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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

かっちゃんの長靴

2008年07月03日 | めそめそ
 梅雨の時期・・・私には、苦い思い出があります。
その思い出はあまりに古く、今では断片的に、まるで映画のシーンのように思い出されるのですが、不思議に、幼い私がその時に感じていたこと、考えていたことは、まるでもう一人の私を外から見るように、鮮明に、はっきりと覚えているのです・・・

 それは、幼稚園の年中組の梅雨のある日。
私の記憶は、幼稚園の職員室・・・
 あれは、お昼休みだったのでしょうか。担任の先生が事務用の回転椅子に座り、私の正面でいろいろと尋ねています。その先生の向こう側には、難しい顔をした園長先生が座っていました。

 「なぜ、そんな状況に陥ってしまったのか?」それは定かではありません それが、古い古い思い出だから、というのではなく、その当時から、そこのところだけは抜け落ちていたように覚えています。
 
 とにかく、なぜか、私は一番の仲良しのお友達「かっちゃん」の長靴を、お手洗いに捨てた犯人・・・ということになってしまっていました。
 当時のお手洗いは「くみ取り式」で、きっと、お手洗いに入った園児が、眼下に、赤い長靴1個が落ちていたのを見つけ、先生に報告をしたのでしょう

 子どもというものは、自分の都合の悪いことは、すぐに上手に忘れてしまうギャングだ・・・と思っている大人は意外に多いですが、実際には、「自分がやったイタズラや意地悪」という悪事は、自分の中のうしろめたい思いからか、案外しっかりと覚えているものです

 私は一人っ子で、父や母だけではなく、祖母やおじ、おばも一緒の、大家族の中で育ちました。
 当時ではよくあることだったと思いますが、祖母の母イジメ(俗に言う、嫁いびり、ですね)はかなりのもので、私は子ども心に、「おばあちゃん、何で私には優しいのに、お母さんのことを虐めるのだろうなあ・・・」と悲しい思いになったものです。
 そういう意味では、私はすでに4歳頃から、大人の理屈や、大人の表裏等、そういうドロドロとしたものを肌で感じて暮らしていたように思います。

 それを思えば、私には、確かに「ストレス」のようなものはあったでしょう。
しかし 私は断じて、「かっちゃん」の長靴をお手洗いに捨ててはいないのです
 たとえストレスがあったとしても、大好きなかっちゃんを悲しませて喜ぶ、という気持ちはありませんでしたし、人間関係において、とっても臆病だった私は、当時は、誰よりも「人から嫌われること」を怖いこと、辛いこと、悲しいこと、と思っていましたからね
 だから、単なる愉快犯として、お友達の長靴をお手洗いに捨てる、という悪事をはたらき、先生やお友達に「まどかちゃんは、悪い子」というレッテルを貼られてしまうようなことは、断じてしない子どもでした

 では、なぜ「私が捨てたことになってしまったのか」そこのところは不明であり・・・もう、45年、半世紀の時が流れてしまった今では、もう誰も覚えていないでしょうね

 「なんでこんなことをしたの?正直に先生に話してごらんなさい かっちゃんが悲しむでしょう?どうして?・・・」
 先生が、私の顔をまっすぐに見ながら、視線を逸らさず、硬い表情で何度も繰り返してたずねます
 向こう側の、園長先生の顔も怖い顔でした。

 職員室の外は、土砂降りの雨
園庭の一番端には鉄棒があって、その生け垣の前の鉄棒の下が、大きな大きな水たまりになっていました・・・
 
 先生は、私がいつまで経っても黙ったままなので、かなり気分を害されたのでしょう だんだんと、声のトーンがあがってきました。私は、ひたすら困っていましたねえ・・・

 なぜ、やってもいないのに、私は黙っていたのかって?
 やっていないのならば、どうして「そんなこと、やってません!」と言わなかったのか?
 本当ですよね 私は泣き叫んでも、「私は、大好きなかっちゃんの長靴を、お手洗いに捨てたりしてません」と言わないといけなかったでしょうね。
 でも、なーんにも言わなかったのです。言えなかったのかなあ・・・ただただ、「なんで私が職員室に呼ばれて、何で何も知らないことを、何度も何度も聞かれているのだろうか?」と、そのことが飲み込めず、とっても悲しかった、ということを覚えています

 そして、「何で、こんな酷いことをしたの?」と繰り返す先生が怖くて、何とか、早くその状況から逃げ出したいと思っていました。そして、たまたま、その時に職員室の前を通りかかった、少し障害のある年中さんを指さし、「あの子が捨てた・・・」と、小声で言ったことを覚えています。とんでもない悪い子ですねえ、私は
 そう私が言った瞬間、何も聞こえていないはずのその女の子が、私のほうを、ぎゅっと睨んだんですよ。
 私は、後ろめたさでいっぱいになり、うつむきました。(その日以来、私はその年中さんの顔を見ることができなくなりました。そして、園庭ですれ違ったりするたびに、心の中で、ウソを言ってごめん、と繰り返していました・・・)

 それが、私の記憶です。
音を立てて降る雨。水たまりがあちこちに出来た園庭。鉄棒の下の大きな水たまり。先生の声以外は、蛍光灯の音?だけがジーと鳴る職員室。担任の先生の怖い目。園長先生の顔。年中さんが私を睨んだ目・・・

 「かっちゃん」は、大きな開業医のお嬢さんでした。その公立幼稚園から、私立の小学校に進学。
 私はその7年後、中学受験を経て、かっちゃんの通う一貫校に進学し、同じクラスになりました。
 けれど、私はその後一度も、かっちゃんと「長靴」の話しをしたことはありませんでした。
 もしかしたら、中学生になったかっちゃんはすでに、そんなことを忘れていたのかもしれませんし、今になって思えば、かっちゃんは、長靴事件については、何も詳しいことは知らされていなかったのかもしれません・・・

 あの時、たぶん私の母は、その事件?問題に関して先生からご説明を受けたはず、です。さぞかし、母は心を痛めたことでしょう・・・
 けれど、私はたった一度も、母からそのことで詰問されたり、母に叱られたりした記憶がありません。

 私は自分が2人の子どもの母になってから、当時の母の思い、気持ちをあらためて考えてみました。そして、本当に悲しかったですねえ
 親である母が、それほど大きな問題の真相を確かめなかったことが良いことなのか、悪いことなのか、何とも言えませんが・・・でも、当時の母は、決して「何となく」ではなく、何らかの確固とした思いがあって、私に何も言わなかったのでしょう。その母の心を思うと、その出来事の真相云々ではなく、母に、とてつもなく辛い思いをさせてしまった私の罪を感じずにはおれません・・・

 私は、「かっちゃん」の長靴を捨ててはいない
私は、梅雨の時期が来るたびに、毎年毎年、あの「雨の園庭のシーン」を鮮明に思い出し、そうつぶやきます。少し、胸が痛くなります

 理不尽、という言葉があります。不条理、という言葉もありますね。私は中学生になり、この少し大人っぽい響きのある言葉を知った時、すぐに、この幼稚園での苦い思い出が頭に浮かびました

 私の二人の子どもが幼稚園に在園中・・・ときどき尋ねたものです。「ねえ、何か幼稚園でイヤなことはなあい?」と
 
 そして、今。
クラスでは、一生懸命に子ども達に話し、教えます
 「あなた達はね、しっかりと自分の考えていることを、言葉にして、相手に伝えなさいね 人が話す言葉を間違うことなく聞いて理解するために、そして自分の思いを正しく相手に伝えるために、一つでもたくさんの「言葉」を覚えなさい 言葉って大事よ。たくさんの言葉を知らなければ、相手が何を言っているのかもわからないし、自分の言いたいことを、相手に上手に伝えることができないんだもの

 今でこそ、私は「話す」仕事をし、人からも「よくしゃべる人」と、かなり呆れられる存在ではありますが、4歳や5歳当時は、あまり、上手に話す子どもではなかったのでしょうか・・・
 それとも、あまりの信じられないぬれぎぬに、「そんなこと、していません」と言う気力も、チャンスも失ってしまったのでしょうか・・・
 今では、みんなみーんな、確かめようのない闇の中です

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南大門、炎上・・・

2008年02月12日 | めそめそ
 今朝のニュースで、大々的に報道されたソウルの南大門の火災。出火の原因は、放火だったということですが、私は昨夜、ニュース映像で流れる崩落する南大門を眺め・・・泣きました。
 南大門は、韓国の「国宝第1号」で、今から35年前、私が高校生の友好訪韓団の団員としてソウルを訪問した時にも、通訳で同行してくださった方が、誇らしげに説明をしてくださった時のことを、よくよく覚えています。
 今から3年前、知人の米寿のお祝いのため、仕事でどうしても時間がとれなかった主人の代わりに、32年ぶりに一人でソウルを訪問しました。
成田からの最終便でソウル入りした私は、翌日の早朝、ソウルの町を、散歩を兼ねて歩きました。ホテルから出て、すぐ近くのソウル市庁舎の前に立ち止まると、まっすぐ道を進んだところに、南大門が見えました。私は本当に久しぶりに見る、韓国のシンボルとも言うべき南大門の堂々とした姿に、しばらく見とれたものです。
あれ以来、私は3度ソウルを訪れましたが、南大門の威風堂々とした姿は、さまざまな季節の中で、何とも言えない味を出していました。しばらく工事中だった南大門が、出入り自由なロータリー的な公園となって目の前に現れた時には、身近になったぶん、ちょっぴり威厳に欠けてしまうのではないか・・・と思ったものでしたが、その、「自由に出入りできるようになったこと」が、こんなかたちで仇となってしまったこと・・・本当に、残念で、残念で・・・
バラバラと猛火の中で、音をたてて崩れ落ちる瓦、虚しい放水、そして石造りの台座の上の黒く焼けこげた残骸・・・言葉もありません。

 あの立派だった南大門への思いを込めて。
少しでも、このブログを読んでくださるみなさまに、私の訪韓の経験を通し、日韓両国の関係をあらためて知っていただければ、と思い、私が当時のホームページ内「お母様、ちょっとお耳を・・・」の中に書いた文章を、再度掲載したいと思います。
 かなり長くなりますが、一つの読み物として、お時間のある時にでも読んでみてください。

(2004年 11月 お母様、ちょっとお耳を・・・から)

 私は幼稚園から大学まである、私立の一貫校の卒業生です。
当時は、音楽や絵画、彫刻のような芸術系に進む生徒以外は、ほぼ全員が自分の学校の大学か短期大学(今はもうありません)に進学する、という学校でした。
 30年前にすでに高校の授業が完全な選択制になっていましたから、良く言えば生徒は時間にゆとりがあり、悪く言えば「ひま」な高校生活を送る事になりました。
 そんな中、負けず嫌いの私は、大学受験をしないからと言って、何となくバカにされたくない!同じくらいがんばって、何か達成感のあるものを見つけて邁進してやるぞ!と心に決めていました。それが英会話の専門学校に通う事と、論文コンテスト、弁論コンテストに出場する事だったのです。

 当時、私の学校の高校は、韓国のソウルにある私立の女子校「淑明女子高校」と縁があり、夏に1週間程度、10名ほどの留学生を受け入れていました。
 私が高校1年の夏(1974年7月)、我が家でも2名の高校生を受け入れました。ひとりはある繊維関係の財閥のお嬢さん、もう一人は日本で言う警視総監のお嬢さんでした。きっとソウルでも、お嬢さん学校、と呼ばれるような学校だったのでしょう。
 最後の日の夕食時、ソウルに新しく開業する「地下鉄」が話題になりました。今では、ソウルには7路線、8路線目が工事中で、縦横無尽に地下鉄が走っていると聞いています。あの年は、その第1号の路線の開通が近かったのでした。彼女達は誇らしげに話してくれました。
「ねえまどか、ソウルに地下鉄が開通するのよ。きっと日本みたいになるわ!」
「そう!ステキね。是非私が今度ソウルに行く時には乗りたいなあ。いつ開業なの?」
「開通は、8月15日よ!」
「まあ、8月15日?!終戦記念の日ね!」
 私達の会話は、双方の共通語である英語でしたが、8月15日、と聞いた私が、すかさず答えたその次の瞬間、急に彼女達の顔がこわばり、時間も空気も止まったように感じました。
 「まどか・・・8月15日という日はね、私達韓国人が、日本の統治から解放され独立をした、記念すべき日なのよ・・・」
 私は、全身から血が引いていくのがわかりました。何という不用意な言葉だった事か・・・
 その後、私は何をどのように食べたのか、今でも全く思い出せません。

 私は、その出来事にまつわる話しを題材にし、その年の秋、「国際理解協力のための高校生の論文コンテスト」とスピーチコンテストに応募しました。幸い、両方のコンテストで賞をいただいた私は、翌年の春、高校生の友好訪韓団のメンバーとして、1週間、韓国に派遣されることになりました。1975年、3月のことでした。
 下関から釜山までの関釜フェリーは、大荒れの玄界灘を行く大揺れの航海でした。どんな乗り物にも強く、酔わない私も、さすがに横になったままで、何をする事も出来ませんでした。しかし、夜に出向した船は、夜明け前には釜山沖に到着。夜が明けるまでフェリーは沖に停泊し、入港を待ちました。揺れから解放された私達メンバーは、静かなエンジン音を聞きながら、皆一様に、まさに隣国である事を実感した時間でした。

 訪韓団のメンバーは、全国からの高校生8名。同行の先生は2名。私達は出発前の5日間、春休みを利用し、毎日毎日、日本史、世界史の先生から、朝鮮半島の歴史、とりわけ近代史の補習を受けました。
 5日間の補習のうち3日は、大日本帝国当時の、36年間の侵略の歴史についての勉強に費やされました。その時学んだほとんどすべての内容は、教科書では「さらり」としか触れられていない事ばかりでした。36年の長きに渡り、朝鮮半島の人々が日本の侵略によってどんな生活を強いられたのか、戦後なぜ朝鮮半島が分断されたのか?どうして板門店や非武装地帯があるのか・・・5日間の補習は、多感でピュアだった16歳の心に、痛いほど浸透しました。

 私の韓国訪問は、本当に有意義なものでした。
あの頃、朝鮮戦争終結後20年たらず、まだまだ韓国は「戦後」だったのかもしれません。今、一つの知識として思えば、現在40歳~50歳になっている、あの当時、私と同年代だった高校生達が学校で受けていた抗日教育は徹底された強烈なものだったと思います。
 しかし、釜山で訪問した男子校の生徒さん達、ソウルの淑明高校の生徒さん達から私達が受けた歓迎は、そんな事を全く感じさせない、本当にあたたかい歓迎でした。私達メンバーは、それぞれに様々な思いを持って一瞬一瞬を大事にしていたと思います。

 確かに、慶州の仏教遺産はすばらしく、李朝の豊かな文化に思いを馳せました。
しかし、私の目に焼き付き、心に突き刺さった多くの事は、荘厳な仏教寺院でも色鮮やかな民族衣装でもありませんでした。
 板門店近くで、ぶつんと途切れた北への鉄道の線路、板門店の異様な空気、非武装地帯の果てしなく続く有刺鉄線。当時はまだソウルは戒厳令下にあり、夜の12時以降は外出禁止でした。  
 11時半頃まで賑わっていた町が、12時過ぎるとひとっこ一人いない静けさに包まれ、巡回する兵隊だけの靴音が響きます。朝は、朴大統領が首相官邸から出勤する時間には、道路に面した高層ホテルの部屋のカーテンは閉めなければなりませんでした。狙撃される事を避けるため、と聞きました。
 興味本位ではなかったものの、ほんの少しカーテンを開けて覗いたとたん、瞬時にそれに気づいた兵士が銃口を高く上げ、私達のほうに向けました。その時の兵士の鋭い視線は今でも忘れられません。
 私の韓国は、そういうものに象徴された、やっぱり両国の歴史の暗い部分が大きくクローズアップされた重い1週間でした。

 あれから30年、私は一度も韓国に行った事がありません。
飛行機でひとッ飛びの距離にありながらも、やはり私にとっては、気軽に行こう、と思える国ではありませんでした。心の中では誰よりも親韓家である自分を意識し、距離と同時に気持ちの中でも韓国はもっとも近い国です。しかし、何と言えばよいのでしょうか・・・ 春休みの補習を含めた、あの友好訪韓団での経験が、終戦後10年以上たってから生まれた私でありながら、朝鮮半島36年間の統治時代の責任を、なぜか私一人でかぶったような、そんな重さを感じていたとでも言うのでしょうか。
 とにかく、私は、あの訪韓以来、誰よりも隣国「韓国」を愛し、誰よりも過去の歴史の間違いを恥じ、深く懺悔する人間として、立派な大人になってから居ずまいを正して、正装する気持ちで、必ず韓国に戻らなければならない、そんなふうにこの30年間、感じてきたのでした。

 昨年の春、たまたまつけたNHKのBSで、韓国のドラマが放送されていました。それが「冬のソナタ」でした。普段は滅多にテレビドラマを見ない私ですが、当時主人はインドネシアのジャカルタにおり、土曜日の夜は、仕事を終えた私のほっとする時間だったのです。
 深夜のドラマの中の「韓国」は、私の知っている30年前の韓国とは、全く違ったところでした。毎週出てくるソウルのカフェや、レストラン、スキーリゾートのホテルなど、私が知っている昔とは、全く違った香りがしました。登場人物のイ・ミニョン(ペ・ヨンジュン)さんも、ユジン(チェ・ジュウ)さんも、カン・ミヒさんも、サンヒョクさんも、訪韓団のメンバーが小声で話す日本語を聞き、さっと顔色を変えた釜山や大邱で会った韓国の人とはまさに別人に見えました。
 この30年で日本がすっかり変わったように、きっと韓国も、ドラマの中で垣間見るような、西洋化した世界、暮らしになってきているのだろう・・・そう実感しました。
 もちろん、1988年のソウルオリンピックの時、すでにテレビの中の「違う韓国」を見てはいましたが、当時の私はまだまだ子育ての真っ最中。24時間体制で「母」としての暮らしをしていた私には、韓国も、アメリカも、ヨーロッパの国々も、すべてが遠い存在だったのです。
 しかし、子供達も成長し、あらためて「自分の世界」を持ち始めた今の私にとって、テレビの中に広がる「冬のソナタから見る韓国」の世界は、衝撃的でした。
 きっと、ちょうどタイミングがぴたりと合ったとでも言うのでしょうか。長い長い間、封印されていた私の心の中の「重い韓国」が、突然「冬のソナタ」というドラマが溶解剤になって、急に目の前に明るい陽射しと共に現れた!そんな気がしたのでした。

 この1年のすさまじい韓国ブーム。生意気な息子は、「韓流ブームは、日本の大手広告代理店が意図的に経済効果を狙って流行させたものに違いない」と言って笑います。
 両国の経済効果は900億円にものぼると何かの記事で読んだ気がします。韓国旅行ブーム、俳優さんのグッズ、雑誌、韓国映画やドラマのDVDやビデオ等、確かに、さもありなん、です。 
 娘が夏、バンクーバーの語学学校で机を並べた韓国人留学生は、「韓国ではやっぱり映画が一番。テレビドラマの俳優は二流なのよ。」と教えてくれたとか。むー、そういうものなのでしょうか。

 最近では、「政冷経熱」と言われる日中関係、韓流ブームにわく日韓関係、日本人の中でアジアが以前よりずっとクローズアップされている事は確かです。日頃、何となく暮らしていると、あまり「国」を意識せず、淡々と日々を送っていますが、実際には世界は毎日めまぐるしく動いています。
 現在では、決まり文句のように「国際人」「国際社会」という言葉が願書の中に登場します。しかし、単なる「言葉」としてではなく、私達一人一人が「日本人」である自分を意識し、アイデンティテイを大切にしながら、外国に目を向け、国際人として、グローバル化した社会の中で暮らすというのはどういう事でしょう?
 子供を育てる親として、21世紀を生きるわが子達に、何を求め、何を身につけさせるべく、何を与えてやれば良いのでしょう?そもそも、私達が今、安易に使う「国際人」という言葉の本当の意味は、どういう意味なのでしょう?私はときどき、考えてしまいます。外国語を流暢に話す事?頻繁に海外旅行をする事?多くの外国文化を取り入れて暮らす事?・・・

 私は韓国を訪問した2年後、友好訪中団の一員として1ヶ月、中国を訪れました。
 今はライトアップされたビル群の中に広がる上海繁栄の象徴のような黄浦公園ですが、私が訪中した当時は、夜ともなれば真っ暗で、外国人向けのデパート「友誼商店」の明かりだけがぽつんと見える広い公園でした。
 人々はみな人民服で、珍しい外国人が歩く外には人だかりが出来て、外国人が歩くたびに、その人だかりも一緒に動きました。そんな頃の事をしみじみと思い出しながら、現在の上海の映像を見るたびに、劇的な発展を肌で感じています。
  
 あまりの過熱ぶりに、同じ年代の女性として、少々目を背けたくなる韓国ブームではありますが、私にとっても「全く違った意味で」ではありましたが、韓国のドラマは私に新しい何かを与えてくれたようです。
 30年前のように、侵略国である日本人を意識し、目を伏せて韓国を考えるのではなく、一生懸命に日々を生きる日本の中年のおばさんとして、正しい事実としての両国の歴史をしっかりと理解した一人の女性として、お隣の国「韓国」をこれからも愛していきたい、そう思えるようになりました。

 多感な10代に、強烈に暗く重い歴史を背負ってしまっていた日本人高校生。自分の知らないもう1代も2代も上の世代の人が犯した過ちを、自分の事として受け止め、身動きとれなくなってしまった高校生。
 その高校生が、今は2人の子供の母親となりました。そして今私はあらためて、「暗い歴史の事実」を何とか乗り越え、明るい両国の関係をつくる一つの歯車になりたい!真剣にそう考えています。
 
 今、私の2人の子供は、まさに私が韓国や中国を親善旅行で訪れた年令になっています。残念ながら、私が経験したような民間の親善大使的な訪問のチャンスは彼らにはありませんが、やはり私は2人に、しっかりと五感で様々な事を感じ、何事も真剣に考えてもらいたいと願っています。

 10年前、彼らがまだまだ幼かった頃、インドネシアに単身赴任していた主人のもとを、何度も母子で訪れました。裸足で歩く子供達、生活費を稼ぐために働く子供達、そんな自分達と同年代の子供達の姿を目にしたわが子は、稚拙ではありますが、一生懸命に自分の感じた事を話してくれていた事をよく覚えています。
 
 今年の「韓流ブーム」は、本当に多くの事を考えさせてくれる良いチャンスの1年でした。さあ、このブームはいつまで続くのでしょうか。ブームが去った時、また何事もなかったかのように、すべての事が忘れ去られてしまう事を私は今から恐れています。
 ブームはブームで良いでしょう。しかし、本当に私達が狭くなった世界の中で生きる一日本人として、「世界」を意識しながら生きていくのであれば、どんな事をも多面的に見る目と、深く広く物事を知ろうとする意識は持つべきでしょう。そして、人の親であればなおさらの事・・・

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写真の中の子ども達

2007年11月24日 | めそめそ
 私の夫は、現在、留学関係の仕事をしていますが、それまでは約30年間、石炭の仕事に携わっていました。
 大学では、理工学部で資源工学を専攻していた夫は、卒業後すぐに北海道の炭鉱に配属され、3年間は3交替での炭鉱勤務でした
 その後は東京本社に戻り、主に海外の石炭の開発や輸入の仕事をしていたのですが、それでもやはり、3年間の炭鉱での構内労働の経験は夫の忘れがたい体験で、未だに当時の話をする時には、涙なし・・・だったことはありません
 そんな夫の留学業への転身振りはかなり奇異でおもしろいらしく、ときどき取材などもあり、つい最近は、東京MXテレビという放送局からごコンタクトがあったとか

 長年、大地を相手に仕事をしていた夫は、地味な仕事には慣れていますが、そういう華やかな世界には慣れていず、お引き受けするにはかなりの覚悟がいったらしく、考え込んでいました
 やっと覚悟を決めた夫に、ディレクターから依頼されたのが「炭鉱で勤務している頃の『いかにも構内労働者』という写真を2,3枚見せてください。」ということでした
 いかにも構内労働者・・・要するに、真っ黒になって、ヘルメットにキャップランプをつけ、まさに石炭を掘る仕事をしている時の写真、ですよね。

 それからは大変です 家の押入やキャビネットの天袋など、ひっくり返して昔の写真探し。
 出てくるわ、出てくるわ・・・ 懐かしい写真の数々 今の息子と同じ年だった頃の夫の写真を見て・・・まるで昨日の事のように語る主人の当時の話が、あらためて「いにしえの話」であることを実感しました

 しかし、肝心の「炭鉱夫姿」の夫の写真は見つからないのです・・・ そもそも、夫曰く、「当時、あまりに当たり前だった毎日のそういう姿は、わざわざ特別でも何でもないから、写真に納めることなんて考えもしなかった」ということでした。
 そう言われれば、炭鉱に3年間もいれば、最初の1ヶ月くらいは不似合い?だったであろう姿も、きっとそのうちに身に付き、極々平常の日々の姿、だったでしょう

 夫は結局、それの類の写真を数枚見つけ出し、その後は、夫と二人で、我が子2人の幼い頃の写真を眺めました
 その時間は、それほど長い時間ではなかったのですが、夫も私も、出てくる息子と娘の写真を見るたびに・・・
 「見て見て、ほら、こんなにかわいい!」とか。
 「きゃー、こんなに小さかったのねえ・・・」とか。
我が子を自画自賛しながら、夫は静かに写真に見入り、私は一枚一枚見るたびに、うるうるとしていました
 
 それにしても・・・なぜ、私はうるうるとしたのでしょうか?
二人のわが子は、決して理想的な息子、娘ではなく、むしろ、毎日、どこか彼らのことが気に入らず、腹を立てたり、一人で文句を言ったりしています
 しかし、かと言って、やはり我が子はかわいく、十二分にそれぞれの問題点は理解していながらも、敢えてけなしたりすることもなく、極々自然に彼らと暮らしているわけです ならば、どうして主人も寡黙になり、私はハラハラと涙が出てきたのでしょうね・・・

 幼い頃の子ども達は、みな、一生懸命に生きています
「早くしなさい!」と、いつもいつも急かす親の理不尽な言葉にも文句を言うことなく・・・
 子どもが外から帰宅したら、彼らがほっとする間もなく、「ちゃんと手は洗ったの?帰ってきたら、手を洗う約束でしょ」と母親にガンガン言われ・・・
 子どもが何かに目を奪われ、その様子にじっと見入っていると、「何ぼーっとしてんの」と叱られ・・・
 それでも子ども達は、自分の世界の中で、一生懸命に生きています 思えば、何と健気なことでしょう

 写真の中の幼い息子、幼い娘
私に抱っこされて、眠そうな顔で微笑む息子、缶ジュースを手に持って、満面の笑顔でカメラのほうに顔を向けている娘。
 二人は、あの頃、親にあれこれと文句を言われ、10コ叱られて、1コ誉めてもらう、というような生活をしていたように思います そのたびに、「はい・・・はい・・・」と素直に返事をし、時には、「声が小さくて、お返事が聞こえません!」などと畳みかけられてもいましたねえ・・・
 親とは、本当にひどい生き物ですねえ

 まさに今、そんな「健気な子ども」を育てている真っ最中のみなさん・・・
いかに彼らが、真面目に、一生懸命に毎日を過ごしているかを、あらためて考えてみてください
 「だんだん言うことを聞かなくなってきました!」などと怖い顔でおっしゃいますが、でも、本当はまだまだ素直なうち、に違いありません
 
 写真の中で、笑顔で無邪気にでおどける我が家の兄妹の姿・・もう絶対に戻ってこない姿であり、二度と見ることのできない姿です。
 あの頃の無邪気さ、屈託のなさ、天真爛漫な姿・・・それらは、もう大人になった彼らにはありません
 なぜなら、彼らは自分の世界の中で、大人と何ら違いなく、親の知らない敵?!と戦い、様々な経験をし、傷つき、学んでいる・・・
 だからこそ、昔のように、いつもいつも無邪気ではいられない、屈託なく笑顔でいられない、天真爛漫ではいれない・・・

 いずれ子ども達は、親の手の届かないところで生きるようになります パパ、パパ、ママ、ママ!と言っている時期は、それほど長くはありません
 お子様との「今」を、どうぞ大切になさってくださいね

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リアちゃんの退院

2007年06月21日 | めそめそ
 今年、大学2年の娘・・・ 
数日まえ「ねえ、ママ。リアちゃん、入院させて」と言ってリビングに入ってきました。手には2匹のくまのぬいぐるみ ベージュのほうがファミちゃん 白いほうが(実際には、グレーになっているのですが)リアちゃんです

 娘が生まれた時、私の母の友人が、お祝いに来てくださる時の手みやげに、この2匹のぬいぐるみを、長男である私の息子のために持ってきてくださったのです
 ぬいぐるみ好きだった当時3歳になりたての息子は大層喜び 大事に抱っこしていました。
 しかし、チラリとすやすや眠る妹を見て・・・女の子のほうのリアちゃんは、やっぱり妹にあげようと、ベビーベッドで寝ている娘の横に寝かせ・・・
 その日から、ファミちゃんは息子の、リアちゃんは娘の大親友になりました
 さすがに、小学校に入ってしばらくして、息子は断腸の思い?!で、ファミちゃんを娘に委ね、ファミちゃんとリアちゃんは、揃って娘のベッドで寝るようになったのです

 この19年の間に・・・ファミちゃんとリアちゃんは、何度も「ママの病院」に入院し、手術をしてきました
 主人のインドネシア赴任中も、幼稚園児の娘は、必ずリアちゃんを伴って訪イしていましたので、リアちゃんはバリのビーチも、世界遺産のボロブドゥールも知っている国際派
 しかし、19歳のリアちゃんは、あちこち、生地が切れたり、薄くなったり、穴があいたり・・・ そのつど、娘はドクター・ママに大事な大事なリアちゃんを委ねてきたのです
 今では、かなりの部分がアップリケ状にフェルトで補強され、丁寧に洗ってきましたが、やはりもとの白さには戻りません

 私は、大きな手芸店に出向き、いろんなものを見て回り、ファミちゃん、リアちゃんの手術に最も適したものを選び、今回も深夜の3時間の手術を施し、めでたく退院させたのでした

 娘が、大口をたたいて大学に登校した後、私は窓を開けたり、ちょっとしたものを娘の部屋に届けたりするために、彼女の部屋に入ります。
 すると、必ず、ファミちゃんとリアちゃんは、彼女のまくらの上に寄り添って並び、きちんと寝かせてもらっています 時には、まくらの上にちょこんと並んで座っていることもあり・・・
 生意気な口をきき、不機嫌な様子で出かけていく娘の様子を思い出し、あの彼女が、どんな顔をして、どんな様子で、ファミちゃんとリアちゃんを寝かせたり、座らせたりして部屋を出て行くのか・・・と、ちょっと心が和みます

 先日、あまりにボロボロになった2匹のお洋服の替えはないかと、渋谷のデパートのおもちゃ売り場に、何か良い案はないか、と探しにいきました。
 というのも、10年ほど前までは、2匹のお洋服は、ちゃんとそのメーカーから数種類販売されていて、昔は、彼らはいろいろとお洋服を着せ替えてもらっていたのでした
 しかし、メーカーに事情を話し、全国の店舗に在庫は残っていないかと探してもらったのですが、それも叶わず・・・
 今回は苦肉の策で、そのメーカーの乳児用の下着にアップリケなどを使って手を加え、退院と同時に、新しいお洋服に着替えさせました

 先日、そのデパートのおもちゃ売り場、子ども服売り場で、じっくりとお話しをする機会に恵まれました。
 私が探しているもの、その事情などを説明すると、あちこちの売り場の方が親身に、いろいろなものを探してくださったのでした。
 そして、ベテランの売り場の方がしみじみと語られたこと・・・

「最近は、知育玩具的要素のあるお人形しか、あまり売れないのですよ。むしろ、ぬいぐるみは小さい子どものものではなくなり、もっと大人に近い女性の『カ~ワイイ~』という対象になって・・・でも、きっと、抱っこしたり、ねんねさせたりというような、昔のようなかわいがられ方はしていないでしょうね 
 ここのところ、人形としての売れ筋は、お人形が声を出して数を数えたり、日にちを言ったりするような、そういう系統のおしゃべりをするものなんです 着替えも、単純に着せ替え人形としての意味ではなく、ボタンをはずす、止める、スナップを止める・・・みたいに、将来、幼稚園受験に役立つようなものを探すお母様達が増えまして・・・ 上手くは言えませんが、私は長年おもちゃ売り場にいて、時代の流れを感じています そして、どこかで、カサカサとした空気しか流れなくなったおもちゃ売り場を、とても寂しく感じているんです・・・」

 話しの成り行きから、私が自分の仕事を話したので、この方は、日頃はお客様には語られないようなご自分の思いを、敢えて語ってくださったのだと思いました

 日にちを話すお人形、数を数えるお人形ですか・・・
今日が何日なのか?確かに、二度と来ない「今日」ですから、知らないで過ごすよりも、今日一日を大切に過ごす、という意味でも、知っているほうが良いに決まっています
 数も、人が生きていく上では、とても大切な分野です。日頃の生活の中で、自然に身に付けばすばらしいですね

 でも・・・やっぱり私も、このベテランの店員さんと同様、ちょっと心寂しいものを感じずにはいられませんでした

 小さなものを愛しむ心・・・それは、お人形遊びからのみ、培われるもの、育つものではありません。
 小さな花、小さな虫、生き物、そういう小さなものすべてと関わることから、育っていく心でしょう
 しかし、やはり昔は、特に女の子の場合は、「もの話さぬ人形」を相手に、時には母として、時には姉として、いろいろなことを語り、世話をすることで、育ったいった部分も多いはず
 また、父親や母親に叱られた時、お人形を相手に自分の悲しい思い、理不尽に叱られた?腹立たしさを話し、人形に癒されたことも多かった・・・

 そんな、子どもと人形、子どもとぬいぐるみとの「優しい時間」を、もっと子どもにとっての心育つ豊かな時間として、理解してもらえたら・・・と、悲しいほど感じました

 きっと、ママ達にも、そんな時間があったはず・・・ではありませんか?

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サクマドロップスは悲しく・・・

2006年08月24日 | めそめそ
 8月もあとわずか。残暑は厳しいものの、日が暮れると、ほんのちょっぴりですが、秋の気配を感じますね・・・ さすがに、花火や海水浴のカットのあるメモは、もう使えないな・・・と思う時期に入りました

 さて、先日、私はどんな残酷でショッキングなことでも、時には親として、子供達にきちんと伝え、教える義務がある、というようなことを書きました
 特に戦争に関しては、風化するに任せるのではなく、どんな方法でもよいから、歴史上の事実として、加害者の立場になったことも、被害者の立場になったことも、双方をきちんと伝えるべき・・・私はそう考えています

 そういう考えに基づき、私は我が子が幼稚園の年中になった頃から、努めて多くのことを意識的に話し、教えてきました 理解度は定かではありませんが、少なくとも「知らない、は罪」という思いと、「感性に響いてほしい」という思いからの親心?!でした

 当時主人は、仕事の関係で、インドネシアのジャカルタに3年間の単身赴任中でした。
 インドネシアは、第2次世界大戦当時は、日本に併合されていた国の一つです ただ、日本の統治時代の前は、「東インド」として、長い長いオランダの統治下にあり、日本の敗戦をきっかけとして、悲願のインドネシア独立に至った経緯があったため、中国や韓国ほど、日本の侵略時代に対しての強い反発は残ってはいませんでした。
 それでもなお、地方に旅行に行くと、そこで出会う年配者などは「君が代」が歌えたり、「ハンチョウドノニ ケイレイ」などという言葉を覚えている人がいたり・・・ そういう事実にたいしては子供達は幼いながらも、少し居心地の悪い、複雑な感情を持っていたようでした

 特に、インドネシアが独立宣言をした8月17日は、日本の敗戦2日後のこと。夏休みを利用して、主人のジャカルタの家に滞在する時にはいつも、この8月17日の独立記念日がやってきて、イヤでも日本との関係を知ることになります

 そんなこんな、主人と私は、努めていろいろと教えてきたのですが、皮肉なことに、幼い彼らの感性に、一番訴えることになったのは、私達が意図して与えたものではなく、たまたま彼らがテレビで見ることになったアニメーション映画「火垂るの墓(ほたるのはか)」でした
 みなさんは、「火垂るの墓」をご存知でしょうか?1988年のスタジオジブリの作品です。
 原作者の野坂昭如氏は、昨年、日本テレビでドラマ化されるにあたり書かれた文章の中で、「あれは確かに自分の経験を書いたものだけれども、原作はすでに自分を離れて一人歩きし、実際には自分は、あの兄ほど優しくはなかった」とあります

 しかし、原作云々ではなく、あのスタジオジブリ特有の、優しいタッチで描かれた人々の容姿や表情であるにもかかわらず、1シーン1シーンは強烈なエネルギーを発し、「戦争はいやだ」という強い拒絶反応だけが沸々とわき上がってくる・・・挿入歌である「はにゅうの宿」も何とももの悲しく、大人の私も、ティッシュの箱を抱えて嗚咽しました

 劇中に大切な意味を持って登場するサクマドロップスの缶・・・
私は子供の頃、あのサクマドロップスが大好きで、母が取り出してくれる一粒一粒を、とっても大切に食べたものです
 金属のふたを開けて、コロコロっと母の手のひらに出てくるきれいな色のドロップ・・・ 
 その時に出てきた色が、「食べる色」であり、替えっこすることは許されません。一度手のひらに乗せられたものは湿気を含んでしまうから、再び缶に戻してはいけない、必ず出てきたものを食べましょうね、それがおたのしみよ というのが母との約束でした。
 たった一つの例外は、真っ白の「ハッカ」が出てきた時でした。
からくて喉にヒリヒリするから、という理由で、ハッカが出た時にはさっと母が口に入れてしまい、「はい、もう1回」と言って私に缶を振らせてくれます。
 でも、缶を振るときも、そっとそっと なんですね、ドロップスが砕けてしまうから・・・

 そんな私の母とのあたたかい記憶から、私も我が子達に、当時すでにレトロ化していたサクマドロップスの缶から、よくドロップを同じようにして与えていたのでした
 しかし、劇中のサクマドロップスの缶は、そんなあたたかい記憶を木っ端微塵にし、それ以降は、全く別のイメージを与えるものになりました

 映像や音、感覚から、子供に与える影響には、計り知れないものがあります
 少なくとも、感覚的に物事を捉えるのを得意とする幼児期に、「火垂るの墓」が我が子達に与えた印象は、筆舌に尽くしがたいものがあったようです
 すっかり大きくなり、その後たくさんの知識も会得し、それらを素にまがりなりにも持論を展開できるようになってからも、彼らは「火垂るの墓」と聞くだけで、戦争とは無意味なもの、悲惨でばかげたもの、ということを「感覚」として蘇らせ、「火垂るの墓だけは、もう勘弁して欲しい・・・」と言います
 
 あれ以降、彼らは小学校で「ガラスのうさぎ」を始め、多くの戦争を伝える本や映像などを目にしていますが、「火垂るの墓」を越えるインパクトのあるものには出会っていないようです
 何の前触れもなく、楽しいアニメを観るつもりで、兄妹揃ってテレビの前に座った彼らに与えたあまりに強い「痛いほどの悲しい衝撃」に、親として、やっぱりかわいそうなことをしたのかな?と、あれから10数年の時が過ぎた今でも、胸が痛みます
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