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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

あなたって、そんなに偉くない?!

2008年03月17日 | にこにこ
 私の前回のブログを読まれて、あるお母様からメールを頂戴しました
 「・・・前回のブログの中に、先生はこんなことを書かれていました。「もちろん、私が走っている時も、いつもへらへらと笑っているわけではありません。ダラダラと寝ころんでいるのではない限り、心拍数も上がりますし、ちょっと苦しくなってきたな、とも思います。
 でも、心拍数が上がれば、下がるまでスピードを落とし、苦しくなれば、苦しくないところまで、ゆっくりにペースを落とせばよい。それでも苦しいと思えば、走るのを止めて歩けば良い そうすれば、「辛く」はない、ですね」
私は、この部分を読んで、とても勇気づけられました。時には ペースダウンもして、まずは第一の給水所目指してがんばります!・・・」

 私は、私の書いた真の思いが届いて、とってもうれしかったです
 私書くブログ・・・私が、一生懸命にランニングの話題でブログを書いたからといって、それはランニング雑誌への投稿ではありませんし、食文化の話をしても、グルメ雑誌への投稿ではありません
 そんな私の思いを、きちんと上手くキャッチしていただけたことに、私は感謝しました
 そして、このママが幼い3人のわが子の子育てに孤軍奮闘する毎日に、少しでもお役に立てたということは、私のこの上ない喜びでした

 私は、いまでこそ「感情の勝った人間?!」ですが、22年前、特に新米の母親の頃は、無類の理論派でした
 育児も、「頭」でするものだと思っていましたし、獣の母親ではないのだから、しっかりと「良い子育ての理論」も理解した上で、一生懸命に子育てをするべき・・・そういうアカデミックな子育てをしましょうと思っていたわけです。
 当然、私の夫は理系のりっちゃんで、そのタイプの人間でしたしね
今思い返せば、何と未熟な母であったか、と穴があったら入りたいですねえ
 それに、動物の母親のほうが、ずっとずっと知恵のある人間よりも愛情深く、自然の摂理に沿って、立派な子育てをしているなあ、今は痛感することが多いです

 しかし・・・
実際に2人の子育てが始まってみると、そんな悠長なことは言っていられなくなりました
 特に息子はお猿の猿吉で、どんなに真剣に言い聞かせても・・・
 「わかったよ ボク、ちゃんとできるよ
 と笑顔で応えておきながら、次の瞬間には、もうその場にはいない・・・ そういう、超良く言えば行動派、悪く言えば節操のない単なるやんちゃ者、だったのです
 ですから、私が思い描いたソフィスティケイト?された子育てが出来たのは、彼がベビーベッドでフィッシャープライスのオモチャでうれしそうに遊んでいた2,3ヶ月だけ。
 それ以降は、毎日、アカデミックな子育て、スマートな子育て、私が自分で描く理想の子育てがうまくいくわけなんてありません
 実際、うまくいかないのがやんちゃな息子のせいというわけでもなく、私の思い描く理想の子育てこそが、「絵に描いた餅」だったのですからね
 私は、そんな毎日に腹を立てる、というのではなく、むしろ、自分の無能さを責める?という感じでしたね・・・


 でもね。3年後に娘が生まれ、孤軍奮闘しているうちに・・・ふっと気づいたのです
  良い母って何だろう?って。
  良い母の定義・・・

 良い母とは、子どもにとっての「良い母」であって、自分が数々の育児の知識や理論に基づき、頭の中で思い描く理想の母が、本当に子どもにとっての良い母なのか?それに「良い」の定義は、極めて曖昧・・・

 そんなことに気づいたとたん、何だか急に、ハラハラと泣けてきてしまいました
 母親である私は、もっともっと肩の力を抜いて、この二人のわが子がかわいくてしかたがない!って真実の気持ちだけを持って、もっと「自分に優しく」してあげよう・・・ってね

 人は、自分に厳しくしすぎるから、自分で自分の首を絞めてしまう・・・その事に気づいたのでした

 二人の子ども達が成人した今。
果たして、私が「二人のわが子」にとって、良い母であったかどうかはわかりません その時、その時で、一生懸命に考え、対処をしてきたことは真実ではありますが、だからと言って、空回りをしていたことだって一度や二度ではありませんしね
 それに、私が二人にあらためて「ねえ、ママって、あなた達にとって、良いお母さんだった?」などとたずねたこともありませんし、きっと、真剣にたずねたところで、彼らだって、返事に窮するでしょうしねえ
 そんな事、考えながら母親と毎日関わっていたわけではないでしょうから・・・

 まあ、とにかく
あなたが、病的にわが子を殴りたくなる・・・というような猟奇的な母親でなければ。毎日、真剣にこの子をどこかに捨ててしまいたい、と捨て場所を探して歩く母親でなければ。折檻をして、すかっとする、というような母親でなければ・・・あんまり自分を責めないことです。
 きっと、あなたはそれほど偉くはないはずです、よ

 子育てなんて、泣き笑い。終わってみて、やっと、すべての時間が愛しくなる、という厄介なものです 
 だから・・・今は、目の前のことに真面目に、でも、自分に優しく、淡々と地道に時間を送る ですね


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2種類のスポーツ?

2008年03月10日 | にこにこ
連日、説教臭い話題が続きました
あまり真面目過ぎるお話しばかりでは嫌われてしまいそうなので・・・今日は、ちょっと息抜きの話題

 ここのところ、ランニング話で盛り上がっています しかしその一方で、ランニング話だからこそ、盛りさがっている、という方もたくさんおいでになるでしょうね
 まさに 半年前までの私が、誰より「ランニング話で盛り下がる」タイプでした

 まず、「走る人」の気持ちが理解できない・・・
 なんで、わざわざ苦しい思いをしているのか?
 なんでハーハーゼーゼーすることが続けられるのか?
 本当に理解不能だったのです
 たとえば、中学や高校の運動部部員が、揃ってクラブの前に走る・・・とか、陸上部員が走る、というのであれば納得します でも、クラブでもなければ、体育の授業でもない・・・本当に理解できませんでした

 そんな私の横で・・・夫は、無類のランニング好きです
私は眺めているだけで、何と言うのでしょうか・・・悲しくなるとでも言いましょうか・・・

 たとえば。
そろそろ陽射しが強くなる晩春の日曜日。私が朝食の後かたづけを終えてリビングに戻ると、そこにはランパン、ランシャツ(マラソンの選手達がレースの時に着ているヒラヒラの短いトランクスのようなものと、タンクトップのようなランニングシャツです)姿の夫がいて、入念に日焼け止めを塗っています(私の夫は、なぜかシミやシワを嫌悪し、回避するための努力を惜しみません)。
 そして、何か武者震いでもするような雰囲気を醸しだし、
  「じゃあ、ちょっと走ってくるわ」と出かけて行きます。
 約2時間後。
私がお洗濯を干し終え、パソコンの前で仕事を始めた頃、ガチャンの玄関のドアが開き・・・汗をしたたらせ、真っ赤な顔をした夫が帰ってきます
  「いやー、気持ちよく走ったわ 20キロくらいやね あー気持ちいいなあ、この陽気に走るのは
 汗と日焼け止めのローションがミックスされた、妙な白い顔・・・

 冬ともなれば、汗ダラダラではありませんが、今度は違う意味でかなりキモイ
 長距離を走るランナー体型になってしまっている夫の足は、まるで小学校の理科室にあった、筋肉標本のようです。
 もともとはダイバーで、水泳を得意にしていた夫は、昔はそれなりに胸板が厚く、肩幅も広かったので、がっちりとした人でした。ところが、マラソンをするようになってからは、ランニングに直接必要のない筋肉は落ちていき、水泳もしなくなったために上半身は華奢になりました
 その夫が、最近流行の筋肉の動きをサポートするというタイツ、CW-Xを履くと・・・私の立派な足の半分の太さです

 とにかく
私達夫婦は自他共に認めるオシドリ夫婦ではありましたが、夫の趣味であるランニングにだけは、私は全く理解がありませんでした。
 そんな私が、昨年の夏の、夫の自転車事故を期に、思うところあって、ランニングを始めるわけです
 でもね
私にとってもランニングは、「辛いスポーツで根性を鍛える」とか、「何の道具も必要のない、楽に始められるランニングで健康管理をする」とか、「心地よい達成感を味わうためにスポーツをする」とか、そんなものではありません。
 そうですねえ・・・最も、ぴったりの表現をすれば。
 「今まで、私が知らなかった世界や、経験をしたことのない気分を味わえるビッグチャンス」 であり
 「50歳になって、もっともっと人として豊かになりたい、と願っている私にあたえられたチャンス」 でしょうね。
 そして、オマケのように、夫とその世界や気分を共有できるのであれば、一石二鳥かな・・・

 ところが。
先日、卒業生ママ達とお食事をしていて、とっても「驚くことを発見」しました 
 それはね・・・そのママ達、一様に、私が忌み嫌っていた「ランニング」を始めたことに驚きを隠せないようで、「先生、またどうしてランニングを???」と言われたわけです。
 そこで、私は上記のようなことをお応えすると、ママ達のお返事は、私の予期していないものでした

 その日にご一緒したママ達は、みなさん、中学や高校の頃に運動部に所属されている方達でした。
 そしてみなさん、クラブでの「辛いランニング話」を披露なさり、まるで昨日のことにように、コーチの罵倒、先輩の罵声、ランニングの時の様子を口々に話されました
 「あの時に感覚・・・今でも思い出す・・・走る、ってことにはあの辛いトラウマが付きまとうね・・・」と。

 そうなんですねえ・・・私は、初めて知ったのでした
私には、辛いランニングの記憶はありません。中学時代に所属していたスキーや登山をするクラブでも、日頃のトレーニングはなし。月に一度の山行だけです
 高校では、文化部系に所属していましたからね・・・趣味で、テニスやゴルフのレッスンには通っていましたが、そういうレッスンはあくまでスポコン系ではなく、どちらかと言えば、優雅な、お嬢ちゃんの趣味クラブ
 ですから、私には、「止まるなー・・・もっと走れー・・・何やってんだー・・・」みたいに言われて走った記憶は、たった一つもないのです。

 一人のママに「先生はなんで走られるのですか?」と聞かれ、私は答えに窮しました じつは、そんなことを考えたことがなかったからです。
 一応、ハーフマラソンは走ってみたいなあ、と思っていたり、いつかはフルマラソンも走れるようになりたい、とは思っているので、そのようにお応えすると・・・
 「ああー、それが目標で、走っていらっしゃるのですね」と確認?され、やっと、うんうん、と納得されたようでした
 でも、むー・・・私のランニングには、あまり目標設定は重要ではなかったように思えます、自分の気持ちの中では。
 「どのくらいのスピードで走るのですか?」
 「・・・ハーハー、と辛くはないですか?」
と尋ねられ、私が「いやいや、今のところは1キロを7分ちょっと、というタイムで走っているので、一緒に走る人と、いろんなお話しをしながら走ったりもしますよ」とお応えすると、
 「えーっ 人としゃべりながら走るのですか?」と驚かれました。
 「ハーハー、ゼーゼーと走るのは、苦しいでしょう?辛いとランニングなんて続けられませんものね」と話すと、みなさん、口を揃えて・・・
 「ランニングは・・・辛いものでしょう・・・楽しいランニング・・・なんて、ありますか?」
と、とっても私のお応えが、理解不能のようでしたねえ

 スポーツには、2種類あるのだな、と実感しました
大別すると、「辛い思いをして頑張るスポーツ」と「楽しい思いをするスポーツ」と。そして、私は思いました。
 私が一生懸命に、お母様方に奨励している「人を豊かにする、一つのチャンス」としてのスポーツは、決して「辛い思いをして、必死に頑張ったり、イヤイヤ取り組んだりするスポーツ」ではないのだな・・・と。

 もちろん、私が走っている時も、いつもへらへらと笑っているわけではありません ダラダラと寝ころんでいるのではない限り、心拍数も上がりますし、ちょっと苦しくなってきたな、とも思います。
 でも、心拍数が上がれば、下がるまでスピードを落とし、苦しくなれば、苦しくないところまで、ゆっくりにペースを落とせばよい。それでも苦しいと思えば、走るのを止めて歩けば良い そうすれば、「辛く」はない、ですね

 そして、もし私が敢えて目標を設定したら・・・きっと私は、その目標に向かってがんばることになるでしょう
 けれど、その目標は、誰かに決められたり、強要されるものではなく、自分で決め、自分で向かう目標です
 目標を達成するために努力をすることも、途中で止めるのも、自分の判断です

 次に私がランニングをする時・・・きっと、あらためてこのことを思い出し、楽しいランニングをしている自分を、再確認することでしょう
 そして、目的や目標、走る意味は根本的に違っても、「走る」という同じ行為をしているレースに出る選手達に、限りない愛着を感じ、賞賛のエールを送り、やっぱりかっこいいなあ、と憧れますね

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感性と行動力 1

2008年03月08日 | にこにこ
 ここのところ、私がご紹介をした「パラカップ」の話で、私のまわりはにぎやかです そんな中・・・

「意気込んで『ママ、走ろう!』と言っていたわが子ですが、その後は色々と心配していたようでした。けれど、この大会の趣旨を説明し、速さ、タイムなどを競うものではなく、チャリティーが目的なのだから、楽しく参加すればいいのよ、と話をしたら、とても安心したようで、張り切っております。そして、『マラソンに参加することで世界中の子供たちが助かるなら、世界のみんなが参加すればいいのに!』と言っておりました

 これは、あるお母様から頂戴したメールです
私は、このメールを読み、まだまだ幼い低学年のお子さんが話された最後の言葉『マラソンに参加することで世界中の子供たちが助かるなら、世界のみんなが参加すればいいのに』に、大変感動しました
 この感性、すてきですねえ。真摯にお母様の説明に耳を傾けたこのお子さんは、きっと心からそのように思ったのでしょう
 この親子の場合はマラソン大会ですが、それがチャリティーのミュージカルであっても、○○大会であっても、△△会であっても、アクションを起こした限りは、それなりの体験とそこから得る「何か」は貴重でしょう。
 けれど、チャリティーのマラソン大会を開催する団体の「真の思い」は、すでにこの母子には十分に伝わり、10歳足らずの子どもにも、しっかりと思いが根付いたような気がします

 同じ時期に、こんなメールも頂戴しました。
そこに書かれてあったことは・・・昨年の秋、まだまだ幼いわが子にせがまれて、このお母様はご自宅の近くの駅前で、赤い羽根の共同募金をなさいます
 小さな手で募金箱にお金を入れるお子様。すると、赤い羽根が手渡される・・・そこ子はうれしそうに、その赤い羽根を付けてもらい、そしてママを見上げて言われたのだそうです。
 「ママ、赤い羽根、買ってくれてありがとう
 お母様は、そのとき、ちょっと違うな、と違和感を感じつつも、上手く説明できないかもしれない、という思いを持ちながら、そのままにされたのだそうです。
 しかし、今回の一連のチャリティーマラソンのことがあり、一つ前のブログに書かれた内容なども読みながら、このお母様は、たとえわが子が幼かったとは言え、何も訂正も説明もせず、そのままにしてしまったことがあらためて思い出され、後ろめたさのようなものを感じている・・・と。
 私は、このお母様の思いにも、とても心動かされました

 人は、さまざまな機会から、多くのことを感じ、学びます
Aさんにとって何の意味もない事柄が、Bさんにとってはとてもインパクトのあることであり、一生に幾度もないほどの意味を持つことかもしれません。
 とにかく、親であればこそ、やはり感性にヒットする多くのアンテナを、五感のあちこちに持っている必要があるでしょう
 
 昨年、渡辺淳一氏の書かれた「鈍感力」という本が話題になりましたが、この鈍感力とは、決して敏感の対極にあるものとしてではなく、「些細なことは気にせず、少々のことは気に病まず、たくましく生きる力を持つ」という意味で使っていらっしゃいます

 私が親に必要だと考えるものは・・・
  五感で感じる力
  頭ではなく、心で感じる豊かな能力
です。そして・・・
  感じ、考え、学び、自分のものとして咀嚼したら、次は何らかのアクションを起こすバイタリティー
 この話には、じつは是非ぜひお伝えしたい「続き」があるのですが、今日はこのくらいにして・・・
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東京マラソン 親子百景

2008年02月20日 | にこにこ
 2月17日、今や東京の大イベントとなった東京マラソンは大きな混乱もなく、無事に終了しました
 私の夫は、3年まえのホノルルマラソン以来、久しぶりのフルマラソンへのエントリー。骨盤、恥骨、肋骨骨折・・・という重傷(ですよねえ)で、半年前は沖縄の病院のベッドにいたことを思えば、こうして再び走れるようになっていることは、何とありがたいことでしょう
 今回は、以前のようにラン練習でストイックに走りこむーというチャンスがなかったとは言え、何とか4時間は切りたいという願いも叶い、17日の夜は、夫婦で完走の祝杯をあげお世話になった名護の県立病院の方向に向かって、深々とお礼のあいさつをしたものです

 今年は好天に恵まれ、昨年とはうってかわってランナー達も走りやすい条件のもと、42.195キロという過酷な中にもどこかお祭りに参加する雰囲気を漂わせながら、快走していたように思います
 応援の私も、至れり尽くせりの公式ランマップのおかげで、地下鉄、JR、ゆりかもめを駆使し、4キロ地点の市ヶ谷付近、21キロ地点の有楽町、32キロ地点の茅場町、41キロ地点の有明・・・と、効率よく先回りをして、応援することができました
 また、携帯の公式サイトにアクセスし、ゼッケン番号を入力すると、5キロ、10キロ、15キロ・・・とラップと通過タイムを知ることができるシステムも大いに活用しました
 いやいや、3万4千人のランナー、それを応援するサポーターのために、たくさんの知恵と労力を使い準備をしてくださった方々、ボランティアの方々、周辺の一般市民の方々のご苦労とご厚意に、心より感謝いたします

 さて。
私は夫を応援するだけではなく、幸運にもこの日は、早朝から、素敵な親子百景?!にたくさん出くわすことができました
 沿道で、声を限りに「パパー、パパー」と叫ぶ子供たち。
 乗り物の中で、手描きの「パパがんばって!」ポスターを自慢げに見せる子供たち。
 パパに肩車をされ、「ママはもう来る?今も走ってる?」と聞きながら、遠くを見つめる子供たち・・・
 そんな子供たちは皆、とってもハイテンションで、ものすごく一生懸命、という様子でした。
 そんな我が子たちの前を通過していくパパ達、ママ達は、みなさん一様にとっても嬉しそうでしたが、単なる「ハッピーな表情」というのではなく、その声援に真剣そのもので応えているように見えました その顔はランナーの顔である前に、「がんばるパパ」「がんばるママ」の姿そのもの、だったと思います

 がんばれ
・・・という言葉。私たちは日頃からよく使いますね。
慣用句化されたこの言葉は、それほどの努力を必要としない行動に対しても使われます。
 たとえば、毎朝出勤するパパに「パパ、いってらっしゃい!今日もがんばってねえー」とか、幼稚園に行く子どもに「おい、今日もがんばれよ!」のように。
 しかし、この東京マラソンで見かけた子どもたちの「パパ、がんばれ」「ママ、がんばって」という「がんばれ」という言葉には、そんな日常の「がんばって」とは全く違う趣があり、何と言えば良いのでしょうか・・・もっと尊い?もっと力強い行動へのエール、とも言うべき響きがありました

 そして、その「がんばって」の声援を受けて走るパパランナー、ママランナー達は、そんな子供たちの声援を決して聞き流すのではなく、全身全霊で受けとめ、まさにその声を即、エネルギーに変えて爆発させているように見えました
 走り去ったパパ、ママを見送る子供たちの目には、間違いなく「大きな、熱いハート」が入っていましたよ

 よほど日頃からかなり真剣にトレーニングをしているランナーでない限り、20キロを過ぎる頃からは、あちこちに痛みが出てきたり、気持ちはあっても、なかなか思うように足が前に進んでいかない、という状態になってきます
 私が、ここのところ夫にリードされながらトレーニングで走る10キロでも、問題なく走れるようになるまでには、かなりの期間と練習が必要でした。
 最初のうちは、2キロの地点で、すでに脛の筋肉痛があったり、5キロで足の付け根が痛かったり・・・
 最近は一種のブームで、簡単に「フルマラソン」と言いますが、それがお祭り的要素の高いホノルルマラソンでも東京マラソンでも、42.195キロという距離は、とんでもなく長い距離です どんなに華やかな大会でも、決して安易に、「ノリ」で走れる距離ではありません
 それこそ、あんなに日頃から練習をしていた福士選手でさえ、30キロを過ぎたあたりからは、予想だにしなかったこともおこるわけですものね

 32キロ地点、茅場町あたりで、子どもたちの前を行くパパ、ママランナーの姿は、「颯爽と」とは言い難くなっていました 
 声援に手を振って応えながらも足を引きずっていく人。
 子どもの前で「パパ、がんばるぞ!」と歪んだ笑顔を作り、ストレッチを何度かして、また走り出す人。
 差し出されたチョコをうれしそうに食べて、パンパンと顔を叩いてから走り出す人。
 みな、疲労の色は濃く、急に陽が陰ったせいで気温が下がり、午前中の明るさもあたたかさもなく、よけいに悲壮感が漂います
 実際、私の夫はまあまあ早いタイムでこの地点を通過しているランナーですから、同じようなタイムで子どもたちの前を通過していくパパ、ママランナーは、かなりトレーニングを積んでいるランナーだと思います。「東京マラソン?むー、いっちょ、走ってみるか!」のような気持ちで、にわか練習をしたランナーではないでしょう。そういうランナー達は、30キロ以降は、もう早歩き、歩き、のモードになっていたかもしれません。

 でも
パパもママも、子どもたちの尊い声援を受けて、まさに「がんばる」のでした

 大人が、子どもたちを相手に、簡単に口にする「がんばれよ」の言葉。
この言葉が、本当の意味で我が子に届くのは・・・
子どもたちがその真実の意味を五感で実感するのは・・・
 それは、きっと親が、大人が、真剣にその「がんばる」ことを態度で示し、「がんばる」を実行しているとき、なのかもしれません。

 そんなことを痛いほど感じながら、パパランナー、ママランナー、素敵な応援団の子どもたちを眺めました

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こだわりで、自分を高める

2008年01月28日 | にこにこ
 日頃から、私は教室のお母様方に「どうぞ、こだわりを持って、生活をなさってください」とお話しをします。
 そういうお話しをした時、私の目の前で、お母様達が、小さく「うん・・・うん・・・」と頷かれると、ああ、わかっていただけたのだな、と安心をします。
 でも時々、ふっと、「はたして、私の真意は伝わっているのだろうか?」と心配にもなるのです

 私が使う「こだわり」という言葉。
その意味は・・・その他大勢、となるのではなく、是非、someone special であって欲しい、という意味です。someone special の人は、something special を大事になさる・・・それが、私のひとつの定義、です
 ご自分自身が、その他大勢の中の一人、としてうもれてしまう存在ではなく、言動、行動ともに「キラリと光る存在」となってみよう、と思う人になって欲しい・・・とでも言いましょうか。
 そのためには、something special の力を借りるだけではなく、それに見合うだけの人としての精進をしなければなりません

 さて、普段、私達が使う「こだわり」という言葉。最近は、よく聞くようになっていますね
 たとえば・・・
「こだわりの食材」という言葉。飽食の時代。首都圏では、どんな食材でも手に入るようになりました 世界各地から届くめずらしい食材。新種の野菜。希少価値の肉製品・・・デパートや、大きなスーパーなどに行けば、どんなものでも手に入るようになっています
 でも、そんな時代においても、敢えて「こだわりの食材」と呼ばれるものはどんなものか?と言えば・・・
  ○○さんが作ったお米
  △△の方法で栽培した野菜
  ○○で飼育されたポーク、etc. etc.
要するに、それがどんなに「一般的な食材」だったとしても、『こだわりの』というひと言が加わると、決して一般的なものではない「普通のもの、普及品ではない」ということがわかります
 とすれば、なぜ、「こだわりの食材」を使いたいのか?使おうと思うのか?ですよね。
 その答えは・・・普及品を使ったものでは満足できない人達が、もっと上級の、もっと深いところまで追求したものを求める(普及品を使ったものでは満足できない人達に、もっと上級の、もっと深いところまで追求したものを提供したい)、ということでしょう
 そして、そういうものを求める人達こそが、味そのものだけではなく、「特別なものを使う付加価値」を重要視する人達、とも言えるでしょう

 これは、ある意味、「ブランド志向」にも似た感覚があるかもしれませんね。
たとえば、「A」というものは、どこにでも売っているものであり、値段も、100円程度から手に入る・・・
 でも、100円ショップで買い求めることのできる「A」もあれば、わざわざ「○○屋」ということろに行かなければ手に入らない「A」もあり、1,000円以上もする「A」もある・・・
 では、この場合、100円ショップの「A」で満足する人と、○○にわざわざ出かけて「A」を手に入れる人、1,000円以上の「A」を買い求める人の間には、どんな違いがあるか?

 いかがですか?あなたは、どちらの人でしょうか?もちろん、「A」が何であるか、によるでしょう。そして、単純に好みとしてどちら派に属するか、ではなく、ここには経済的な問題が発生してくるかもしれません。
 しかし、あくまで「A」は、10,000円や100,000円するような贅沢品ではない、のです。
このような条件をつければ、100円ショップ派と、「○○屋」お出かけ派には、経済的な差はほとんどない、ということになりますね。
 さあ、あなたは、どちらの「派」に属するでしょう?

 最近は、教育にこだわりを持っています、という親は多くなりました ○○メソッドとか、○○式で幼い頃から子育てをしている、のように。それもすばらしいですね
 ただ、私の言う「こだわり」は、かなりこれとは意味が違います。
なぜなら、この教育へのこだわりは、ある意味、実利的、と言えます。子どもの成長において、特別な教育法を実践することで、実質的な効果を求めている「こだわり」です たとえば、その教育法にこだわることによって、他の子ども達より早く○○が出来るようになる、とか、抜きんでて△△への理解力が高まる・・・のように
 しかし、私が先ほど書いた「A」にこだわる、ということは、あまり実利的なもの、とは言えません。付加価値とは、本来、プラスαの部分で、合理的な考え方では説明のできないものだら、です。

 以前にも書いたことがありますが・・・
銀座4丁目の交差点に近いところに、便箋や封筒、祝儀袋、和小物のお店「鳩居堂」があります。
 私は、かしこまったお便りを書く時には、この鳩居堂の便箋や一筆線を好んで用います。
 今や、便箋は、それこそ100円ショップにもありますよね。再生紙を利用したものではあっても、むしろ、エコの時代には、それはそれで尊重されるべきものです
 しかし・・・私は、この方へ!という時には、事務機メーカー「コ○ヨ」の便箋でもなく、100円ショップの便箋でもなく、やっぱり、「鳩居堂」の便箋で書こう、と思うのです。他にも、京都には、「こだわりの和紙」の小物、熨斗袋など、たくさんあります。

 以前、この話を、私のクラスでしたところ・・・
さっそく、そこを訪れたお母様から、こんなメールをいただいたことがありました。
 「鳩居堂に行って、私は驚きました。そこに並んだ便箋や封筒の数。同じ『手紙を書く』にしても、世の中には、これだけ、便箋や封筒にこだわる方がいらしたんだ・・・私の知らなかった世界です。私は、そのことに驚き、何というのでしょうか、何もそんなことを考えていなかった自分に、肩をすくめたい気分になりました」
 私は、まさに、お伝えしたいことが、しっかりと伝わったんだな・・・と実感したものです

 こだわり・・・付加価値のこだわり・・・
私は、それを人としての潤いである、と感じています。そして、付加価値のあるもの、良いものにこだわることは、それに見合う自分になろうと、自己を高める良いチャンス、だとも思っています
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