工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

記録より記憶に残るマシンだったとしても・・・ ティレル020

2020年10月20日 | 自動車、モータースポーツ
 三栄のGPCar Storyの最新号はティレル・ホンダ020を特集しています。このマシンはイギリスの名門、ティレルチームが1991(平成3)年のシーズンのために開発したF1マシンで、日本人ドライバーのパイオニア、中嶋悟の最後の愛機として知られています。

(写真は2013年筆者撮影)
 ティレルチームは前年に画期的な「ガルウィング」を持つ019というマシンをデビューさせました。

 非力なフォードV8エンジンながら、コンパクトにまとまったマシンはキビキビ走るという感じで、新鋭ジャン・アレジの活躍は大いに話題となりましたし、ロータスから加入した中嶋悟も日本グランプリでの入賞を含め得点を挙げています。そこにマクラーレンでチャンピオンとなったホンダV10エンジンが載る、ということで大いに期待されました。しかし、成績は今一つ振るわず、中嶋悟は5位入賞が1回、チームメイトのステファノ・モデナは最高位2位1回を含む入賞3回にとどまっています(なお、当時は6位までが入賞対象)。
 見てお分かりのとおり前年の019の「正常進化型」とはいえ、車体も新設計ですし、V10エンジンを載せるために改良を加えています。また、ホンダも「中嶋仕様」というべきエンジンを用意し「今年こそは表彰台に」と意気込んでいましたが、残念な結果に終わってしまったばかりか、中嶋の「鈴鹿ラストラン」もリタイヤに終わり、多くの人が残念がったことは、当時を知る方なら覚えていらっしゃるでしょう。
 本書では中嶋悟、森脇基恭両氏の対談の中で、中嶋氏自身が「フォードV8を載せる前提で作ったクルマだったので、そこに重いホンダV10を載せたことで、負荷のかかるサーキットに行けば行くほど多くのトラブルが起きた」という発言をしています。実際にチーム内ではV8エンジンを積みたい、という意見もあったようです。冬場の気温が低い状態でのテストはうまくいったものの、シーズンが始まり、暑くなってくるとトラブルも増えていったほか、一部スタッフのチーム離脱など、好ましくない方向にチームも進んでいました。ちょうど最近、フジテレビNEXTでこの時代の日本グランプリの映像が放映されていたのを見る機会がありましたが、前年の019が軽快な動きをしていたのと対照的に、020は重厚なガンメタルを基調とした塗装も手伝ってか、何か鈍重な感じがしました。もし、このカラーリングでトップグループを走る姿を見ることができたら、そのシャープな姿は日本だけでなく、多くの国のファンにとって印象に残るマシンになったのではないかと思うのですが・・・。
 また、当時は少数派のピレリタイヤに文字通り足を引っ張られた、と報じられていたものです。ホンダの関係者も性能が良かったり悪かったりで安定しなかったと言っていますが、ティレルに特化した開発・改良も行われていたという証言もあります。両者リタイアに終わりましたが、もともと市街地に強いモデナがモナコで予選2番手となったほか、中嶋もこの年のモナコでは予選11位となっています。うまくハマるサーキットでは性能を発揮できたということでしょう。本書ではピレリの関係者のインタビューはありませんでしたが、実際のところどんな開発をしていたのか、知りたくなりました。
 本書では中嶋のチームメイトのステファノ・モデナへのインタビューも掲載されています。この時代のF1では、イタリア人ドライバーはちょっとした勢力を築いており、その中でモデナは物静かな性格もあってかその中では地味な存在ではありましたが、開発、改良を通してホンダからの評価も高かったようですし、インタビューでは本人も当時のことを包み隠さず話しています。引退後はブリヂストンの市販車タイヤ用の開発ドライバーなどをしていたというのも、この人らしいなと思いました。
 マシンのメカニカルな話だけでなく、ティレルチームがマクラーレンと「提携」することでスポンサーシップの管理運営をマクラーレンに任せていたという話も興味深く読みました。青を基調としたカラーが多かったティレルが、この年だけ(日本ではシェーバーでおなじみの)ブラウンをメインスポンサーにしていたのも、そういった関係があったからだそうです。
 このシーズンは私自身がF1を真剣に見るようになった「元年」でもありまして、その中で「中嶋さん」とそのマシンは応援の対象でもありました。子供の頃ならともかく、スポーツ選手に感情移入するというのは大きくなってからは無かったのですが、「中嶋さん」のシャープな走りは、なぜか応援したくなるものがありました。シーズン中に引退を発表したこともあって(本人は引退発表したことで気持ちが切れてしまったと言っていますが)、日本ではあらゆるメディアに取り上げられ、最後の鈴鹿までのカウントダウンは異様な空気だったことを覚えています。ちょうど10月20日という日が、29年前の日本グランプリの決勝日で、当日は20:00から地上波で録画放送があったのですが、裏番組の大河ドラマ「太平記」(こちらも良くできた作品だったのですが)を視聴率で抜いたということからも、当時の状況がお分かりいただけるかと思います。なお、日本グランプリでのリタイヤですが、エンジントラブルや誰かにぶつけられたといったアクシデントではなく、タイロッドエンドの破損が原因でした。車体を提供するティレル側の部品には外注品が多く、納品検査なども満足に行っていない中で起きているトラブルであることから、信頼性の低さが原因と指摘する声もあります。壊れることなく走り続けていたら、表彰台は無理としても、6位には入れていたのではないか(モデナは6位入賞)と思います。
 海外のレースファンから見れば、このティレル020については「雨に強い寡黙な日本人と市街地に強い寡黙なイタリア人のドライブする中団グループのマシン」と片付けられてしまうかもしれませんが、私を含め多くの日本のファンの記憶に残り続ける、そんな感じがするのです。
 今回はマシンにフォーカスして書きましたが、このシーズンのF1については、まだ書き足りないこともあります。次回以降、そのあたりの昔話をさせてください。もちろん、本書についてもここでは書ききれない興味深い話が満載です。あの頃のF1に(もう一度)触れてみたい、あの頃生まれていないけど、知ってみたい、という方にもぜひおすすめします。
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