私の前回のブログを読まれて、あるお母様からメールを頂戴しました

「・・・前回のブログの中に、先生はこんなことを書かれていました。「もちろん、私が走っている時も、いつもへらへらと笑っているわけではありません。ダラダラと寝ころんでいるのではない限り、心拍数も上がりますし、ちょっと苦しくなってきたな、とも思います。
でも、心拍数が上がれば、下がるまでスピードを落とし、苦しくなれば、苦しくないところまで、ゆっくりにペースを落とせばよい。それでも苦しいと思えば、走るのを止めて歩けば良い そうすれば、「辛く」はない、ですね」
私は、この部分を読んで、とても勇気づけられました。時には ペースダウンもして、まずは第一の給水所目指してがんばります!・・・」
私は、私の書いた真の思いが届いて、とってもうれしかったです

私書くブログ・・・私が、一生懸命にランニングの話題でブログを書いたからといって、それはランニング雑誌への投稿ではありませんし、食文化の話をしても、グルメ雑誌への投稿ではありません
そんな私の思いを、きちんと上手くキャッチしていただけたことに、私は感謝しました
そして、このママが幼い3人のわが子の子育てに孤軍奮闘する毎日に、少しでもお役に立てたということは、私のこの上ない喜びでした
私は、いまでこそ「感情の勝った人間?!」ですが、22年前、特に新米の母親の頃は、無類の理論派でした
育児も、「頭」でするものだと思っていましたし、獣の母親ではないのだから、しっかりと「良い子育ての理論」も理解した上で、一生懸命に子育てをするべき・・・そういうアカデミックな子育てをしましょう
と思っていたわけです。
当然、私の夫は理系のりっちゃんで、そのタイプの人間でしたしね
今思い返せば、何と未熟な母であったか、と穴があったら入りたいですねえ
それに、動物の母親のほうが、ずっとずっと知恵のある人間よりも愛情深く、自然の摂理に沿って、立派な子育てをしているなあ、今は痛感することが多いです
しかし・・・
実際に2人の子育てが始まってみると、そんな悠長なことは言っていられなくなりました
特に息子はお猿の猿吉で、どんなに真剣に言い聞かせても・・・
「わかったよ
ボク、ちゃんとできるよ
」
と笑顔で応えておきながら、次の瞬間には、もうその場にはいない・・・
そういう、超良く言えば行動派、悪く言えば節操のない単なるやんちゃ者、だったのです
ですから、私が思い描いたソフィスティケイト?された子育てが出来たのは、彼がベビーベッドでフィッシャープライスのオモチャでうれしそうに遊んでいた2,3ヶ月だけ。
それ以降は、毎日、アカデミックな子育て、スマートな子育て、私が自分で描く理想の子育てがうまくいくわけなんてありません
実際、うまくいかないのがやんちゃな息子のせいというわけでもなく、私の思い描く理想の子育てこそが、「絵に描いた餅」だったのですからね
私は、そんな毎日に腹を立てる、というのではなく、むしろ、自分の無能さを責める?という感じでしたね・・・
でもね。3年後に娘が生まれ、孤軍奮闘しているうちに・・・ふっと気づいたのです
良い母って何だろう?って。
良い母の定義・・・
良い母とは、子どもにとっての「良い母」であって、自分が数々の育児の知識や理論に基づき、頭の中で思い描く理想の母が、本当に子どもにとっての良い母なのか?それに「良い」の定義は、極めて曖昧・・・
そんなことに気づいたとたん、何だか急に、ハラハラと泣けてきてしまいました

母親である私は、もっともっと肩の力を抜いて、この二人のわが子がかわいくてしかたがない!って真実の気持ちだけを持って、もっと「自分に優しく
」してあげよう・・・ってね
人は、自分に厳しくしすぎるから、自分で自分の首を絞めてしまう・・・その事に気づいたのでした
二人の子ども達が成人した今。
果たして、私が「二人のわが子」にとって、良い母であったかどうかはわかりません
その時、その時で、一生懸命に考え、対処をしてきたことは真実ではありますが、だからと言って、空回りをしていたことだって一度や二度ではありませんしね
それに、私が二人にあらためて「ねえ、ママって、あなた達にとって、良いお母さんだった?」などとたずねたこともありませんし、きっと、真剣にたずねたところで、彼らだって、返事に窮するでしょうしねえ
そんな事、考えながら母親と毎日関わっていたわけではないでしょうから・・・
まあ、とにかく
あなたが、病的にわが子を殴りたくなる・・・というような猟奇的な母親でなければ。毎日、真剣にこの子をどこかに捨ててしまいたい、と捨て場所を探して歩く母親でなければ。折檻をして、すかっとする、というような母親でなければ・・・あんまり自分を責めないことです。
きっと、あなたはそれほど偉くはないはずです、よ
子育てなんて、泣き笑い。終わってみて、やっと、すべての時間が愛しくなる、という厄介なものです
だから・・・今は、目の前のことに真面目に、でも、自分に優しく、淡々と地道に時間を送る
ですね


「・・・前回のブログの中に、先生はこんなことを書かれていました。「もちろん、私が走っている時も、いつもへらへらと笑っているわけではありません。ダラダラと寝ころんでいるのではない限り、心拍数も上がりますし、ちょっと苦しくなってきたな、とも思います。
でも、心拍数が上がれば、下がるまでスピードを落とし、苦しくなれば、苦しくないところまで、ゆっくりにペースを落とせばよい。それでも苦しいと思えば、走るのを止めて歩けば良い そうすれば、「辛く」はない、ですね」
私は、この部分を読んで、とても勇気づけられました。時には ペースダウンもして、まずは第一の給水所目指してがんばります!・・・」
私は、私の書いた真の思いが届いて、とってもうれしかったです


私書くブログ・・・私が、一生懸命にランニングの話題でブログを書いたからといって、それはランニング雑誌への投稿ではありませんし、食文化の話をしても、グルメ雑誌への投稿ではありません

そんな私の思いを、きちんと上手くキャッチしていただけたことに、私は感謝しました

そして、このママが幼い3人のわが子の子育てに孤軍奮闘する毎日に、少しでもお役に立てたということは、私のこの上ない喜びでした

私は、いまでこそ「感情の勝った人間?!」ですが、22年前、特に新米の母親の頃は、無類の理論派でした

育児も、「頭」でするものだと思っていましたし、獣の母親ではないのだから、しっかりと「良い子育ての理論」も理解した上で、一生懸命に子育てをするべき・・・そういうアカデミックな子育てをしましょう

当然、私の夫は理系のりっちゃんで、そのタイプの人間でしたしね

今思い返せば、何と未熟な母であったか、と穴があったら入りたいですねえ

それに、動物の母親のほうが、ずっとずっと知恵のある人間よりも愛情深く、自然の摂理に沿って、立派な子育てをしているなあ、今は痛感することが多いです

しかし・・・
実際に2人の子育てが始まってみると、そんな悠長なことは言っていられなくなりました

特に息子はお猿の猿吉で、どんなに真剣に言い聞かせても・・・



と笑顔で応えておきながら、次の瞬間には、もうその場にはいない・・・


ですから、私が思い描いたソフィスティケイト?された子育てが出来たのは、彼がベビーベッドでフィッシャープライスのオモチャでうれしそうに遊んでいた2,3ヶ月だけ。
それ以降は、毎日、アカデミックな子育て、スマートな子育て、私が自分で描く理想の子育てがうまくいくわけなんてありません

実際、うまくいかないのがやんちゃな息子のせいというわけでもなく、私の思い描く理想の子育てこそが、「絵に描いた餅」だったのですからね

私は、そんな毎日に腹を立てる、というのではなく、むしろ、自分の無能さを責める?という感じでしたね・・・
でもね。3年後に娘が生まれ、孤軍奮闘しているうちに・・・ふっと気づいたのです



良い母とは、子どもにとっての「良い母」であって、自分が数々の育児の知識や理論に基づき、頭の中で思い描く理想の母が、本当に子どもにとっての良い母なのか?それに「良い」の定義は、極めて曖昧・・・
そんなことに気づいたとたん、何だか急に、ハラハラと泣けてきてしまいました


母親である私は、もっともっと肩の力を抜いて、この二人のわが子がかわいくてしかたがない!って真実の気持ちだけを持って、もっと「自分に優しく


人は、自分に厳しくしすぎるから、自分で自分の首を絞めてしまう・・・その事に気づいたのでした

二人の子ども達が成人した今。
果たして、私が「二人のわが子」にとって、良い母であったかどうかはわかりません


それに、私が二人にあらためて「ねえ、ママって、あなた達にとって、良いお母さんだった?」などとたずねたこともありませんし、きっと、真剣にたずねたところで、彼らだって、返事に窮するでしょうしねえ

そんな事、考えながら母親と毎日関わっていたわけではないでしょうから・・・
まあ、とにかく

あなたが、病的にわが子を殴りたくなる・・・というような猟奇的な母親でなければ。毎日、真剣にこの子をどこかに捨ててしまいたい、と捨て場所を探して歩く母親でなければ。折檻をして、すかっとする、というような母親でなければ・・・あんまり自分を責めないことです。
きっと、あなたはそれほど偉くはないはずです、よ

子育てなんて、泣き笑い。終わってみて、やっと、すべての時間が愛しくなる、という厄介なものです

だから・・・今は、目の前のことに真面目に、でも、自分に優しく、淡々と地道に時間を送る

