工作台の休日

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おとぎ話を、ご一緒に ブラウンGPと2009年のF1シーズンの話

2023年02月21日 | 自動車、モータースポーツ
 いつもご紹介している三栄のGPCar Storyですが、今冬に発売された号がブラウンGPチーム・BGP001を特集しています。

このブラウンGPというチーム、2009年の1シーズン限定のチームでした。ファンならご存じの方も多いとは思いますが、このチーム、もともとはホンダの第三期参戦のチームが母体となっていました。前年のシーズンが終了後、ホンダが突如としてF1撤退を発表します。同年(2008年)のリーマンショックに端を発した世界的な景気後退が理由とも言われています。ここで宙に浮いてしまったのがイギリスに本拠を置いていたホンダチームのスタッフや機材などでした。もちろん、ホンダ側のスタッフは日本に帰ることができますが、イギリスで雇用していた現地のスタッフたちは急に職を失う危機に見舞われたわけです。せっかく2009年シーズンに向けて開発も進んでいたところに、まさに青天の霹靂であったことでしょう。
 ここで、それまでチームの指揮を執っていたロス・ブラウンがホンダと協議を重ね、チーム存続の道を探ることになります。結果的にホンダから1ポンドでチームを買い取るという形でチーム消滅の危機は免れます。ロス・ブラウン本人をはじめチームスタッフへのインタビューで、ホンダ撤退~チームの存続、開幕を迎えるまでの話を読むと、チームスタッフたちが必死に働き、なんとかチームを維持し、結果的には従業員たちの多くが引き続き働ける体制にまで持っていったことがうかがえます。ブラウンGPという名前もあまり深く考えずに決まったようですが、ファンはシーズン(いや、シーズン前のテストからですね)を通して、この新しいチーム名を幾度となく目にし、耳にすることになります。数々のチームで指揮を執り、特にベネトンとフェラーリを常勝軍団にしたロス・ブラウンの手腕が、意外な形ではありますが、試されようとしていました。
 チーム存続のために動き出したときに、フェラーリやメルセデスらがエンジン供給などで声をかけてきたというのも興味深かったです。時には足を引っ張ってでもというライバルたちも、こういうときには手を差し伸べるあたりがF1の「仲間意識」のようなものなのでしょう。結局、2009年のマシンにはメルセデスのエンジンが搭載されます。メルセデスも90年代からの参戦でタイトルを何度も獲得しておりますし、前年はマクラーレンに積まれ、ハミルトンの最初のタイトルに貢献しています。こうして信頼できるエンジンを積むことができました。
 はたして開幕前のテストから新チーム・ブラウンGPとエースのジェンソン・バトンは好タイムを連発、いきなり台風の目となります。開幕戦はバトン、バリチェロの1-2フィニッシュと幸先のいいスタートを切ると、前半7戦でバトン6勝と大きく選手権をリードし、誰もが驚くことになります。カラフルでたくさんのスポンサーロゴが入ったマシンではなく、スポンサーもほとんどついていない真っ白のマシンが最速という、F1ではありえないようなことが起きたのです。

(ミニチャンプス1/43のミニカー・バトン車。スポンサーロゴがほとんどないマシンに注目)
さすがに中盤以降、レッドブル・ルノーほか、ライバルたちの追い上げを受けますが、何とか逃げ切ったバトンが初の(そして唯一の)タイトルを獲りました。チームメイトのバリチェロも2勝、ランキング3位につけ、コンストラクターズタイトルにも貢献しました。この二人にとっても「まさか」という展開で、シーズンオフにいきなりチーム消滅、失業の危機だったわけですから、不安もあったでしょうが、インタビューを読む限り二人ともどこかで「腹をくくった」という感じがしました。
 なぜこのマシンが速かったのか。2009年の車輌規定改正に合わせ、当時のホンダの開発の方向性が当たった、というのが大きいようです。車輌規定の裏をかく「ダブルディフューザー」と呼ばれたマシン底面の空力処理によりスピードを乗せることができていたのでは、と当時は言われたものです。ダブルディフューザーの効果もあったのですが、それだけで勝っているとライバルに思わせるということもしたようで、実際には他の空力パーツや空力処理も勝利に大きく貢献していたようです。規定を真面目に読み込んだ「シングルディフューザー」でも勝てた、という意見もあるようで、このあたりの開発の過程も詳しく読むことができ、このマシンの強さの秘密を知る一助となりました。
 車体まである程度開発しておきながら、結局は撤退したホンダにとっては「逃した魚」はとても大きかったかもしれません。では、もしホンダが2009年も残っていたら・・・という記事もおもしろかったです。ギアボックスなどにかなりの「新機軸」を持ち込んでいただろうと言われています。それが吉と出たか凶と出たかは分かりませんが・・・。ブラウンGPの快進撃に、うちの家族は「ホンダとメルセデスのジョイントなんて、反則級の最高の組み合わせじゃないか(笑)」と言っていましたが、ホンダ用に開発した車体にメルセデスのエンジンを乗せるのは細かな寸法の違いをはじめ、苦労も多くあったようです。
 中盤以降ライバルたちに追い上げられたのも、やはり資金難からくる開発の遅れと無縁ではありませんでした。現在のようにレース数が20戦を超えていたら勝てなかったのでは、という指摘もうなずけます(2009年は年間17戦)。私自身はブラウンGPの快進撃を見ながら、もともとがホンダ由来のチームですから、がんばれ、というより「巨大メーカー主導のチームや、歴史と伝統にあぐらをかいているチームどもに、一泡吹かせちゃえ!」という感覚で見ていましたが、それと同時に「これがすべてホンダだったらなあ」という感傷も持ちながらの観戦でした。特に2007、2008シーズンとも満足のいく結果ではありませんでしたのでなおさらでした。
 さて、この年は日本GPが3年ぶりに鈴鹿で開催されました。前の2年間が富士スピードウェイでしたので、ファンにとっては改装されてきれいになった鈴鹿での最初のグランプリとなりました。私も三日間観に行っています。富士もきれいで近代的なサーキットではありましたが、久々の鈴鹿にファンもうきうきしている感じで、私も含めて「やっぱり鈴鹿のF1って楽しい」という気持ちがみんなの表情に浮かんでいるように思いました。
 ロス・ブラウンを含め関係者たちは「おとぎ話のよう」とこのシーズンとこのチームを形容しています。このシーズンの後、メルセデスがワークスチームとして参入、それがブラウンの後身となります。後年の日本GPを観戦した際に、ツアーで泊ったホテルにメルセデスのチームスタッフも宿泊していて、ホンダ第三期由来の方もいた、と同じツアーの方が教えてくれました。「おとぎ話」というのは言い得て妙でありますが、あの時代のグランプリもまた、私にとってはおとぎ話のようです。なぜなら、2000年代というのはフェラーリ、ホンダ、メルセデス、トヨタ、ルノー、BMWと巨大メーカーの戦いの場でもありました。今のF1ももちろん面白いと思いますが、あの頃は別の意味で盛り上がっていたように感じます。

日本GPのプログラム。決勝日には完売したと聞きました。

バトン(左)、バリチェロを紹介したページ

観戦ガイドにノベルティなど。過去の名場面を収録したDVDも配布されました(右上)。
ステッカーには「ただいま、SUZUKA。 おかえり、日本グランプリ。」とあります。

 

 

 

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