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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

マイペースを守らせてもらえる?

2012年08月13日 | う゛う゛ー
  ロンドンオリンピック、終わりましたね 次のリオデジャネイロ大会を迎える時には、私は58歳。今、年長さんのクラスにいる子ども達は、4年生に・・・来年の2月の中学受験に向けて、今、夏期講習でがんばっている小6は、高校1年生に・・・大学受験を目指している高3は、すでに就職先を決めて、卒論に取り組んでいる時期でしょう

 子育てをしていると、何年経過したのか?がよくわかります。
ちなみに我が家も、前回の北京オリンピックの時、息子は大学2年生。娘は大学3年生。親子で何の憂いもない「無敵の時期」でした。
 私はひょんなことから始めることになったトライアスロンに夢中で、やっとクロールが出来るようになり、自転車にも乗れるようになって、翌年の春に開催される石垣島トライアスロンに向けて、興奮状態で練習を積んでいる頃でした
 子ども達は大学生活を謳歌。まさかその後、息子に大波乱が待ち受けているとは夢にも思ってはいませんでしたねえ・・・でも、息子の長い入院、大きな手術のおかげで、身を持って命の尊さを、健康である意味を、夫婦、親子の絆を実感し、少しは「深い」人間になれたのでは、と艱難辛苦に感謝しています
 いやいや・・・子育てとは、本当に山もあり、谷もあり・・・振り返ると、涙をポロポロこぼして泣き笑いのできる、とっても愛しいものです

 昨夜、たまたま古いブログを読んでいて、我ながら、たまには意味もあることを書いているなあ、なんて自画自賛 それはね、3年前、北海道の大雪山忠別湖トライアスロンに参戦したあと、書いたブログでした。
 スイムは大雪山の雪解け水を満々とたたえたダム湖でのコース。バイク(自転車)のコースは、ダラダラと下る(ダラダラと登る)6キロ強の行程を3周回するコース。ランは、炎天下の単調な舗装道路をこれまた3周回。スイムもバイクもランも、どれもこれも上手ではない初心者の私は、そのすべてに手こずりました。
 けれど、そんな大変だったレースの間、ずっとずっと私は大会関係者や応援の方達に見守られ、励まされ、声をかけ続けていただきました。その言葉が「自分のペースでがんばって」だったのです。
 そして、レースを終えて1週間後、私はこんなふうに書いていました。

「自分のペースで、慌てずにがんばる」ことは、なかなか難しいことです。人は、どんなことに対しても「自分のペース」というものを持っているものだと思います。ところが、人というものは浅はかで、見栄があったり欲があったり・・・ だから、なかなか自分のペースを守っていくことができません。どうしてもまわりのペース、まわりの様子が気にかかってしまい、往々にして慌てたり、焦ったり。そして結果的に、そういう焦りや慌てが悪い結果を招いてしまうのです。
 これは子育てでも同じこと、だとしみじみと思いました 
親の見栄、親の欲が「わが子のペース」以上のものを要求し、かえって子どもが持っている力を台無しにしてしまう けれど、親はそれに気づかない・・・
と。

 あれから3年の月日が流れ、当然のことながら、毎年、たくさんの親子と接していますが、やっぱりそれは繰り返されている、と思います 
 親は愛情の名のもとに、子どもに期待を寄せ、夢を描きます それがちょうど適度のものであれば、子どもの「励み」となり、子どもを大きく成長させます
 けれど、その期待や夢が「過度のもの」だったり、本来の子どもが持つ本質とかけ離れた要求であれば、子どもを著しく悩ませ、無理を強いることになってしまうのです

 今回のオリンピックでも、幾度となく語られた「地道な努力」。
人は誰でも「1歩1歩がんばる」「ひたむきに、わずかずつでも進む」というふうに、たとえゆっくりでも進んでいくことの大切さを表現します。そして、私達もみな、そういう地道で着実な努力の尊さを十分に理解しています。
 でもね、実際には、「1歩1歩」や「わずかずつ」では大きな成果や効果は実感できません 頭では、その尊さはわかっていても、こういう「牛の歩み的な努力」を積み重ねることは辛く苦しいものです。

 オリンピックのようなスポーツの世界に限らず、どんな世界、どんな場面でも「トップの人達」への評価は非常に高く、当然の如く、そういう人達がベストコンディションで活躍が出来るようにと、まわりは至れり尽くせりの環境を作り、手厚く優遇しますよね。これって、家庭でも同じなのではないでしょうか?

 たとえば・・・一生懸命に、ひたむきにがんばっている子どもがいるとしましょう。その子は本当に真面目で、自分の持てる力をいつもすべて使って物事に取り組む良い子です でも、結果としては、目から鼻に抜けるような結果は出せない こういう子どもを、私はたくさん見てきています。
 その一方で、理解力が高く、どんなことも器用にこなし、結果的に小さな努力で大きな成果を生む子がいたとします
 こんな対照的な両者を見ていると、必ず、前者のご両親は、「わが子のふでき」を嘆かれます。そして、無意識のうちに、「どうしてあなたは出来ないの?」「どうしてわかんないの?」「何度やっても一向に良くならない・・・」などと、心の中で「タメイキ」をついている・・・
 そして、後者の「出来る子」と言われる子どもを持った親は、「うちの子なんて・・・」などと口では言いながらも有頂天になり、そして、子どもに対してはそれでは満足できず、常にもっと上、一歩先、を求めています・・・

 50歳で始めたトライアスロン。息子のことがあってから、なかなか熱が戻らず、ここ2年はお休みをしていましたが、今後は派手に大会に参戦することや、華々しく練習をするのではなく、長く楽しめる趣味として、また再開したいと思っています
 そして、やっと知った「泳ぐ楽しさ」。体重オーバーのため、膝への負担を考えてボチボチにしたランニング。そんな怪我の功名で手に入れたスイムの充実感。まさにマイペースで500メーターや1000メーター泳いでいると、魚になったような気分になります
 それでも、私がトライアスロンに参戦したら、まさに多くのご両親に「不出来な子」と評価される結果しか出せないのです。初めて参戦した石垣島でも、忠別湖でも、タイムこそ、少しずつ縮めてはいますが、結果はビリ きっとこれから参戦したいと思っているホノルルトライアスロンだって、飛躍的な向上は望めないでしょう。でも、それが私の精一杯であり・・・必死にがんばり、真面目に取り組む結果、なんですね
 もし、私が子どもだったとしたら???私は、両親から、どんな評価を得て、どんな言葉をもらうのでしょう?

 ひたむきにがんばる子ども達の姿を見る機会の多い私は、常に最大のエールを送り、より素敵な人生を歩むための「生きる力」を磨いて欲しいと願います 
 そして何よりも、私ではなく最愛の両親から、「あなたは素敵 私の子どもでいてくれて、ありがとう」と毎日言ってもらえればいいなあ、と思っています・・・

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正しい言葉を話しましょう!

2012年07月19日 | う゛う゛ー
 先日、教室の帰りの、夕方の駅での出来事です。
改札口の前は、K大生でごったがえしていました 帰るために改札に入っていく学生達、何かの集まりに参加するためか、その時間に大学にやってくる学生達・・・そこに、いっぱんの乗客が混ざり、本当に人がいっぱいでした。
 H駅は、学生の乗降を考慮してか、郊外の駅にも関わらず、自動改札機の数が多く、とても広い改札口ですが、その日のその時間は、どの改札機も常に人が通っている状態。思わず「おー・・・すごい人だあ・・・」と声に出して言ってしまいそうなほど、人の数に驚いたものです

 私が改札に向かって歩いていると、すぐ前に幼稚園入園前に見える男の子とお母さんが、やはり改札のほうに歩いていました 雑踏の中、後ろから見ていても、その男の子が「一生懸命に歩いている」ということが感じられ、思わず笑みがこぼれました

 ふっと見ると、その親子の行く手に定期券と思しきものが落ちていました。きっと、雑踏の中で定期券をバッグかポケットにしまおうとして、落ちてしまったのでしょう
 その定期券に気づいたママは、すぐにそれを拾い上げました。そして、こうおっしゃったのです。
  「〇〇ちゃん、何か落ちたねえ
 私は「?」と思いました。「あれ?この人が落としたんだっけ?・・・おかしいなあ、もともと、そこに落ちてたんじゃなかったかな?むー・・・いや、やっぱり落ちてたよね、あなた達がそこに行く前にすでに・・・」と心の中でつぶやきました。

 でもやっぱり、そのママは繰り返し、言いました。
  「何か落ちた、落ちた 〇ちゃん、駅員さんのところに持っていってあげよう !はーい、これ落ちましたよーって、届けてあげよう

 このママは、とっても親切な良い方、なんですよね
何度も子どもに声をかけ、笑顔で接していらっしゃいます。そして、目の前にあった落し物をそのままにせず、ちゃんと子どもと一緒に、駅員さんに届けようとされている・・・本当に、素敵な方です

 でも
日本語が、おかしいです。本当ならば、「何か落ちていたね」「これ、落ちていました」と言うべき、ですね。それが正しい日本語です。
 私は、「あ、もしかしたら、この方は外国人なのかもれない」と思いました。中国の方、韓国の方、フィリピンの方・・・日本で暮らしていても、まだまだ言葉に慣れていない外国人のママかもしれません。
 でも、聞こえてくる言葉を聞いていると、残念ながら?!その言葉はとても流暢で、たどたどしいところは微塵もありませんでした

 何だか私はすっかり気になってしまい、改札口から少し離れて、どの親子を眺めてしまいました。
その親子は、駅員さんのところに向かわてました。拾った定期ケースを手に持っていた男の子は、一度ママのほうを振替し、ニコッと笑って、そして、背伸びをして駅員さんに定期ケースを手渡しました
  「すみませーん これ、落としました

 さすがの私もこれ以上、秘かにとはいえ、この親子を見ているとストーカーだなあと思いましたし、この後の展開も見えるようで(きっと、男の言葉を理解できなかった駅員さんはママを呼び、ママの説明を求めるのでしょうが、またまたチンプンカンプン・・・)改札内に入りました。

 これから、この子の日本語はどうなっていくのでしょう?
こんなに素敵な心を持ったママです 人の役に立つことが自然にできるこのママに育ててもらい、その男の子は幸せだと思います けれど、それでも尚、言葉は大事なんですねえ・・・

 子どもの言葉は、幼稚園や保育園が始まり「みずから自分の世界で、自然に覚えてくるまで」は、ほぼ100%、両親の言葉を耳から聞き、それを覚え、次に自分の言葉として話すようになり、身に着けていきます。そういう意味では、幼児期の言葉は、「親が使っている言葉のコピー」と言っても過言ではありません。

 この男の子の場合、「正しい言葉を話す」という点では、かなり不安のあるお母様の言葉を毎日耳にして、それを学習していることになります。もしかしたら、お母さんのボキャブラリーの中で、「拾う」「落とす」だけがおかしい、ということであれば良いですが、やはり、実際にはそういうことは考えられません。たぶん、他にも、間違った言葉、不確かな言葉づかいがたくさんあるのではないか、と思われます。このお母様が、本当にすばらしい心の持ち主だったからこそ、残念に思えてなりませんでした
 言葉の面だけで言えば、この男の子は「正しい言葉に触れ、学び、自分のボキャブラリーを増やしていく」にはベストの環境とは言えないでしょう。

 今までも「言葉」については何度もブログの中で触れ、テーマとして選び、いろいろな観点から話してきましたが、今日も改めていいましょう
 国際化の叫ばれる中、外国語教育に熱心になるご家庭が増えてきています。素敵なことですね。しかし、決して日本語の教育をなおざりにしてはいけません
 その人の言葉の土台を築く幼年期。一つでも多く語彙を増やし、自分の思い、願い等を表現するための、たくさんの表現方法を学ばなければならないのはこの時期です。そのことをしっかりと認識していなければ、二兎追うものは一兎を得ず、になりかねません
 そして、どうぞ「わが子の言葉の先生は両親である」という認識を持ってください




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子ども達はがんばっているのです!

2012年05月31日 | う゛う゛ー
 教室から歩いて5分くらいのところに、お気に入りの中華料理屋さんがあります 中国人家族が経営をされているお店で、パートのおねえさんも働き者。お店の方はみな、いつも笑顔で、「お水ください」「ここ、拭いてください」など、あちこちから飛ぶ声にも「はいー。すぐにいきます」という元気な返事。味もさることながら、目配り、気配りのできるお店の方々に魅かれて、私は出かけているな・・・と思っています

 教室のある町が、もともと学生の町ということもあり、お昼時は大学生で大混雑。若者達の食欲を満たしてくれる配慮とサービスが人気の所以でしょう
 この日も、私が入っていった時にはほぼ満席。少し待って、やっと空いた大テーブルの一席に座りました。
 向こう側のテーブルには、男子5、女子3の大学生8人組。1学部を除いては、この町のキャンパスには1年生と2年生だけが学んでいます。ということで、その8人は新入生か2年生。
 
 8人の中で中心となって、ひときわ大きな声で話している女の子がいました。見てみると、その子はなかなかの「別嬪さん」です。こんなにチャーミングならば、大きな声で、必死に(というふうに私には聞こえました)ペラペラと話さなくても、十分に男の子達の注目を集めることができるのになあ・・・と、少々残念に思いました
 そのお隣の女の子は、かなり派手な装いの女の子。別嬪さんが話すと、それに呼応して大袈裟に相槌や合いの手に思える受け答えをしているところから、たぶんその子は「別嬪さんの取り巻き?子分?」というふうに感じられました。
 もう一人の女の子は、ほとんど話しをしません。かすかに笑顔を見せている・・・という程度。清楚な感じの女の子です。

 さあ、残りの5人の男の子達。
これまた必死に「別嬪さん」と掛け合いをするように話しているのが2名。その2人は、装いに凝ってるなあ・・・と思える男の子達です
 次の1名は、まるでテニスの試合を観ている時のように、話す相手のほうを顔で追い、わずかに笑いながら聞くだけ。そして1名は、我関せず、という表情を見せながらも、その実、かなり興味津々・・・が伝わってきます
 最後の1名・・・本当に地味な男の子。しきりにメガネをさわり、メガネをかけなおし、落ち着かない様子が見てとれます。けれど、その子は、別嬪さんが口を開くと、嬉々として見入っているのです・・・
 人の観察が大好きな私としては、悪趣味なのは承知の上で、かなり一生懸命にこの8人を観察しました

 いかがですか?その大学生に好感が持てますか?そして、どの大学生のことを苦笑し、どの大学生の様子に眉をひそめるでしょうか。

 今度は、違う視点から考えてみましょう。
今は幼いみなさまのお子様達も、いずれは「大学生」になり、学食やキャンパスの近所でお友達と一緒に食事をすることになります。
 そのことを想像し、今度は、わが子は上記のどのタイプの子になるのか考えてみてください

 私は最初、必死に話題を提供し、グループの中心であることをとても意識して話している別嬪さんのことを、かなり鼻につく子だな・・・と思いました それに引き替え、静かにニコニコしている子の素敵さ・・・そんなことを思ったものです。
 でもね、よくよく考えてみれば、まだ5月の末。新入生達は、この1カ月半程度、一生懸命に新しい生活に慣れよう、適応していこう、としていたはず、です。
 中には、地方都市から出てきた子、田舎と呼ばれる地域から出てきた子達もいるでしょう。たとえ付属校から進学してきた生徒達だって、実際に大学生として生活していくことは、決して想像したような?!甘いものではなかったかもしれません 
 一人暮らしを始めた子は、生活そのものに慣れることに必死になっている途上でしょうし、自宅通学をしている子も、新しい環境の中で、学業に慣れること、友達に慣れること、クラブ、同好会、etc. etc.
 すでに18歳以上になったこの子達も、パカッと頭を開け、心を開けて見てみると、たくさんの不安、たくさんの努力、たくさんの我慢がいっぱいのはず・・・

 話題提供にいそしみ、少々賑やかすぎた女の子も、じつは黙っているのがコワイ・・・黙っていて、孤立するのがコワイと感じるから、一生懸命に話していたのかもしれませんし、子分的女の子も、とりあえず「この子」をフォローすることにして、同時に本当に気の合う子を模索中かもしれません。静かな子は、そこで複数の人と食事をしていること自体が、とても努力を必要としているほど、疲れているかもしれません
 相槌を打ちまくるオシャレ男子2人も、自分の思い描いた大学生活を実践するために、かなりがんばっているのかもしれませんし、聞いているだけの子2人も、方言が出てしまうことを躊躇しているのかもしれません。おとなしいメガネくんは、もしかしたら、すべてのことを後悔しているかもしれない・・・ああ、疲れたあ・・・と。そんな中、この溌剌とした都会的女子をそばで見ているだけで、元気になれるってこともあるかも・・・

 すべてが、想像力たくましい私の「想像した心のうち」ではありますが・・・要するに、そこにいた大学生達は、みな、それぞれが何らかを考えながら、その場で楽しそうに存在することに一生懸命だった、であろうことは事実だと思います

 緻密さは違いますが、今、幼稚園や小学校低学年、高学年、中学生でも、じつは同じ、であることはおわかりでしょうか?
親はいつも勝手に「わが子の理想像」を描き、その像と現実のわが子を比べて、いろいろと注意をしたり、これまた勝手に落胆したりしているものです
 でも、私は機会あるごとに話したり、書いたりしていますが、「子ども達はみな、がんばっている」のですよ。
 進学・・・クラス替え・・・仲良しとのクラス離れ・・・新しい担任・・・どれもすべてが、子どもにとれば「新しい問題」だったはず、なのですから。
 
 是非ぜひ、そのことを忘れないでいてあげてください


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明日の私が、もっと素敵であるように。

2012年02月05日 | う゛う゛ー
 毎年、冬ってこんなに寒かったっけ?真面目に、毎日そんなことを考えながら過ごしています
 この冬は、流行するのが少し遅かったインフルエンザですが、やっぱりこの時期にやってきました。町に「がんばれ!中学受験生」のポスターが貼られる頃、決まってインフルエンザが流行するのですよねえ・・・
 小学校受験は、夏から秋への季節の変わり目で、気温、気候が安定しない時期。中学受験は、まさにインフルエンザの流行時期。
 もちろん、高校受験をするディーンエイジャー達や、大学受験をする高校生達にも災難降りかかることなく、無事に受験を終えてもらいたいと切望しますが、小学校受験、中学受験は、まだまだ受験生が幼いということもあり、万全の体勢で臨めないのは哀れでなりません

 さて・・・
みなさんは、一日、どれだけのことを真剣に考えたり、感じたりしますか?
 もちろん、お仕事をされている時には、とても真面目に、真剣に目の前のことを考え、対応されていることでしょう。しかし、私が今、たずねてみたいなあと思ったのは、普段何気なく過ごしている時間、特別のことをする時ではない、そんな平凡な時間に、どんなことを感じたり、考えたりされているのだろうか?と、ふっと思ったのです。

 ここのところ、ちょっと考えてしまうこと・・・がたくさんありました。今日はそのうちの一つを、お話させてください
 先日、私は郊外の駅で電車から降りた私は、約束の時間まであまり余裕がなかったので、ホームを慌てて歩いていました。 改札口に向かう下りエスカレーターに乗る直前、私はコーンと何かを蹴っ飛ばしたのです。コロコロと転がっていくものを目で追うと、それは見慣れた緑色のリップクリーム。医療系メーカーが販売している強力メンソールのあれ、です。コロコロと転がっていった先は、ホームのベンチの下でした。
 私は自分のリップクリームではありませんでしたし、あまり深い考えなく、「ああ、落ちていたのを、蹴っちゃったんだ」程度に思い、そのまま、足早にエスカレーターに乗り、歩きました。
 何段か降りた時、後ろで何か呼び止める声が聞こえました。でも、はっきりは聞こえなかったのです。私がそのまま降りつづけていくと・・・
 「もしもし、前の人!」
と、今度はしっかりと聞こえました。「?」と思った私は振り返りました。すると、年の頃、60代後半と見える女性が、
 「これこれ、あなた、落としましたよ!
と、リップクリームを差し出されました。私は咄嗟に、「あ、それ、違います」と応えていました。
 するとその女性、「ああ、そうなの・・・」と言われ、あとは、独り言のように、「どうしようかしらねえ、駅の人に・・・」と、そこまでは聞こえました。
 改札階まで降りで、数歩歩いた私は急に気にかかり、振り返って女性を探しました。あらためて声をかけ、お礼を言おうと思ったのです。
 しかし、その方の姿は、なぜか見つけられませんでした・・・

 私は駅を出て、歩いている間も、ずっとずっと気になりました 確かに、あのリップクリームは私のものではありませんでした。でも、蹴っ飛ばしたのは私です
 私よりもずっと年配だったあの女性は、「落とし主である私のために」、ベンチのところまで行き、身体を屈めて、手を奥に伸ばして、あのリップクリームを取ってくださったのです・・・
 そう考えたら、見ていなかったその光景が、まるでしっかりと自分で見たかのように頭の中に浮かびました。
 屈みこんだとき、ご自分が持っていたお荷物はどうなっていたのだろう?
 日頃はなかなかとらない姿勢をして、どこも痛くはならなかったのだろうか?
 私に遅れをとらないように、慌てて追いかけ、躊躇することなく、大きな声で呼びかけてくれたんだ・・・
 それなのに、私はケンモホロロに「あ、違います」と一言だけ言い残し、エスカレーターを降りつづけた・・・とても後悔しました

 確かに、他のお客様も降りていたエスカレーターでしたので、そこで立ち止まり、頭を下げてお礼を言うという状況ではありませんでした。
 でも、もっともっと、「言葉」ではお礼の気持ちを伝えることはできたでしょう。それに、自分のものではないと伝えるにしても、木で鼻をくくったような「違います」というのではなく、心のある言葉、違った言い方はあったはず・・・ 

 あの日から5日。
私は今もずっと考えているのです・・・ どうしてあの日、私はあんな対応しかできなかったのか?あの女性の厚意に応えるためには、どのようにして、どんな言葉で私の思いを伝えるのが最善だったのか?
 明日の私が、今日の私よりもっと素敵であるように、私はいつもいろんなことを心で感じ、考え、生きていたい、と思っています・・・



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脇役は重要です!

2012年01月22日 | う゛う゛ー
 先日、叔父と一緒に映画を観てきました
年末、一人暮らしの叔父を招き、クリスマスを一緒に迎えた時、プレゼントとして「目録」を渡していたのです。『映画を観て、美味しい牡蠣の夕食をご一緒しましょう』という目録。
 映画は、叔父のリクエストで、年末から話題になっていた邦画を観ました。年末には、三年越しでNHKの「坂の上の雲」を観ていたので、私も「海軍モード」になっていたこともあって、叔父のリクエストを快諾
 まるで、近現代史を学ぶような感覚の2時間でしたが、とても良い映画でした 主役の俳優さんが、良い味を出していて・・・むかーし昔、確か1970年頃だったと思いますが、両親と一緒に観た「トラ・トラ・トラ」という映画を思い出しました。しかし、何よりもあの頃とは違い、飛躍的に進んだCGの技術のおかげで、戦闘シーンも連合艦隊が航行するシーンも、非常にリアルで、タイムスリップした気分になりました

 しかし・・・この映画。製作費に多少の不安があったのでしょうか・・・それとも、もともと意図的にそのようにしたのでしょうか・・・主役級の俳優さん以外は、あまり普段は映画でもテレビでも観ることの少ない俳優さん達が「重要な脇役」を固めていて・・・見ごたえ、という点から言えば、やはり、主役級の俳優さん達との間にあきらかな「差」が浮き彫りになってしまい、とても残念だったなあ、という気がしてしまいました
 平たく言えば、素人の私が初めて「やはり、演技力の差って、こんなにもあるんだあ」ということを実感した一作でした。

 こういうことをあちこちの場面で感じながら、どこか映画の中にのめりこめない思いで鑑賞していた私は、ふっと、全く映画とは関係ないことを考えていたのでした

 世の中(それが大人の世界であっても、子どもの世界であっても)にはリーダーになるような人材と、リーダーのもとで動く人材がある。乱暴な表現をすれば、リーダー以外の人材は、それぞれが相応の力を持つ「駒」となって、構図としてはリーダーの元で動いているように見える。
 一般的には、リーダーには大きな実力が求められ、「駒」は、集まって初めて大きな力としての意味を持つ・・・
 
 でも
私がこの映画を観ていて随所で痛感していたことは・・・駒1、駒2、駒3は、脇役的な存在に思えるけれど、たとえ配役としては「脇役」であったとしても、決して各人はリーダーのための構成員でも、リーダーの引き立て役でもない セリフが一つ、二つだったとしても、そこで語られるセリフには大きな意味がある 「リーダー」映画で言えば主演級の俳優だけが重要なのではなく、脇役である「駒1」「駒2」「駒3」・・・が、どんなに大きな意味を持っていることか
 この作品では、それぞれの「駒」である脇役が力不足であるために、こんなにも作品そのものが見ごたえのないものになっている(あくまで、私個人の主観ではあっても)。
 やはり、脇役には重要な実力が求められ、それぞれがかけがえのな意味深い登場人物として、物語を作っていっているのだ

 とかく親というものは、主役級のリーダーのポジションに我が子を起きたがります。
グループリーダー、クラス委員、キャプテン、部長、生徒会長・・・スポットライトのあたるところに我が子の姿があるとそれは嬉しいですね ビデオだって回しがいがあるし、有給休暇をとっても、行くだけの価値がある
 
でも、私はやっぱり、Aちゃん、Bちゃん、Cちゃんそのものが存在する意味、その子の素顔を大事にして、Aちゃんの役割、Bちゃんの力、Cちゃんだからこその味・・・そういうものを、誰よりも親が気づき、親が評価してやれなければならない!と強く感じています

 「主役のオーディションに落ちた」「クラス委員の選挙に敗れた」「副リーダーにしかなれなかった」etc.etc. そんな我が子の嘆きを聞いた時、「良かったじゃないの。トップは大変よー。失敗したら大恥かくし、責任重いし 主役でなくって良かった良かった」などと、訳の分からないネガティブな慰めを言って、自分自身をも慰めるのではなく、我が子の良さと味に気づき、その力を十二分に発揮できるように、親こそがその子の力を評価し、エールを送ってやらなければならないと思っています。

 ああ、それにしても・・・
脇役にも名脇役と言われ、評価されているような俳優さんを揃えてもらった上で、あの映画が観たいなあ なんて、不可能なことを思いながら、叔父との牡蠣三昧ディナーを楽しんだ私でした

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