいい子だったのです もし、あの笑顔、歌や踊り、お調子者の振る舞いが公園で披露されていたとしたら、きっと私はあの子に声をかけ、ご両親に「とっても素敵なお嬢さんですねえ」と思わずお話をしたことでしょう

 あの子に罪はありません あの子は、真っ白な状態で生まれ、幼稚園や保育園、学校生活が始まるまでは、ほぼすべてのことを自分の家庭で、両親から学び、両親を真似て成長していくのですから。

 食事というものを、食事の時間を、そして、公の場での善悪やマナーを十分に教えられていな子どもはかわいそうです 楽しい食事の場が辛い時間になるほど、厳しくガミガミと言われ続ける子どもも哀れですが、社会性という面では、やはりガミガミ言われて、しっかりとしたマナーの身に付いた子どものほうが、将来はどんな場においても、恥ずかしい思いをすることなく、幸せになることでしょう

 子どもは親によって育っていきます。どこに出しても恥ずかしくない立派な子どもに育てるためには、偏差値的教育を受ける前の段階では、外注型の各種お稽古や知育雑誌の定期購入よりも、まずは家庭教育を考えること・・・私は本当に大切だと思っています
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自慢の子ども

2013年02月21日 | う゛う゛ー
  その日、想像以上に地下鉄は混雑していました。
ホームで私の前を歩いていた親子は、きっと私同様、もっと空いた電車をイメージしていたに違いありません。
 4、5歳の男の子とお母さん。乗り込んですぐ、混雑を気にして、ママは子どもに声をかけます。
 「すぐだからね。長い間、乗るんじゃないから。えーっと・・・1、2、3、あったあった、4つ目の駅だから。」
 そんな声が聞こえました。ママ自身も、その路線には不慣れなようでした。すぐに男の子の声が聞こえました。
 「大丈夫、電車好きだから。4つ・・・4個ね。」
 「そうそう、4つ目!」

 私はその会話を微笑ましく聞いていました 確かに、その混雑ぶりでは、背の低い男の子は、人と人との間に埋もれてしまっていたでしょう。必死にスペースを空け、我が子のために頑張るママの姿を想像しました。
 一つ目の駅が過ぎても、ほとんど状態は変わりませんでした。ママの声・・・
 「我慢してね。今、一つ過ぎたから、あと3つだからね。」
すると、すかさず男の子が返しました。
 「違うよ、ママ。3つじゃないよ。1つだよ。今、1個、駅が終わったの。今度は2個目の駅。ママ、わかんないのお?」

 私は、なるほどな・・・と、この噛み合わない会話を聞きました。
おわかりでしょうか?二人の問題は「言葉の問題」なのですね。
 この男の子は、1、2、3、4、と数は理解しています。順番は理解できているのですね 1つ目、2つ目・・・という言い方もわかるようでした。
 でも、ママが最初から語ったのは「あと○個」という言い方。二人が降りる駅は、乗車駅から4つ目の駅のようですから、1個駅がすぎれば、「あと3個、3つ」です。これが、ママが言っていること、です。
 しかし、この男の子は、「あと○個」という言葉が理解できなかったのです

 たぶん、もっと余裕のある状況であれば、ママはきっと話の食い違いの原因を推察し、気づかれたことと思います けれど、混雑した電車の中で、子どもの様子を気遣い、早く目的の駅に着けばいいなあと感じながらの時間。なぜ話しが食い違うのか?をしっかりと考えるだけの余裕はありません。ママは、我が子が「間違ったことを言った」ということだけに意識が集中したのでしょう。

 最初は、ママは子どもの言葉を無視しようとしていた様子でしたが・・・子どものほうが何度も、
 「ねえママ、3個じゃないよ、2個だよ。ねえ、ママ聞いてる?」
としつこく繰り返すので、ママは仕方なく
 「4個、乗らないといけなかったでしょう。1個済んだから、あと3個でしょ」と再度言いました。
 またまた、この意味のわからない子どもは、 
 「違うでしょ。次は2つ目。ママは間違ってるよ。もう、わかった?ママはわかんないの」と応酬。

 混雑はしているものの、ほとんど会話の聞こえない車内では、親子の声がよく聞こえました。
男の子は、とても賢い子どもだと思います それは、ホームを歩いている時、たまたまその親子の後ろを歩いていた私には、想像できました。
 手をつなぎ、黄色い線の内側を話しながら歩く母と子。ママは、子どものほうに顔を向けて何かを話すと、男の子もママを見上げて笑顔で応えています。
 私は、この親子は会話も多く、ママは我が息子を一生懸命に「賢い子に育てるため」に、日頃からたくさんの言葉かけをしているのだろうな、と思いました。それは、電車に乗ったとたん、「4個、乗るからね」とわざわざ「数」を使って話したことからもうかがえました。ママは、きっとしっかりと話し、ものをよく考える息子が自慢だったかもしれませんね・・・

 私は仕事がら、すぐに二人の会話の「食い違いの原因」がわかりましたが、何となく会話を耳にしているだけでは、男の子がママの言っていることが理解できず、それにも関わらず、母親を馬鹿にするような言葉を吐き、間違った勝手な数の持論を展開している・・・そんなふうに聞こえたでしょう
 いえ、もしかしたら誰も会話の内容などには気にも留めずにいたかもしれません。ただただ、「話しが噛み合わない、数に関して間違ったことを言っている我が子」にママは焦り、「うちの子がおバカちゃんだと思われているかもしれない!」と一人で小さなパニックになり始めたようでした

 二つ目の駅が過ぎました。混雑の中、親子の会話に耳を傾け、いろいろと考えていた私には、駅と駅との感覚が、ものすごく長く感じられました。きっとそのママにとってもそうだったでしょうねえ・・・
 「2つの駅が過ぎたから、あともうちょっと。もうおしゃべりしないで、静かにしてなさい」とママ。
  「ママ、何怒ってんの?ぼくはね、数を数えたんだよ。ママ、ぼくね・・・」
 「静かにしなさい

 町に出ると、あっちにも、こっちにも、「どうです、うちの子は賢いでしょ」と無言で語っているたくさんの親を目にします。見栄ってありますよね。よくよくわかります 子育て中は、私にもありましたよ
 でも、実際にそれを外から眺めていると、ちょっと恥ずかしく感じたり、いやらしく感じたりするものです。本人が、それに気づけないのは残念ですが・・・

 子どもが小さな頃から、夫や子どものことではなく、「自分のこと」で秘かに自慢できるような「自分磨き」を心がけておきませんか 子どもの手が離れた時、自慢できるのは夫や我が子だけだった・・・では、あまりにも悲しいですものね・・・


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