廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

聴き所はどこに?

2020年11月21日 | Free Jazz

Albert Ayler / Bells  ( 日本フォノグラム BT-5004 )


3管編成であることから、アイラーのサックスにどっぷりと浸ることはあまりできない故、このアルバムの聴き所は何処か、
と問われると、その答えは難しいなあと思う。後半にいつもの軍隊マーチの旋律が出てきて、そこをユニゾンで吹くところなんかは
サウンドがカラフルで楽しいけれど、ラッパやタイラーのサックスは結局アイラーの演奏をコピーしているだけではないのか、という
醒めた目線から離れることができない以上、3管である必然性に説得力を感じない。

まあ、タウンホールでのライヴということで、音楽性の追求や創造という狙いは元々なく、聴衆を前提にした彼らの考える"現代(今)"を
披露したということだろうから、これはこのまま受け取るしかないのだろうと思う。裏面のライナーノートで評論家が「フリージャズの極北」
とか「情念力」とか「情動性」という言葉を用いて熱弁を奮っているけれど、当時の空気感からは完全に断絶したこの現代において、
アイラーをそういう用語で語られても、その解説は聴き手の理解の補助にはならない。

ジャズのグループ演奏というのはいろいろ難しくて、例えば、パーカーとディジーのコンボのようにお互いが刺激し合いながら音楽を
高めていくという姿を見る時、聴き手は自然と興奮を覚えるものだし、マイルスのバンドでコルトレーンが急速に成長していく様子が
ある種の感慨を引き起こしたり、とグループ内での化学反応というか人間の姿の変容が一般的には深い感動をもたらすものだ。

ところが、アイラーのこのグループでの演奏にはそういう雰囲気があまりなく、巨人の演奏スタイルを(言い方は悪いが)そのまま
コピーして、それを持ち寄った形で合奏(競奏ではない)している様子には、イマイチ乗り切れないものを感じる。
フリー・ジャズはごく短期間のうちに急成長したジャンルだから、この分野の各人が先駆者のコピーの域を出るまでの時間があまり
確保できなかったという事情があるのはわかるけれど、だからこれはこれでいい、と寛容になれるほどこの分野に偏愛がある訳でもない。

このライナーノートのように、アルバート・アイラーという高名な人のアルバムだから何でも素晴らしい、という態度には疑問がある。
私自身は、この有名なアルバムにはあまり聴き所が無いと思っている。


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