マックンのメモ日記

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高句麗の王墓の垣根の一部と判明したレンガを確認!と韓ドラ時代劇との関係!

2013-04-17 15:30:10 | 芸術(音楽など)・文化・歴史
高句麗(こうくり)とは668年までの約790年間、現在の中国東北地方から朝鮮半島北部にかけて存在した国です。4~5世紀にかけて最も勢力を拡大し、百済、新羅とともに半島の覇権を争ったのです。そして4世紀末に即位した広開土王は第19代の王となっています。その墓とされる太王陵の北東約360メートルには、日本に関する記述もあり「高句麗広開土王碑」が立っているそうです。2004年には「古代高句麗王国の首都群および古墳群」が世界遺産に登録されています。

ちなみに、古代高句麗王国の首都群と古墳群は、中国の東北地方、渾江流域の遼寧省桓仁市と鴨緑江流域の吉林省集安市に分布しています。高句麗は紀元前3世紀頃に、騎馬民族の扶余族の一集団が北方から遼寧省桓仁市付近に移住し、朱蒙(チュムン)によって高句麗最初の山城を、五女山上に築いて都城としたのが始まりといわれています。古代高句麗王国の首都群と古墳群は、高句麗初期の山城である五女山城(桓仁市)、平地城である国内城(集安市)、山城である丸都山城(集安市)の3つの都市遺跡と高句麗中・後期の14基の皇族古墳と26基の貴族古墳からなる40基の陵墓群(集安市)が含まれる。陵墓群は、有名な好太王(広開土王)碑、将軍塚、大王陵があり、また、舞踊塚、角抵塚、散蓮花塚、三室塚、通溝四神塚などの壁画古墳からなる。陵墓群の中には、優れた設計技術を示すものもあり、その構造や壁画などは人類の創造性を示すものであるとされています。

ところがつい最近名古屋市博物館に19年間眠っていた古いレンガが、古代、中国東北部から朝鮮半島にかけて勢力を広げた「高句麗」の広開土王を葬る墓の資材と分かったそうです。寄付を受け1994年に収蔵されたのですが、分析されないまま19年間も眠り続けていたのです。レンガは厚さが約2センチ、幅16センチで割れているそうですが、長さは30センチ前後だと推測され、粘土を板状にして成形して焼いています。ところが最近になって側面に銘文が型押しされていて、拓本を取ると「願太王陵安」と記されていたそうです。
この字体などが約1600年前に高句麗の国土を最も広げた広開土王(好太王)の墓「太王陵」周辺で出土した碑の銘文と一致したのです。銘文の内容は、「太王陵が山のように安らかで岳のように頑固であることを願う」と言う内容だったそうです。太王陵は北朝鮮国境に近い中国・吉林省の集安市にあるそうです。

韓国史上、初めて大陸まで領土を広げた高句麗の征服王・広開土太王(タムドク)が国内外の敵と戦いながらも太王と呼ばれるまでになった彼の半生を描いた韓国ドラマ「広開土太王」(391年から21年間)が放送されていました。しかしこの番組は見ていません。それとこれ以外にも「百済の王・近肖古王」(クンチョワゴンの在位は346年から29年間)は録画しておいて見ていました。韓国の歴史をドラマとして見ていると、その当時の朝鮮半島の歴史が分かるようでドラマとして楽しく見ました。しかしあくまでドラマとしての歴史ですので、番組の冒頭にもあったように、「これらの内容には事実と異なる部分もあることをあらかじめご了解ください」。と言うような文言が書かれていたことをお忘れなく。

時代の背景の大筋を見るために、広開土太王が高句麗のどのあたりで在位した王なのかを、表ドラマの年表(三国時代)で見ると、391年に即位した19代王となっています。当時の中国華北は、16以上の分立興亡した民族と国家が入り混じった五胡十六国時代(304年~439年)だったのです。高句麗は、16代・故国原王が前燕の侵攻を受け、国力回復のために南の百済を攻めるも逆に戦死してしまいました。次の17代・小獣林王は、国家体制の立て直しと中国との関係修復に注力し、前燕を倒した前秦と手を結び友好関係を築いた。そして第18代・故国壌王(イリョン王)の治世となりドラマの時代に入るのです。

一方、中国では前秦に敗れた前燕の将軍モ・ヨンス(慕容垂)が後燕を建て、自らが皇帝となって中原征服の野望を抱き高句麗征伐を決心するのです。「太王四神記」でペ・ヨンジュンが演じたタムドクは長男だったのですが、公開土大王は次男と言う設定になっています。次男ということでタムドクは王室と高句麗の平和のために、王子のきらびやかな生活ではなく将軍の道を選び、遼東省の一介の将軍として生きていたということのようです。

もう一つ今TVで流されている「テジョワンゴン」と言う番組がありますが、この番組の主人公・王建(ワンゴン)ですが、当初は片目の僧侶上がりである弓裔王(クンイェ857年? 861年?- 918年)に仕えていました。弓裔王は、新羅末期・後三国時代の群雄の一人で、後高句麗(摩震、泰封)を建国した王(901年 - 918年)です。 姓は金、僧号は善宗。隻眼であったことから一目大王との別称もあるそうです。 専制的な暴政、もしくは豪族たちとの対立が先鋭化し、918年の「易姓革命」で侍中であった王建に追放されることとなったため、諡号(おくりな)はないそうです。

王建が弓裔王を追放したのち、918年に太祖王建が高麗(こうらい)を建て、1392年まで朝鮮半島を統一したのです。都は開城。元来「高麗」は高句麗の後期における正式な国号であり、当時の日本や中国でも高句麗を「高麗」と称していたため、現代中国では区別のため王氏高麗と呼ぶこともあるそうです。

「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」と言う言葉がありますが、ドラマとして見ていても横のつながりが分かってくると楽しいですね。そういう事だったのかと思えるからです。ところで私が賢者と言っているわけではないのでお間違いのないように。