ホワイトハウスが最近、オバマ大統領が現職の米大統領として初めて広島を訪問すると発表したことは、オバマ大統領がそこで何を言うべきか、言わざるべきかをめぐる激しい議論を政治家や学者らの間で巻き起こしました。オバマ大統領の顧問らは、1945年8月に広島で核兵器を使用するとした決定の是非について大統領が「立ち返ることはない」と強く主張しました。
しかし、この論争は、あまりにも狭い歴史的な問題にのみ焦点を合わせています。それよりも、われわれは今日、同じような状況下で米国がまた核兵器を使うかどうかを問うべきかもしれません。われわれが独自に行った調査では、米国民がその可能性に対して驚くほど抵抗感を持っていないということがわかりました。
米国が広島と長崎に原爆を落とし、日本が降伏した直後、米国民は原爆を使用するというハリー・トルーマン大統領の決断を強く支持しました。1945年9月に米世論調査機関のローパーが全国規模で実施した世論調査では、回答者の53%が「実際の判断と同様、2つの都市で2つの原爆を使用すべきだった」という項目に同意しました。約14%の考えは「日本にその威力を示すために、人の住んでいない地域にまず1発の原爆を落とすべきだった」というもの。「米国は1発の原爆も使用すべきではなかった」と感じていたのはわずか4%だったのです。そして回答者の23%は「日本が降伏する前に米国はもっと多くの原爆を急いで使用すべきだった」に合意していました。
第2次世界大戦集結後の数十年で、トルーマン大統領の核兵器を使うという決断に対する米国民の支持は大幅に低下しました。原爆投下から70周年を迎える直前の2015年7月、われわれは英世論調査会社ユーガブ(YouGov)に依頼し、1945年のローパーの調査を米国民840人の代表サンプルで再現してもらいました。
その調査で、広島と長崎への原爆投下は正しい選択だったという考えに合意したのは回答者のわずか28%、核兵器での威嚇攻撃を支持したのは32%でした。米国は日本に1発の原爆も投下すべきではなかったと考える米国人は今や3倍以上――1945年には4%だったが、2015年には15%近くに達しました――となっています。そして、日本が降伏する前に米国が「より多くの」原爆を投下しなかったことを残念に思っている回答者はわずか3%でした。
多くの識者たちはこうした数値について、戦後の米国民には核兵器使用に対する根強い反感があるという証だと指摘しています。ハーバード大学の心理学者、スティーブン・ピンカー教授は2011年の著書邦訳:『暴力の人類史』」で「核のタブー」について書いています。同教授は第2次世界大戦後、「核兵器の破壊力は歴史上のいかなる兵器とも程度を異にするということが理解され始めた」と主張しています。より最近では、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)のコラムニスト、ペギー・ヌーナン氏は、1946年に被爆の惨状を伝えたジョン・ハーシーの著書「ヒロシマ」が「将来の核兵器の使用を不可能にした」「強力な道義上のタブー」を単独で作り上げたと書いています。このタブーは1949年に締結されたジュネーブ条約に記された原理――戦時中でも民間人への意図的な攻撃は禁止する――の実施を目指す国際的な取り組みによって強化されたと主張する人々もいます。
ところが、原爆投下を振り返った世論調査では、米国民がそうした兵器の使用に反対の立場に回ったのか、それとも今や同盟国となった戦時中の敵国、日本に対する考え方が変わっただけなのかがよくわかりません。核兵器使用に対する現在のタブーの度合いを評価することもできません。従来の世論調査は、トルーマン大統領が1945年に直面していたようなトレードオフの熟考を米国民に迫っていない――それは、敵国の都市で核兵器を使用して多くの民間人犠牲者を出すか、それとも数千の米兵が戦死することを意味する総力を挙げての上陸作戦を開始するかというものでした。
米国民が今日、そうした選択肢にどのような反応を示すのかを探るために、われわれは昨年7月、真珠湾攻撃と似た感情を引き起こす21世紀のシナリオについて、米国民620人の代表サンプルを対象とした調査をユーガブに依頼しました。米国が1945年8月に直面していたジレンマを再現するため、参加者はある架空の新聞記事を読みまし。それによると、イラン政府による2015年の核合意違反が明らかになり、米国がイランに厳しい制裁を科したところ、これに激怒したイランはペルシャ湾に配備されていた米空母を攻撃、米軍関係者2403人(1941年の真珠湾攻撃の犠牲者数と同じ)が犠牲になったというものです。
米国議会はイランに対して宣戦布告し、米大統領はイランの指導部に「無条件降伏」の受け入れを迫ります。米軍の司令官たちは大統領に次の2つの選択肢を与えました。テヘランに侵攻し、イラン政府を降伏させるために上陸作戦を開始するか(2万人の米兵の戦死が見込まれる)、またはテヘランに近い大都市に1発の原爆を投下し、(広島の原爆投下直後の犠牲者数と同じ)推定10万人の民間人を殺害することで衝撃を与え、イランを無条件降伏に追い込むか。世論調査の参加者には、イランがまだ核兵器を保有していないという前提が伝えられていました。
その結果は驚くべきものでした。われわれが想定したシナリオでは、回答者の59%がイランの一都市での核兵器の使用を支持したのです。そうした攻撃を支持する可能性は共和党員の方がずっと高く、81%以上が核兵器使用に合意しました。だが民主党員の47%も核攻撃を支持したのです。見込まれるイランの民間人犠牲者数を20倍の200万人に増やしても、回答者の59%――核兵器による犠牲者数が20分の1のときと同じ割合――が依然として原爆投下を支持したのです。
トルーマン大統領の選択肢にさらに近づけるために、われわれは回答者にイランの最高指導者ハメネイ師が政治権力のない精神的象徴としての指導者にとどまるのを許可することで戦争を終わらせるという選択肢を回答者に与えた第2弾の調査も行いました。日本国の象徴として昭和天皇の地位の維持を許可することで、無条件降伏という連合国の要求の緩和に取り組んでいたトルーマン大統領とその顧問たちが直面していた選択肢を模倣する狙いがありました。回答者の約41%が原爆投下やテヘラン侵攻よりもこの外交的選択肢を好みました。しかし、それとほぼ同じ割合(40%)がそうした交渉による和平を受け入れるよりも、イランで10万人の民間人犠牲者を出すことになる原爆投下を依然として選んだのです。
こうした核兵器使用に積極的な姿勢は、現在のその他の敵国についても言えるようです。われわれが以前に実施し、2013年に米政治学誌「アメリカン・ポリティカル・サイエンス・レビュー」で発表した調査では、通常兵器でも同様の効果があると聞かされた場合でも、回答者の19%が、アルカイダの標的に対する核攻撃を選びました。この数値は、1945年により多くの原爆を日本に落とすべきだったとする米国人の割合約23%に近いのです。つまり、最大の敵と相対するとき、米国民のかなりの割合が、米国の最も破壊的な兵器に対して嫌悪感を抱くのではなく、魅力を感じるのです。
米国は原爆を再び投下するのだろうか。将来の大統領やその顧問たちが核兵器を使用するという選択肢をどのように考えるのか、われわれの調査からは判断できません。しかし、その調査により米国民の本能の中にある不安要素が明らかになりました。敵国から挑発されたとき、われわれは核兵器の使用をタブーと考えなくなるようで、戦時中の意図的な攻撃の対象から民間人を除くことに対する米国の誓約は、たとえ大量の犠牲者が出る場合でもあまりあてにならないのです。1945年当時と同様に今日でも、戦争の厳しい局面で核兵器の使用を検討する大統領に対し、米国民が引き止め役になる可能性は低いでしょう。(ソースWSJ)
しかし、この論争は、あまりにも狭い歴史的な問題にのみ焦点を合わせています。それよりも、われわれは今日、同じような状況下で米国がまた核兵器を使うかどうかを問うべきかもしれません。われわれが独自に行った調査では、米国民がその可能性に対して驚くほど抵抗感を持っていないということがわかりました。
米国が広島と長崎に原爆を落とし、日本が降伏した直後、米国民は原爆を使用するというハリー・トルーマン大統領の決断を強く支持しました。1945年9月に米世論調査機関のローパーが全国規模で実施した世論調査では、回答者の53%が「実際の判断と同様、2つの都市で2つの原爆を使用すべきだった」という項目に同意しました。約14%の考えは「日本にその威力を示すために、人の住んでいない地域にまず1発の原爆を落とすべきだった」というもの。「米国は1発の原爆も使用すべきではなかった」と感じていたのはわずか4%だったのです。そして回答者の23%は「日本が降伏する前に米国はもっと多くの原爆を急いで使用すべきだった」に合意していました。
第2次世界大戦集結後の数十年で、トルーマン大統領の核兵器を使うという決断に対する米国民の支持は大幅に低下しました。原爆投下から70周年を迎える直前の2015年7月、われわれは英世論調査会社ユーガブ(YouGov)に依頼し、1945年のローパーの調査を米国民840人の代表サンプルで再現してもらいました。
その調査で、広島と長崎への原爆投下は正しい選択だったという考えに合意したのは回答者のわずか28%、核兵器での威嚇攻撃を支持したのは32%でした。米国は日本に1発の原爆も投下すべきではなかったと考える米国人は今や3倍以上――1945年には4%だったが、2015年には15%近くに達しました――となっています。そして、日本が降伏する前に米国が「より多くの」原爆を投下しなかったことを残念に思っている回答者はわずか3%でした。
多くの識者たちはこうした数値について、戦後の米国民には核兵器使用に対する根強い反感があるという証だと指摘しています。ハーバード大学の心理学者、スティーブン・ピンカー教授は2011年の著書邦訳:『暴力の人類史』」で「核のタブー」について書いています。同教授は第2次世界大戦後、「核兵器の破壊力は歴史上のいかなる兵器とも程度を異にするということが理解され始めた」と主張しています。より最近では、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)のコラムニスト、ペギー・ヌーナン氏は、1946年に被爆の惨状を伝えたジョン・ハーシーの著書「ヒロシマ」が「将来の核兵器の使用を不可能にした」「強力な道義上のタブー」を単独で作り上げたと書いています。このタブーは1949年に締結されたジュネーブ条約に記された原理――戦時中でも民間人への意図的な攻撃は禁止する――の実施を目指す国際的な取り組みによって強化されたと主張する人々もいます。
ところが、原爆投下を振り返った世論調査では、米国民がそうした兵器の使用に反対の立場に回ったのか、それとも今や同盟国となった戦時中の敵国、日本に対する考え方が変わっただけなのかがよくわかりません。核兵器使用に対する現在のタブーの度合いを評価することもできません。従来の世論調査は、トルーマン大統領が1945年に直面していたようなトレードオフの熟考を米国民に迫っていない――それは、敵国の都市で核兵器を使用して多くの民間人犠牲者を出すか、それとも数千の米兵が戦死することを意味する総力を挙げての上陸作戦を開始するかというものでした。
米国民が今日、そうした選択肢にどのような反応を示すのかを探るために、われわれは昨年7月、真珠湾攻撃と似た感情を引き起こす21世紀のシナリオについて、米国民620人の代表サンプルを対象とした調査をユーガブに依頼しました。米国が1945年8月に直面していたジレンマを再現するため、参加者はある架空の新聞記事を読みまし。それによると、イラン政府による2015年の核合意違反が明らかになり、米国がイランに厳しい制裁を科したところ、これに激怒したイランはペルシャ湾に配備されていた米空母を攻撃、米軍関係者2403人(1941年の真珠湾攻撃の犠牲者数と同じ)が犠牲になったというものです。
米国議会はイランに対して宣戦布告し、米大統領はイランの指導部に「無条件降伏」の受け入れを迫ります。米軍の司令官たちは大統領に次の2つの選択肢を与えました。テヘランに侵攻し、イラン政府を降伏させるために上陸作戦を開始するか(2万人の米兵の戦死が見込まれる)、またはテヘランに近い大都市に1発の原爆を投下し、(広島の原爆投下直後の犠牲者数と同じ)推定10万人の民間人を殺害することで衝撃を与え、イランを無条件降伏に追い込むか。世論調査の参加者には、イランがまだ核兵器を保有していないという前提が伝えられていました。
その結果は驚くべきものでした。われわれが想定したシナリオでは、回答者の59%がイランの一都市での核兵器の使用を支持したのです。そうした攻撃を支持する可能性は共和党員の方がずっと高く、81%以上が核兵器使用に合意しました。だが民主党員の47%も核攻撃を支持したのです。見込まれるイランの民間人犠牲者数を20倍の200万人に増やしても、回答者の59%――核兵器による犠牲者数が20分の1のときと同じ割合――が依然として原爆投下を支持したのです。
トルーマン大統領の選択肢にさらに近づけるために、われわれは回答者にイランの最高指導者ハメネイ師が政治権力のない精神的象徴としての指導者にとどまるのを許可することで戦争を終わらせるという選択肢を回答者に与えた第2弾の調査も行いました。日本国の象徴として昭和天皇の地位の維持を許可することで、無条件降伏という連合国の要求の緩和に取り組んでいたトルーマン大統領とその顧問たちが直面していた選択肢を模倣する狙いがありました。回答者の約41%が原爆投下やテヘラン侵攻よりもこの外交的選択肢を好みました。しかし、それとほぼ同じ割合(40%)がそうした交渉による和平を受け入れるよりも、イランで10万人の民間人犠牲者を出すことになる原爆投下を依然として選んだのです。
こうした核兵器使用に積極的な姿勢は、現在のその他の敵国についても言えるようです。われわれが以前に実施し、2013年に米政治学誌「アメリカン・ポリティカル・サイエンス・レビュー」で発表した調査では、通常兵器でも同様の効果があると聞かされた場合でも、回答者の19%が、アルカイダの標的に対する核攻撃を選びました。この数値は、1945年により多くの原爆を日本に落とすべきだったとする米国人の割合約23%に近いのです。つまり、最大の敵と相対するとき、米国民のかなりの割合が、米国の最も破壊的な兵器に対して嫌悪感を抱くのではなく、魅力を感じるのです。
米国は原爆を再び投下するのだろうか。将来の大統領やその顧問たちが核兵器を使用するという選択肢をどのように考えるのか、われわれの調査からは判断できません。しかし、その調査により米国民の本能の中にある不安要素が明らかになりました。敵国から挑発されたとき、われわれは核兵器の使用をタブーと考えなくなるようで、戦時中の意図的な攻撃の対象から民間人を除くことに対する米国の誓約は、たとえ大量の犠牲者が出る場合でもあまりあてにならないのです。1945年当時と同様に今日でも、戦争の厳しい局面で核兵器の使用を検討する大統領に対し、米国民が引き止め役になる可能性は低いでしょう。(ソースWSJ)