石油と中東

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(再録)現代中東の王家シリーズ:サウジアラビア・サウド家(6)

2019-01-05 | 中東諸国の動向

 

初出:2007.7.11

再録:2019.1.5

 

(6) アブドルアジズの息子達に受け継がれる王位

 1953年にアブドルアジズが亡くなると、第二代国王に即位したのは、彼の次男サウド王子であった。アブドルアジズの長男トルキ王子は夭逝したため、サウド王子は実質的な嗣子であり順当な王位継承であった。彼以降現在のアブダッラー第六代国王に至るまでの5人の国王はいずれもアブドルアジズの息子達である。但し彼らは全て母親が異なる異母兄弟なのである[1]

 第二代から第六代までの国王とその母親の出身部族を列挙すると、第二代サウド国王の母親はバニ・ハーリド族出身、第三代ファイサル国王の母親はアル・シェイク族出身、第四代ハーリド国王の母親はジャラウィ家出身、第五代ファハド前国王の母親はスデイリ家出身である。そして現在のアブダッラー第六代国王の母親はシャンマリ族出身である(サウド家系図「アブドルアジズ初代国王の王妃とその子息達」参照)。バニ・ハーリド族、アル・シェイク族及びシャンマリ族はいずれもアラビア半島の有力部族であり、またスデイリ家はサウド家と密接な関係を有する一族である。そしてハーリド国王の母親の実家ジャラウィ家は、第一回「サウド家のはじまり」でも触れたが、サウド家を支えるいわゆる「五摂家」の一つである。

 各国王の在位年数とその治世中の主な出来事を概観すると、まずサウド第二代国王(在位1953年~1964年)は、父アブドルアジズ初代国王が敷いた路線を踏襲し、教育省、商業省など行政組織の拡充を図り国内政治の基礎固めを行った。対外的には1956年にスエズ運河国有化問題に端を発して第二次中東戦争が勃発したが、彼は米国と協力して停戦に導いている。また1959年には国際石油会社が原油の公示価格を一方的に引き下げたため国家歳入が危機に瀕したが、彼は他の産油国に呼びかけてOPEC(石油輸出国機構)を結成して国際石油会社に対抗した。彼は生涯に生んだ王子と王女の総数が110人といわれるエピソードに象徴されるように、放恣な性格と浪費癖により国家財政を破綻に導いたため、1964年に一族の長老会議で退位に追い込まれた。

 サウドに次いで三男ファイサルが第三代国王に即位した(在位1964年~1975年)。ファイサル国王は英明君主の呼び声が高く、第一次五カ年計画を制定して国内経済の発展に努めた。五カ年計画は現在も継続され、国家発展の基本計画とされている。しかし何と言っても彼の名前を世界に知らしめたのは1973年の第四次中東戦争に際して彼がイスラエルとその支援国に対して石油の禁輸措置を発動したことである。これが有名な「第一次オイルショック」であり、石油を武器とするこの戦略は日本を始めとする石油消費国を震撼させた。

 

そしてこれ以後産油国は巨額の石油収入を手にしオイル・ブームの時代を迎えたのである。ファイサル国王は国内改革にも熱心で女子教育の普及に力を注ぎ、またテレビも導入した。当時宗教界の長老はイスラームの偶像崇拝禁止に反するものとしてテレビや映画などの近代文明に反対していたが、ファイサル国王は彼らを説得してテレビ放送を開始したのである。しかし彼は急速な近代化に反対するサウド家王族の一員によって1975年に暗殺され、悲運の名君と呼ばれたのである。

 ファイサル暗殺の後をうけて5男のハーリドが第四代国王(在位1975~82年)になった。ハーリド国王の時代は第二次オイルショック(1979年)後の油価の上昇と国営石油会社アラムコの完全国有化によりサウジアラビアの石油収入が急増した時代でもあった。一方、イラン革命とそれに続くイラン・イラク戦争により地域の安定が脅かされたため、他の湾岸各国に呼びかけて湾岸協力機構(GCC)を結成した(1981年)。

  1982年病弱であったハーリドが亡くなると、皇太子のファハドが第五代国王に即位した(在位1982~2005年)。ファハドはハッサ王妃を母親とする7人兄弟の長男として1923年に生まれた(生年については異説もある)。彼ら7人兄弟はファハドを含め次男のスルタンが国防相(現皇太子)[2]に、5男ナイフ[3]が内相になるなど政府の要職を占め、母親のハッサ王妃がスデイリ家出身であることから「スデイリ・セブン」と称されている。ファハド国王は1986年に従来の「陛下」の称号に変えて「二大聖都の守護者(Custodian of Two Holy Mosques)」を名乗ると発表した。二大聖都とはイスラームの三大聖地の中のマッカとマディーナのことであるが(もう一つの聖都はエルサレム)、この称号は世俗君主であるサウド家の支配体制に宗教的権威付けを行ったものと解釈される。彼は豊かなオイル・マネーと強い指導力を駆使して道路、空港など国内のインフラ整備を行った。島国バハレーンとアラビア半島を繋ぐ海上橋「キング・ファハド・コーズウェー」を建設したことなどはその一例である。外交面では1990年にイラクのフセイン大統領(当時)がクウェイトに侵攻し、翌年には湾岸戦争が発生した。このときファハド国王はクウェイトのサバーハ首長家を庇護し亡命政権を支えた。

その後彼は病気のため執務不能となり、1995年以降は皇太子のアブダッラー(現国王)が実質的に国政を司った。ファハド国王は2005年に亡くなり、アブダッラーが第六代国王に即位、皇太子にはファハドの弟スルタン国防相が指名されて現在に至っている[4]

このように第二代から第六代の国王はいずれもアブドルアジズ初代国王の息子達である。その結果、各国王の即位時の年齢はサウド(第二代)こそ51歳であったが、それ以降はファイサル58歳、ハーリド62歳、ファハド69歳と代を追う毎に高齢化している。そしてアブダッラー現国王に至っては即位時に既に81歳であり、スルタン皇太子も今年79歳と言われている。サウド家にとって後継者の若返り問題が大きな課題なのである。

(続く)

 

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荒葉一也

Arehakazuya1@gmail.com

 

(再録注記)



[1] 第六代アブダッラー国王は2015年に死去し、現在はサルマンが第七代国王。サルマン現国王も初代アブドルアジズ国王の子息であるが、母親は第五代ファハド国王と同じハッサ・スデイリ妃である。

[2] スルタンは皇太子在位中の2011年に死去。

[3] ナイフは実兄スルタンの後を継ぎ皇太子に即位したが2012年に死去。

[4] 2005年のアブダッラー国王即位に伴いスルタンが皇太子となったが、上述の通りスルタンは2011年に死去、さらにスルタンの後を継いだナイフもアブダッラー国王治世中に死去したため、サルマンが皇太子となり、2015年のアブダッラー死去に伴い第七代国王に即位し、現在に至っている。

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