ロンドンオリンピック、終わりましたね
次のリオデジャネイロ大会を迎える時には、私は58歳。今、年長さんのクラスにいる子ども達は、4年生に・・・来年の2月の中学受験に向けて、今、夏期講習でがんばっている小6は、高校1年生に・・・大学受験を目指している高3は、すでに就職先を決めて、卒論に取り組んでいる時期でしょう

子育てをしていると、何年経過したのか?がよくわかります。
ちなみに我が家も、前回の北京オリンピックの時、息子は大学2年生。娘は大学3年生。親子で何の憂いもない「無敵の時期
」でした。
私はひょんなことから始めることになったトライアスロンに夢中で、やっとクロールが出来るようになり、自転車にも乗れるようになって、翌年の春に開催される石垣島トライアスロンに向けて、興奮状態で練習を積んでいる頃でした
子ども達は大学生活を謳歌。まさかその後、息子に大波乱が待ち受けているとは夢にも思ってはいませんでしたねえ・・・でも、息子の長い入院、大きな手術のおかげで、身を持って命の尊さを、健康である意味を、夫婦、親子の絆を実感し、少しは「深い」人間になれたのでは、と艱難辛苦に感謝しています
いやいや・・・子育てとは、本当に山もあり、谷もあり・・・振り返ると、涙をポロポロこぼして泣き笑いのできる、とっても愛しいものです
昨夜、たまたま古いブログを読んでいて、我ながら、たまには意味もあることを書いているなあ、なんて自画自賛
それはね、3年前、北海道の大雪山忠別湖トライアスロンに参戦したあと、書いたブログでした。
スイムは大雪山の雪解け水を満々とたたえたダム湖でのコース。バイク(自転車)のコースは、ダラダラと下る(ダラダラと登る)6キロ強の行程を3周回するコース。ランは、炎天下の単調な舗装道路をこれまた3周回。スイムもバイクもランも、どれもこれも上手ではない初心者の私は、そのすべてに手こずりました。
けれど、そんな大変だったレースの間、ずっとずっと私は大会関係者や応援の方達に見守られ、励まされ、声をかけ続けていただきました。その言葉が「自分のペースでがんばって
」だったのです。
そして、レースを終えて1週間後、私はこんなふうに書いていました。

「自分のペースで、慌てずにがんばる」ことは、なかなか難しいことです。人は、どんなことに対しても「自分のペース」というものを持っているものだと思います。ところが、人というものは浅はかで、見栄があったり欲があったり・・・
だから、なかなか自分のペースを守っていくことができません。どうしてもまわりのペース、まわりの様子が気にかかってしまい、往々にして慌てたり、焦ったり。そして結果的に、そういう焦りや慌てが悪い結果を招いてしまうのです。
これは子育てでも同じこと、だとしみじみと思いました
親の見栄、親の欲が「わが子のペース」以上のものを要求し、かえって子どもが持っている力を台無しにしてしまう
けれど、親はそれに気づかない・・・
」と。

あれから3年の月日が流れ、当然のことながら、毎年、たくさんの親子と接していますが、やっぱりそれは繰り返されている、と思います
親は愛情の名のもとに、子どもに期待を寄せ、夢を描きます
それがちょうど適度のものであれば、子どもの「励み」となり、子どもを大きく成長させます
けれど、その期待や夢が「過度のもの」だったり、本来の子どもが持つ本質とかけ離れた要求であれば、子どもを著しく悩ませ、無理を強いることになってしまうのです
今回のオリンピックでも、幾度となく語られた「地道な努力」。
人は誰でも「1歩1歩がんばる」「ひたむきに、わずかずつでも進む」というふうに、たとえゆっくりでも進んでいくことの大切さを表現します。そして、私達もみな、そういう地道で着実な努力の尊さを十分に理解しています。
でもね、実際には、「1歩1歩」や「わずかずつ」では大きな成果や効果は実感できません
頭では、その尊さはわかっていても、こういう「牛の歩み的な努力」を積み重ねることは辛く苦しいものです。
オリンピックのようなスポーツの世界に限らず、どんな世界、どんな場面でも「トップの人達」への評価は非常に高く、当然の如く、そういう人達がベストコンディションで活躍が出来るようにと、まわりは至れり尽くせりの環境を作り、手厚く優遇しますよね。これって、家庭でも同じなのではないでしょうか?
たとえば・・・一生懸命に、ひたむきにがんばっている子どもがいるとしましょう。その子は本当に真面目で、自分の持てる力をいつもすべて使って物事に取り組む良い子です
でも、結果としては、目から鼻に抜けるような結果は出せない
こういう子どもを、私はたくさん見てきています。
その一方で、理解力が高く、どんなことも器用にこなし、結果的に小さな努力で大きな成果を生む子がいたとします
こんな対照的な両者を見ていると、必ず、前者のご両親は、「わが子のふでき」を嘆かれます。そして、無意識のうちに、「どうしてあなたは出来ないの?」「どうしてわかんないの?」「何度やっても一向に良くならない・・・」などと、心の中で「タメイキ」をついている・・・
そして、後者の「出来る子」と言われる子どもを持った親は、「うちの子なんて・・・」などと口では言いながらも有頂天になり、そして、子どもに対してはそれでは満足できず、常にもっと上、一歩先、を求めています・・・
50歳で始めたトライアスロン。息子のことがあってから、なかなか熱が戻らず、ここ2年はお休みをしていましたが、今後は派手に大会に参戦することや、華々しく練習をするのではなく、長く楽しめる趣味として、また再開したいと思っています
そして、やっと知った「泳ぐ楽しさ」。体重オーバーのため、膝への負担を考えてボチボチにしたランニング。そんな怪我の功名で手に入れたスイムの充実感。まさにマイペースで500メーターや1000メーター泳いでいると、魚になったような気分になります

それでも、私がトライアスロンに参戦したら、まさに多くのご両親に「不出来な子」と評価される結果しか出せないのです。初めて参戦した石垣島でも、忠別湖でも、タイムこそ、少しずつ縮めてはいますが、結果はビリ
きっとこれから参戦したいと思っているホノルルトライアスロンだって、飛躍的な向上は望めないでしょう。でも、それが私の精一杯であり・・・必死にがんばり、真面目に取り組む結果、なんですね
もし、私が子どもだったとしたら???私は、両親から、どんな評価を得て、どんな言葉をもらうのでしょう?
ひたむきにがんばる子ども達の姿を見る機会の多い私は、常に最大のエールを送り、より素敵な人生を歩むための「生きる力」を磨いて欲しいと願います
そして何よりも、私ではなく最愛の両親から、「あなたは素敵
私の子どもでいてくれて、ありがとう
」と毎日言ってもらえればいいなあ、と思っています・・・




子育てをしていると、何年経過したのか?がよくわかります。
ちなみに我が家も、前回の北京オリンピックの時、息子は大学2年生。娘は大学3年生。親子で何の憂いもない「無敵の時期

私はひょんなことから始めることになったトライアスロンに夢中で、やっとクロールが出来るようになり、自転車にも乗れるようになって、翌年の春に開催される石垣島トライアスロンに向けて、興奮状態で練習を積んでいる頃でした

子ども達は大学生活を謳歌。まさかその後、息子に大波乱が待ち受けているとは夢にも思ってはいませんでしたねえ・・・でも、息子の長い入院、大きな手術のおかげで、身を持って命の尊さを、健康である意味を、夫婦、親子の絆を実感し、少しは「深い」人間になれたのでは、と艱難辛苦に感謝しています

いやいや・・・子育てとは、本当に山もあり、谷もあり・・・振り返ると、涙をポロポロこぼして泣き笑いのできる、とっても愛しいものです

昨夜、たまたま古いブログを読んでいて、我ながら、たまには意味もあることを書いているなあ、なんて自画自賛

スイムは大雪山の雪解け水を満々とたたえたダム湖でのコース。バイク(自転車)のコースは、ダラダラと下る(ダラダラと登る)6キロ強の行程を3周回するコース。ランは、炎天下の単調な舗装道路をこれまた3周回。スイムもバイクもランも、どれもこれも上手ではない初心者の私は、そのすべてに手こずりました。
けれど、そんな大変だったレースの間、ずっとずっと私は大会関係者や応援の方達に見守られ、励まされ、声をかけ続けていただきました。その言葉が「自分のペースでがんばって

そして、レースを終えて1週間後、私はこんなふうに書いていました。



これは子育てでも同じこと、だとしみじみと思いました

親の見栄、親の欲が「わが子のペース」以上のものを要求し、かえって子どもが持っている力を台無しにしてしまう




あれから3年の月日が流れ、当然のことながら、毎年、たくさんの親子と接していますが、やっぱりそれは繰り返されている、と思います

親は愛情の名のもとに、子どもに期待を寄せ、夢を描きます


けれど、その期待や夢が「過度のもの」だったり、本来の子どもが持つ本質とかけ離れた要求であれば、子どもを著しく悩ませ、無理を強いることになってしまうのです

今回のオリンピックでも、幾度となく語られた「地道な努力」。
人は誰でも「1歩1歩がんばる」「ひたむきに、わずかずつでも進む」というふうに、たとえゆっくりでも進んでいくことの大切さを表現します。そして、私達もみな、そういう地道で着実な努力の尊さを十分に理解しています。
でもね、実際には、「1歩1歩」や「わずかずつ」では大きな成果や効果は実感できません

オリンピックのようなスポーツの世界に限らず、どんな世界、どんな場面でも「トップの人達」への評価は非常に高く、当然の如く、そういう人達がベストコンディションで活躍が出来るようにと、まわりは至れり尽くせりの環境を作り、手厚く優遇しますよね。これって、家庭でも同じなのではないでしょうか?
たとえば・・・一生懸命に、ひたむきにがんばっている子どもがいるとしましょう。その子は本当に真面目で、自分の持てる力をいつもすべて使って物事に取り組む良い子です


その一方で、理解力が高く、どんなことも器用にこなし、結果的に小さな努力で大きな成果を生む子がいたとします

こんな対照的な両者を見ていると、必ず、前者のご両親は、「わが子のふでき」を嘆かれます。そして、無意識のうちに、「どうしてあなたは出来ないの?」「どうしてわかんないの?」「何度やっても一向に良くならない・・・」などと、心の中で「タメイキ」をついている・・・
そして、後者の「出来る子」と言われる子どもを持った親は、「うちの子なんて・・・」などと口では言いながらも有頂天になり、そして、子どもに対してはそれでは満足できず、常にもっと上、一歩先、を求めています・・・
50歳で始めたトライアスロン。息子のことがあってから、なかなか熱が戻らず、ここ2年はお休みをしていましたが、今後は派手に大会に参戦することや、華々しく練習をするのではなく、長く楽しめる趣味として、また再開したいと思っています

そして、やっと知った「泳ぐ楽しさ」。体重オーバーのため、膝への負担を考えてボチボチにしたランニング。そんな怪我の功名で手に入れたスイムの充実感。まさにマイペースで500メーターや1000メーター泳いでいると、魚になったような気分になります


それでも、私がトライアスロンに参戦したら、まさに多くのご両親に「不出来な子」と評価される結果しか出せないのです。初めて参戦した石垣島でも、忠別湖でも、タイムこそ、少しずつ縮めてはいますが、結果はビリ


もし、私が子どもだったとしたら???私は、両親から、どんな評価を得て、どんな言葉をもらうのでしょう?
ひたむきにがんばる子ども達の姿を見る機会の多い私は、常に最大のエールを送り、より素敵な人生を歩むための「生きる力」を磨いて欲しいと願います

そして何よりも、私ではなく最愛の両親から、「あなたは素敵

