「ジル?彼は神だ」。イタリア映画で自分の子供にF1ドライバーの名前をつけた主人公に、誰の名前から採ったかをあてさせる場面があって、そんな台詞がありました。
三栄のGPCar Storyは主としてマシンを紹介するシリーズですが、セナやラウダなど、個人をフォーカスした号も出ています。9月のことですのでだいぶ前になりますが、フェラーリで活躍したジル・ビルヌーブを特集した号が出ています。

ジルは1977年のF1デビューから1982年まで、数字で言えば67戦6勝という結果しかありません。しかし、劣勢であってもマシンを荒々しく振り回し、時にタイヤが一つ失われてもカウンターを当てながら走り続け、いつも、そして誰よりも速く走ろうとした姿に多くのファンが魅かれました。そして、悲劇的な事故死というのもまた、彼が語り継がれている一因でしょう。
カナダで生まれたジルは、北米のレースを中心に若い日々を過ごします。1976年、北米のフォーミュラ・アトランティックというカテゴリーで走っていた折に、ゲストとして出走したこの年のF1チャンピオン、ジェームス・ハントに見出されました。1970年代には日本のF2000、F2でもそうでしたが、F1ドライバーがこういった下位カテゴリーのレースに招待されることがあり、ハントはここで若きカナダ人の才能を見抜いたわけです。
そのハントの推薦もあって翌1977年のイギリスGPでビルヌーブはF1デビューします。マクラーレンが3台目のマシンを彼のために用意しました。当時このグランプリを取材していたジャーナリストの赤井邦彦氏もビルヌーブの前評判の高さを聞いており、さらにデビューがマクラーレンとなれば、ということでインタビューを行ったと述懐しています。マクラーレンとはこの一戦限りでしたが、すぐにフェラーリからお呼びがかかりました。ほとんど経験と実績のないドライバーを一気に抜擢したあたり、何か特別なものを感じ取っていたのでしょう。ところが同年富士で行われた日本GPでのアクシデントが原因でマシンが立ち入り禁止区域にいた観客に飛び込んでしまい、観客と警備員二人が死亡しています。この事故のことはテレビニュースでも大きく報じられ、私も「富士の大きなレースで人が亡くなった」という程度に覚えていました。それがF1で、当事者がビルヌーブだったことを知ったのは、だいぶ後のことでした。
初優勝は1978年、地元カナダでした。1979年はチームのエース、シェクターを立ててNo.2に徹し、シェクターのタイトル獲りを援護しました。この年はフランスGPでルノーのルネ・アルヌー(鈴鹿でF1が開催されるようになってからは「妖怪とおせんぼじじい」などと揶揄されましたが、当時のアルヌーは速さの際立つドライバーでした)と激しい2位争いを終盤に展開し、F1の歴史でも語り継がれるバトルとなりました。1981年にはスペインGPで劣勢のマシンながらトップに立つと後ろに4台を従えて数十周走りつづけ、感動的な勝利をものにしています。1982年、フェラーリのマシンは好調でタイトルに近い位置におりました。しかし、サンマリノGPでチームメイトのD.ピローニがチームオーダーを無視する形の勝利を手にしたことで関係が悪化、続くベルギーGP予選でピローニが自らのタイムを上回ったことを知ってジル(とそのマシン)はピットを飛び出してアタックしているさなか、前を走っていたマシンに接触、そのままマシンは宙を飛ぶ激しいクラッシュに見舞われ、32歳で亡くなりました。
と、ここまでは多くのファンが知る彼の生涯で、名勝負に悲劇的な最期というのは私もF1ブームの際に書物や映像で知りました。本書でも関係者、さらには息子で1997年F1王者のジャック・ビルヌーブも含め、ジルの人となりを語っています。私自身若かった20代の頃はジルの物語を読んで胸を熱くしたものでしたが、本書を読んで感じたのは「ジルのことは分かっていなかったし、今も分からない」ということでした。政治的な駆け引きは嫌い、純粋でまっすぐ、というキャラクターは誰もが指摘していますし、F1マシンであろうと、ロードカーだろうと、さらにはヘリコプターであっても「ハンドルを握ると性格が変わってしまう」気質があったようですが、それも本人はある程度意識してやっていた節があるようです。もちろん、限界ギリギリまで攻めるというところはありますが、むやみに命を危険にさらすようなことはしない主義だったようです。本書ではチームメイトだったシェクターがインタビューに答えていますが、一緒に長い時間を過ごした間柄ならではの言葉も聞けて、印象深かったです。イタリアの熱狂的なフェラーリファンに対して「塩対応」だったというのも、敢えてそのような態度を取っていたのかなと思います。
関係者のインタビューで印象的なのは、やはり息子のジャック・ビルヌーブに対するものでした。ジャックは父親の現役時代から寄宿学校で過ごしていて身近に父親を感じていなかったということもあって、父親についてはメディアや周囲が作り上げた姿でもある、と語っています。それでも我々ファン、そしてジャーナリストたちは息子に父親の面影を探そうとするもので、本人にとっては重荷であったことでしょう。本人も限界ギリギリまで攻めるタイプだったと言いつつ、引くところは引いていたようです。ただ、故・今宮純氏いわく、大胆なセッティング変更をかけてくるあたりは父親譲りだったという指摘もあり、本人が気づかぬところで父の背中を追っていたのかもしれません。キョーレツな父親を持つと息子は大変だよな、と私も少々共感いたしました(ってそんなことを書いていたら父親が化けて出そうだな)。
さて、フェラーリ一筋と思われていたジル・ビルヌーブも、さすがに走らない駄馬に手を焼き、マクラーレンと交渉していたというのは知りませんでした。交渉はまとまらず、復帰したニキ・ラウダとマクラーレンが契約しています。もし、1982年にジルがマクラーレンに行っていたら・・・というifも考えられます。この時代のマクラーレンはラウダとプロストのコンビで知られますが、プロストと組むのがラウダではなくジルだったら・・・。アラン・プロストはマクラーレン加入後、ただ速さを求めていただけの若者からラウダの教えを受けるようにして「プロフェッサー」となっていきましたので、プロストというドライバーもまた、別の歩みをしていたかもしれないですね。また、ビルヌーブの年齢(1950年生まれ)からして、あのままレースを続けていたら、鈴鹿の日本GP(1987年)の頃まで現役だった可能性があります。ビルヌーブが事故に遭っていなかったら、F1の流れ、歴史はまた違っていたものになっていたことでしょう。それ故に「たった」67戦のドライバーが、いまだに強烈な輝きを放っているのかもしれません。
さて、ジル・ビルヌーブが亡くなった1982年ですが、チームメイトのピローニもドイツGP予選中の事故が元で選手生命を絶たれてしまいます。フェラーリはタンベイ、アンドレッティら何人ものドライバーを擁して、ようやくコンストラクターズタイトルを獲得しました。ドライバーの方はウィリアムズのロズベルグ(父)がシーズン1勝ながらタイトルを獲得しています。それだけ大荒れのシーズンだったということでしょう。
冒頭の映画の台詞ですが、次のようなやりとりが続きます。「ミケーレ(アルボレート)」、「ちょっと古いなあ」、「そうだ、アイルトン(セナ)だな?」ということで、子供にアイルトンという名前をつけていたことが分かります。日本でも子供に「セナ」と名付けた親がいましたからね。そしてそのセナですが、1984年F1デビューということで、ジル・ビルヌーブと入れ替わるようにF1の舞台に加わります。そのセナもデビューシーズンから強烈な輝きを放つドライバーでした。

ジル・ビルヌーブ最後のマシン。フェラーリ126C2。いよいよサーキットでターボエンジンが覇権に絡むようになります。
令和4年12月6日加筆。ビルヌーブが亡くなった後、フェラーリ入りし、82年、83年のコンストラクターズタイトルに貢献したパトリック・タンベイが先日亡くなりました。GPCarstory誌面でも、生前のインタビューが掲載されています。合掌。
三栄のGPCar Storyは主としてマシンを紹介するシリーズですが、セナやラウダなど、個人をフォーカスした号も出ています。9月のことですのでだいぶ前になりますが、フェラーリで活躍したジル・ビルヌーブを特集した号が出ています。

ジルは1977年のF1デビューから1982年まで、数字で言えば67戦6勝という結果しかありません。しかし、劣勢であってもマシンを荒々しく振り回し、時にタイヤが一つ失われてもカウンターを当てながら走り続け、いつも、そして誰よりも速く走ろうとした姿に多くのファンが魅かれました。そして、悲劇的な事故死というのもまた、彼が語り継がれている一因でしょう。
カナダで生まれたジルは、北米のレースを中心に若い日々を過ごします。1976年、北米のフォーミュラ・アトランティックというカテゴリーで走っていた折に、ゲストとして出走したこの年のF1チャンピオン、ジェームス・ハントに見出されました。1970年代には日本のF2000、F2でもそうでしたが、F1ドライバーがこういった下位カテゴリーのレースに招待されることがあり、ハントはここで若きカナダ人の才能を見抜いたわけです。
そのハントの推薦もあって翌1977年のイギリスGPでビルヌーブはF1デビューします。マクラーレンが3台目のマシンを彼のために用意しました。当時このグランプリを取材していたジャーナリストの赤井邦彦氏もビルヌーブの前評判の高さを聞いており、さらにデビューがマクラーレンとなれば、ということでインタビューを行ったと述懐しています。マクラーレンとはこの一戦限りでしたが、すぐにフェラーリからお呼びがかかりました。ほとんど経験と実績のないドライバーを一気に抜擢したあたり、何か特別なものを感じ取っていたのでしょう。ところが同年富士で行われた日本GPでのアクシデントが原因でマシンが立ち入り禁止区域にいた観客に飛び込んでしまい、観客と警備員二人が死亡しています。この事故のことはテレビニュースでも大きく報じられ、私も「富士の大きなレースで人が亡くなった」という程度に覚えていました。それがF1で、当事者がビルヌーブだったことを知ったのは、だいぶ後のことでした。
初優勝は1978年、地元カナダでした。1979年はチームのエース、シェクターを立ててNo.2に徹し、シェクターのタイトル獲りを援護しました。この年はフランスGPでルノーのルネ・アルヌー(鈴鹿でF1が開催されるようになってからは「妖怪とおせんぼじじい」などと揶揄されましたが、当時のアルヌーは速さの際立つドライバーでした)と激しい2位争いを終盤に展開し、F1の歴史でも語り継がれるバトルとなりました。1981年にはスペインGPで劣勢のマシンながらトップに立つと後ろに4台を従えて数十周走りつづけ、感動的な勝利をものにしています。1982年、フェラーリのマシンは好調でタイトルに近い位置におりました。しかし、サンマリノGPでチームメイトのD.ピローニがチームオーダーを無視する形の勝利を手にしたことで関係が悪化、続くベルギーGP予選でピローニが自らのタイムを上回ったことを知ってジル(とそのマシン)はピットを飛び出してアタックしているさなか、前を走っていたマシンに接触、そのままマシンは宙を飛ぶ激しいクラッシュに見舞われ、32歳で亡くなりました。
と、ここまでは多くのファンが知る彼の生涯で、名勝負に悲劇的な最期というのは私もF1ブームの際に書物や映像で知りました。本書でも関係者、さらには息子で1997年F1王者のジャック・ビルヌーブも含め、ジルの人となりを語っています。私自身若かった20代の頃はジルの物語を読んで胸を熱くしたものでしたが、本書を読んで感じたのは「ジルのことは分かっていなかったし、今も分からない」ということでした。政治的な駆け引きは嫌い、純粋でまっすぐ、というキャラクターは誰もが指摘していますし、F1マシンであろうと、ロードカーだろうと、さらにはヘリコプターであっても「ハンドルを握ると性格が変わってしまう」気質があったようですが、それも本人はある程度意識してやっていた節があるようです。もちろん、限界ギリギリまで攻めるというところはありますが、むやみに命を危険にさらすようなことはしない主義だったようです。本書ではチームメイトだったシェクターがインタビューに答えていますが、一緒に長い時間を過ごした間柄ならではの言葉も聞けて、印象深かったです。イタリアの熱狂的なフェラーリファンに対して「塩対応」だったというのも、敢えてそのような態度を取っていたのかなと思います。
関係者のインタビューで印象的なのは、やはり息子のジャック・ビルヌーブに対するものでした。ジャックは父親の現役時代から寄宿学校で過ごしていて身近に父親を感じていなかったということもあって、父親についてはメディアや周囲が作り上げた姿でもある、と語っています。それでも我々ファン、そしてジャーナリストたちは息子に父親の面影を探そうとするもので、本人にとっては重荷であったことでしょう。本人も限界ギリギリまで攻めるタイプだったと言いつつ、引くところは引いていたようです。ただ、故・今宮純氏いわく、大胆なセッティング変更をかけてくるあたりは父親譲りだったという指摘もあり、本人が気づかぬところで父の背中を追っていたのかもしれません。キョーレツな父親を持つと息子は大変だよな、と私も少々共感いたしました(ってそんなことを書いていたら父親が化けて出そうだな)。
さて、フェラーリ一筋と思われていたジル・ビルヌーブも、さすがに走らない駄馬に手を焼き、マクラーレンと交渉していたというのは知りませんでした。交渉はまとまらず、復帰したニキ・ラウダとマクラーレンが契約しています。もし、1982年にジルがマクラーレンに行っていたら・・・というifも考えられます。この時代のマクラーレンはラウダとプロストのコンビで知られますが、プロストと組むのがラウダではなくジルだったら・・・。アラン・プロストはマクラーレン加入後、ただ速さを求めていただけの若者からラウダの教えを受けるようにして「プロフェッサー」となっていきましたので、プロストというドライバーもまた、別の歩みをしていたかもしれないですね。また、ビルヌーブの年齢(1950年生まれ)からして、あのままレースを続けていたら、鈴鹿の日本GP(1987年)の頃まで現役だった可能性があります。ビルヌーブが事故に遭っていなかったら、F1の流れ、歴史はまた違っていたものになっていたことでしょう。それ故に「たった」67戦のドライバーが、いまだに強烈な輝きを放っているのかもしれません。
さて、ジル・ビルヌーブが亡くなった1982年ですが、チームメイトのピローニもドイツGP予選中の事故が元で選手生命を絶たれてしまいます。フェラーリはタンベイ、アンドレッティら何人ものドライバーを擁して、ようやくコンストラクターズタイトルを獲得しました。ドライバーの方はウィリアムズのロズベルグ(父)がシーズン1勝ながらタイトルを獲得しています。それだけ大荒れのシーズンだったということでしょう。
冒頭の映画の台詞ですが、次のようなやりとりが続きます。「ミケーレ(アルボレート)」、「ちょっと古いなあ」、「そうだ、アイルトン(セナ)だな?」ということで、子供にアイルトンという名前をつけていたことが分かります。日本でも子供に「セナ」と名付けた親がいましたからね。そしてそのセナですが、1984年F1デビューということで、ジル・ビルヌーブと入れ替わるようにF1の舞台に加わります。そのセナもデビューシーズンから強烈な輝きを放つドライバーでした。

ジル・ビルヌーブ最後のマシン。フェラーリ126C2。いよいよサーキットでターボエンジンが覇権に絡むようになります。
令和4年12月6日加筆。ビルヌーブが亡くなった後、フェラーリ入りし、82年、83年のコンストラクターズタイトルに貢献したパトリック・タンベイが先日亡くなりました。GPCarstory誌面でも、生前のインタビューが掲載されています。合掌。