マックンのメモ日記

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北方領土問題。プーチン大統領が「面積等分」に言及!

2013-04-30 19:21:41 | 政治(国内・海外)
ロシアのプーチン大統領が29日安倍首相との会談で、北方領土問題に関連し、過去に他国との領土問題で係争地の面積を等分する方式を採用した経緯に言及したことが分かりました。中国との国境やノルウェーとの大陸棚の境界の画定に適用した例を説明したと言い面積で等分する場合、4島のうちもっとも北にある択捉島の西部に国境線を引き、択捉島(エトロフ)の多くをロシア側に割譲、日本は歯舞、色丹、国後3島と択捉島の一部を領有する形などが想定されます。

各島の大きさを見てみると択捉島は3184k㎡と鳥取県より少し狭く、国後島は1499k㎡で沖縄本島より広く、沖縄県全体とほぼ同じ広さであり、色丹島は253k㎡で徳之島とほぼ同じ広さ、歯舞群島は総面積100k㎡となっています。陸地面積だけを見ると、歯舞・色丹をだけ合せても全体の7%程度にしかならないのですが、200カイリ経済水域を見ると歯舞・色丹の二島だけで全体の40%に達するとの試算もありこれに国後、択捉の一部を加えるとさらに経済水域は広がることになります。ただしこれは面積等分した場合の話です。

千島列島における国境線(実効支配地域)の変遷はどう推移して行ったのか。 日本政府は「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島(ウルップ)より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張しています。1644年に江戸幕府が作成した「正保御国絵図」には、松前藩が支配している蝦夷地として北海道本島、樺太、千島列島が記されていて、国後島や択捉島も記載されていました。

1760年代にはロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されているそうです。そして最上徳内が和人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中に正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られているそうです。

1885年日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。1869年 蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いています。1875年 日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、「クリル群島」を日本領、日本とロシアの共同統治としながらも、両国民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領としたのです。1904年~1905年 日露戦争の結果、ポーツマス条約により南樺太が日本に割譲されたのです。

1945年2月 ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談)。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。1945年4月5日 ソビエトが日ソ中立条約を破棄通告。日ソ中立条約は規約により締約更新の1年前に通告しなければ自動更新されることになっており、このソビエトの通告により、1946年4月25日に失効することになった。1945年8月~9月 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書(ソ連も当然、当事国として署名した)に調印した。

8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面から千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。占守島の戦い8月18日から8月23日にかけ、進攻してきたソ連軍と日本軍守備隊が交戦。日本軍は勝利するものの、玉音放送の後の戦闘であるため停戦に応じ、武装解除。1946年~1949年 1946年1月29日、GHQ指令第677号により、南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が一時的に停止され[13]、南樺太・千島はソビエトの行政管轄区域となった。

1956年 日ソ共同宣言
日ソ交渉に先立って、サンフランシスコ条約起草国である米国や、英国、フランスに対して、同条約中、放棄した千島の範囲について問い合わせをした。米国は北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならないと国務省の覚書として明文化された公式見解を示し、日本の立場を支持している。しかし、英・仏からは日本に好意的な回答は得られなかった。フランスからは、サンフランシスコ会議議事録において日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起する、との回答があった。 平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、結局日ソ平和条約は締結されず、締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ共同宣言で決着した。 日ソ共同宣言で日ソ間の外交関係が回復。日本とソ連は1956年12月7日、日ソ共同宣言の批准書を交換し、日ソ共同宣言は同日発効した。(以上の流れはウィキペディアより)

同行筋によると、プーチン氏は会談の最後に「日本が好きだ」と首相に伝えたそうです。