セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

DVD鑑賞ノート「不滅の李舜臣」[その7]

2009-09-30 18:16:05 | 歴史
李舜臣は王様である宣祖から謀反の疑いをかけられるのだが、それは一つには戦に連勝する李舜臣に対する人気と、首都を放り出して逃げた国王である自分の不人気による嫉妬からのものだが、李舜臣の行動に宣祖の神経を逆なでするものがあった。

1 宣祖が王様になった直後に、お忍びで柳成龍の家に出かけたことがある。そこに柳成龍の友人の李舜臣が訪ねてきた。宣祖は李舜臣に「最近朝廷の人が替わったので世の中は良くなってきたでしょう」とたずねた。すると王様とは知らない李舜臣は「人が替わっただけでは世の中はちっとも良くならない」とぶっきらぼうに言ったので、王様はどっ白け。これが2人の最初の出会いだ。

2 王様が水軍を解散して兵員をすべて陸軍に組み込むという命令を出した。日本軍が攻めてくる場合を想定して、陸軍の強化を図るものだ。水軍の武将たちもたまたま海岸地帯に赴任したのでもともと陸軍だという意識もあるので水軍からの反対はあまりなかった。これに李舜臣が強硬に反対して命令を実行しないだけでなく首都まで行き王宮の庭でずっと立ち続けて水軍の存続を請願した。柳成龍の協力もありやっと水軍の存続を許された。でも、王様が水軍の廃止を決意したのは李舜臣にも原因があるのだ。李舜臣は世宗大王のときにあったという亀船を再現したと王様に報告した。王様は喜び臣下を差し向け浸水式に出席させた。亀船は一般に亀甲船と呼ばれているが、甲板の上部を鉄板で覆った船だ。日本の水軍の得意技は敵船に船を横づけして戦闘員が敵船に乗り込むことなので日本の水軍との戦闘に活躍が期待される。ところがなんと浸水式で亀船は沈没して多くの乗組員が亡くなった。鉄板のため船の重心が高くなったのが原因だ。王様の落胆と怒りは大きく、王様は水軍の廃止論に傾いた。
ああそうそう、このとき水軍存続の条件で、1度でも負けたら水軍廃止なんて条件を付けられたんだ。ここから2人の関係はおかしくなったのかな。

3 国で武科の科挙を実施することとなったとき、李舜臣は三道水軍の中で独自に試験を行うといった。しかも身分にかかわらず参加して良いという。まったく前例にないことだ。本来なら全く認められないことだが、王様から軍事上の人事権を委任されている王世子の光海君が悩んだ末に許可をくれた。試験には兵法などの筆記試験もあるが李舜臣は学習の援助などを行い受験させた。そのため漕ぎ手等のものから軍官が誕生した。だけど李舜臣が謀反の疑いで拷問にあい白衣従軍になったときに、それらの軍官は兵士や漕ぎ手に戻された。光海君の許可で正式なものになっていたので戻すのは不条理だよ。
 王様からみれば李舜臣は自分に忠実な軍隊を作っているようにみえて、謀反の準備をしているようにも見えるわけだ。

4 王様は北の国境付近の新義州に避難しているわけだが、加藤清正の軍隊も北方付近で2王子を捕虜にするなどしたため王様は脅威を感じている。そこで王様は李舜臣に釜山 を水軍で海から攻撃するよう命令を出す。釜山は日本軍の補給基地となっている。そこを攻撃すれば補給を断たれる懼れのため加藤清正ら日本軍は南下せざるをえなくなり、新義州への危険が無くなると考えたわけだ。でも李舜臣は今攻撃できないと出撃を拒否した。何回も王様の命令を伝えに宣伝官や高官が来るがそれでも頑として出撃しない。部下の中には形だけでも出撃してごまかせばというが聞かない。元均は王命には逆らえないというが李舜臣は出撃できないという。李舜臣によれば勝てない戦で部下は死なせられないとのことだ。王様は王様の軍隊が王様の危機なのに命令を拒否するとは全く理解できない。
 でも不思議なのは、その後に釜山方面へ出撃しているのだよ。条件が変わったのかな?それとも王様にあえて逆らっているのかな?

5 慶長の役で、小西行長から朝鮮側に加藤清正軍が日本から釜山へ上陸する日が伝えられた。日本の通説では、講和の邪魔になる加藤清正を朝鮮側の手を借りて小西行長が殺そうとしたと思われている。だが李舜臣は出撃しなかった。罠と思ったのか、また罠でなくても釜山付近には李舜臣の水軍の数倍の日本の軍船がいるので李舜臣が勝てる可能性は少ないと思ったのだろうか。海上では李舜臣の水軍が無敗なので待ち伏せすれば海上で加藤清正を殺せたと思い王様は激怒する。まあこれが李舜臣の反逆罪で捕らえられるきっかけとなった。通説どおりだとすれば李舜臣は慎重すぎて勝機をのがした間抜けということになる。このドラマでは加藤清正の上陸日は知らされた日より一日後だとして罠説にちかい。

6 9月15日の[その2]にも書いたのだが、露梁海戦の前にあった朝明連合軍による小西行長が籠城する順天城攻撃で明軍に死者が多く出て失敗したのに、李舜臣は勝利したとの報告を行って王様の不興をかった。李舜臣の被害は小西行長軍より少ないから勝利という理屈らしい。これでは王様の李舜臣への不信は大きくなるばかりだ。

中国でも将軍はいったん戦場に出たら自分の判断を最優先して王命には従わなくてもとなっている。そうなのだから司令官である李舜臣は自己の判断で行動して王からの命令に右往左往してはいけない。それが兵士の命を預かる者の責任だ。しかし王様に事情を説明して相互の信頼を築くことも長期の戦争を勝ち抜くには必要なのではないか。李舜臣の中には宣祖あるいは朝鮮王朝や朝鮮社会に対する憤懣があったのではないのか。だから宣祖をわざと軽く見る態度をとったのではないのかな。

DVD鑑賞ノート「不滅の李舜臣」[その6]

2009-09-24 22:33:27 | 歴史
1591年2月に李舜臣は全羅左水使に任命された。これは柳成龍の推薦によるものだ。朝鮮半島の南の先端部分は西側が全羅道で東側が慶尚道という地域にわかれる。現在の行政区分では全羅道は南北に2つにわかれ全羅北道と全羅南道にわかれているが、朝鮮王朝時代では全羅道は東西にわかれ全羅右道(西)と全羅左道(東)に分けられる。全羅左水使は全羅左道にある水軍の司令官だ。当時、太閤秀吉による朝鮮出兵がうわさされていて、そのため前年の1590年3月に朝鮮から日本へ状況偵察のため通信使が派遣されていた。結果からみると名宰相の柳成龍が万一の戦争に備えて異例の昇進だが李舜臣を全羅左水使に推薦したと思われる。ただその直後の1591年3月に通信使が日本から戻ってきたが、正使は侵攻の可能性を報告し、副使は侵攻の可能性はないと報告した。国王は副使の意見を採用した。

ドラマではこの李舜臣の全羅左水使に就任前後をドラマチックに描いている。実はその直前に全羅左水使には元均が就任したばかりだった。全羅左水使の本営の庭では元均と配下の指揮官が集まって元均の就任祝いの宴会が開かれる。元均は北方での活躍で勇猛な指揮官で知られておりキャリアからして従三品の全羅左水使に就任してもおかしくない。そこへ井邑県監の李舜臣が現れる。居並ぶ武将たちは李舜臣が武官で同じ全羅道内の井邑県の首長であることは知っているが指揮する軍隊をも立たない純然たる牧民官(民生官)で全羅左水使の部下ではないので「あんたは指揮官ではないのにどうして来たの?」と不思議がる。元均は李舜臣が昔からの友人だと説明する。宴会の途中で王様の使いがきて、元均を全羅水使から解任するというのでみんなびっくりだ。

実は元均は全羅左水使にふさわしくないと進言したのは柳成龍だ。元均は勇猛だが、女真族の捕虜を勝手に殺したり、無辜の民をよく調べずに処刑したりしたことがあるので司令官にふさわしくないとの理由だ。そこで王様は解任と身を慎み反省せよという文書を送り届けたのだ。で、そのあと柳成龍の推薦で7階級特進により全羅左水使に任命されたのは李舜臣だ。元均は当然頭にきた。ここで元均と李舜臣の友情関係は消滅する。まあ北方にいる時も直接の接触はないけれど、元均は李舜臣の女真族の結集の懸念による兵力派遣要請とさらわれた人と捕虜との交換を女真族と交渉しようとする李舜臣の行動を批判していたけどね。

では柳成龍は元均が本当にふさわしくないと考えて解任を進言して、たまたま李舜臣が適任なのでそのあとに推薦したのだろうか、それとも李舜臣を全羅左水使にしたくて元均を解任させたのだろうか?僕は前者だと思う。というのは元均が攻撃は最大の防御だから準備がととのえて日本に攻め込み占領するぞと言っていたからだ。

ところで柳成龍は水軍の重要性と李舜臣の水軍指揮の能力を考えて全羅左水使に推薦したというより、とにかく李舜臣を出世させたかったみたいだ。この「不滅の李舜臣」というテレビドラマの原作の一つといわれる「孤将」という小説がある。あの蓮池薫さんの訳で新潮社から出ている。以前に買っていたがまだ読んではいなかった。小説自身は慶長の役の最後の頃の李舜臣の内面を一人称で描く純文学チックなものだ。その小説に付録で「李舜臣の年譜」が付いている。ちなみに李舜臣の最初の赴任先はドラマで話された宣伝官ではなくて咸鏡道の童仇非堡に権官となっていた。ドラマの話で出てくる宣伝官というのは新規採用者や白衣従軍明けの者の本来の勤務先が決まるまでの待機用のポストとして使われているから年譜には出てこないのかな?さてこの年譜には罰については触れていない。だから1586年に造山堡萬戸で品階が従四品だったのに1589年末にかなり下の従六品の井邑県監になった理由は年譜からはわからないとちょっと不親切。

話は柳成龍が李舜臣を何がなんでも出世させたかったのではないか、という話に戻ると。この年譜で驚くことは井邑県監から全羅左水使になる前に、李舜臣をやはり高官の従三品や正三品の役職への任命の発令が3回だされて3回ともすぐ取り消されているのだ。発令がすぐ取り消されるのは元均だけではなかったのだね。李舜臣への発令の3度の取り消しは司諫院の反対によるもの。司諫院とは王様が間違った行動をとったとき儒教の立場からいさめる役割をもつ役人のいる役所。儒教では君主への諫言が臣下の重要な役目で、朝鮮王朝では諫言を仕事とする役職がいくつかある。儒学者にとっては宰相になるより司諫院で働く方が名誉だと思うものも多いそうだ。司諫院の反対の理由は李舜臣の出世が早すぎるというものだそうだ。でも4度目の正直で正三品の全羅左水使になった。これが1年間に起きたのだが官僚間の派閥争いも関係しているかもしれない。

こうして李舜臣は全羅左水使になったわけだ。もし前3回のどれかの任免で陸軍の指揮官になっていたら日本軍の侵攻にぶつかり戦死していたかもしれないね。こうしての水軍の司令官の李舜臣が誕生したのは運命かな。

でも従六品の県監から7階級特進で正三品の全羅左水使に李舜臣がなったのが、気に入らないのは全羅左水営の武将たちだ。自分たちよりはるかに階級の低かったものが上司になるのだ。また武将たちの中には元均に心を寄せるものがいる。そのうえ李舜臣は船大工を指揮官並の地位を与え作戦会議にも参加させるという。まったく異例の人事の連続に武将たちの中には当惑と不満が渦巻く。ここからドラマは管理職としての組織内の戦いのドラマとなる。河村市長もみてちょう。参考になるでよ。

DVD鑑賞ノート「不滅の李舜臣」[その5]

2009-09-21 19:03:47 | 歴史
第2章の「武官時代」は、造山堡萬戸という役職についているところから始まる。「萬戸」というのはある地域の村長兼守備隊長のようなものと思われる。「萬戸」は「マノ」と読む。日本語式に読まない方が無難だ。似たような役職に「僉使」とか「郡使」とか「府使」とかが出てくるが「萬戸」は一番規模が小さいみたいだ。ようするに軍事的に重要な拠点の守備隊長が首長も兼ねていると思われる。

このころの朝鮮の軍事的問題は。北方での女真族の侵入と南方での倭寇の跳梁だ。女真族とは後に清帝国をつくる満州族のこと。ただこの当時朝鮮では「野人」と呼んでいた。朝鮮政府は北方の国境付近に五鎮とか六鎮とかの軍事拠点を定めて対処していた。造山堡というのはそのうちの1つの鎮なのかさらにその下の組織なのかはわからない。たぶんその下の方なのだろう。堡というのは砦という意味だ。

李舜臣はこの時点で武科試験合格から14年たっている。その間に李舜臣は左遷や免職を経験している。何度も受けてやっと受かって武官になっても懲戒処分がいくつもあるとは履歴をみればだいぶはみ出しているね。原因は命令違反や上官への反抗が原因らしいが、ドラマではナレーションで触れられただけでその内容は不明だ。だがこれからも李舜臣はいくつも罰を受けていくのでその内容は類推できる。まあ官僚組織は時と共に自己保存目的と成員の利益共同体となっていくから、本来の職務に忠実たろうとすると李舜臣のようにならざるを得ないかもしれないが。おっと私がやめたのは自己都合での円満退職で免職ではないので誤解のないように。

ドラマでは、李舜臣はいままでバラバラであった女真族が結束しつつあることを把握した。そこで結束した女真族が侵略してくるとしたら彼の担当区域内の鹿屯島が戦略的に重要であると考えた。そこで上官に都に増援部隊の派遣を要請するよう訴えたが全く取り合ってもらえない。少ない兵力では守れないので、田畑建物食料のすべてを焼いてにげる清野作戦も考えたが村人がどうしても残るというので屯田兵を使って補強したが、まだまだ兵力は不足だ。あるとき五鎮の本部で指揮官の会議があるので出席要請がきたが、行きたくなかったが兵隊の援助を養成しようと出かけた。ようやく指揮官の一人が協力して応援に来てくれることになりいっしょに戻ろうとしている途中に、鹿屯島が女真族に襲撃されているとの連絡があり急いで向かったが着いた時には部隊は全滅して鹿屯島は廃墟になっていた。このため李舜臣は指揮官が持ち場をはなれた敵前逃亡罪に問われ、白衣従軍という罰を受けた。これは官位をはく奪され白い服で一兵卒とおなじ任務に就くことだ。これが生涯で2回ある白衣従軍の1回目で2回目は慶長の役のときだ。

でも会議に出席するための外出だから敵前逃亡とはおかしいが敗戦の責任をだれかが負わなければいけないので貧乏くじを引かされたのだろう。でないと兵士の増強を拒んだ上官の責任になるかもしれない。これは僕の推測。白衣従軍というのは一兵卒に戻っても手柄を立てれば位が戻るというもの。しかし軍隊というのは他の官僚組織と同じく高級官僚の互助組織だ。すぐそのあとで朝鮮の部隊が女真族の本拠を襲撃してその中に李舜臣も加わり、敵の頭目を李舜臣が斬って白衣従軍は解除された。ドラマでは斬っている。でも斬っていなくても手柄を立てたことにされるだろうと思う。

白衣従軍を解除された李舜臣は元の萬戸に戻ったのではなく、都で軍の宣伝官となった。宣伝官は各地の軍人に王様の命令を伝える役目だ。これは李舜臣が武科に受かった後最初に就いた役職とおなじとのこと。最初にもどり萬戸よりは官位がぐっと低いはず。このあと小さな町か村の首長になったが、純然たる牧民官(民生官)で兵隊の指揮官でない。そこから柳成龍の推薦で全羅左水使という全羅道という地域の半分の水軍の総司令官についたのだが、7階級の上の役職なので前例にないとひと騒ぎ起きる。

ここで思うのは、一つは宣伝官は位が低いと思われるのに、慶長の役のとき王様の命令(釜山の攻撃)を伝えにきた宣伝官は威張っていたぞ。もちろん王様の代理だから強圧的になるのは当然だと言えるかもしれないが、その宣伝官は年をとっていたぞ。とすると宣伝官にも階級の低い者から高い者まで何種類もあるのか。このときの李舜臣は三道水軍統制使という従二品ぐらいの高官だから宣伝官も高官が来たのかな?

次に武科に受かって武官になったものは、いきなり指揮官にはならないが、李舜臣の部隊のなかにも指揮官の下に武官が何人もいる。李舜臣が強引に三道水軍の中で武科の科挙を行って水兵や漕ぎ手からも武官に採用した。とすると李舜臣が宣伝官になったのは最初からエリートコースに乗ったと言える。でも彼は何度も試験におちて三十過ぎてやっと丙科という最低クラスで合格したのだ。そのあとも免職になっても返り咲いて萬戸というそこそこの役職についている。これは宰相の柳成龍が幼なじみということが関係しているのかな。試験成績順位にこだわったハンモック制の昭和の日本海軍は失敗したから、李舜臣を7階級上の水軍使(艦隊長官)の抜擢したのは結果として間違ってはいなかったが、やはり縁故人事ではないかと思う。

DVD鑑賞ノート「不滅の李舜臣」[その4]

2009-09-18 19:36:21 | 歴史
青年になった李舜臣は詩文にもすぐれた才能をもった青年になっていた。その地方に中央から役人がきて臨時の別試が行われることとなった。この別試というのは合格者が直接官吏になるものではなく、合格者が成均館という国立大学に入るものらしい。その土地の知事が李舜臣の才能に眼をつけ陥れて息子の代理受験をさせようとするが失敗する。李舜臣は受験しその答案は試験管の部屋に呼ばれて賞賛を受けるほど優秀なものであったが知事から反逆者の孫だと指摘があり落第してしまった。

その後、商団の下働きになったり濡れ衣を着せられておたずねものになったりしたが、権力と癒着した商人の密貿易などの犯罪を暴いて身を晴らした。そのころ王様は宣祖に替わった。柳成龍を兄ともしたっていた宣祖は当初は理想に燃えており、趙光祖の功績を認め冤罪をはらした。これにより李舜臣も官吏になる道が開かれた。李舜臣は武科の試験を受けるが、途中までは抜群の成績であったが試験の合間に暴れ馬から他の人を救ったとき負傷してしまった。そのため試験途中で落馬してしまい、最下位のクラスの合格となった。

これがドラマの内容だ。要するに学問でも非常に優秀な青年だったが家系の問題で科挙には受験できなかった。そのため先祖の名誉回復後に武科の科挙を受けたが、他人を助けるため負傷したので落馬して最下位クラスの合格となったという。つまり文武とも抜群なのだが本人の責任でない事情により30過ぎてからの科挙それも一段低く見られている武科の合格となったというわけだ。

でもウィキペディアの「李舜臣」の記事には次のように載っている。
『李舜臣は、幼い時から勇猛果敢な性格だったが勉学は苦手であったようである。このため、20歳すぎになると、文科は諦めて武科の試験を受けることにした。しかし、試験では、落馬したり、筆記試験に落ちるなどして、合格したのは1576年、32歳のときであった。』

ウィキペディアの方が客観的で正しいように思える。しかしドラマの内容はこのドラマによる創作ではなく伝承として広く信じられているようである。人々の心情としては英雄が実は落ちこぼれだったというのは納得できないのかもしれない。

しかし落ちこぼれだったからこそ、すぐれた水軍指揮官になれたのではないかと思う。太平洋戦争での日本の将官はアメリカ軍からほとんど無能と評価されているが、有能と評価されている数少ない一人に木村昌福少将がいる。彼はキスカ島の撤退作戦を指揮し5200名の日本兵をアメリカ軍に全く気付かれずに救出した。しかし彼は海軍兵学校の卒業成績は118人中107番であった。だから海軍大学にも行ってなくほとんど将官になれる見込みもなかった。彼は上からの早く行えという命令を無視して、天候の変わるのをじっと待った。自分の判断でことを行うことはこれ馬鹿にはできない。李舜臣も王様が釜山の日本軍を攻撃せよと何度も命令をくだしても頑としてまだ時期ではないと拒否したところと似ている。

ではなぜ落ちこぼれの方が馬鹿でなく正しい行動ができるのか。青森県立保健大学の羽入辰郎教授が「支配と服従の倫理学」(ミネルヴァ書房)という本を出している。大学での講義をそのまま本にしたものなので読みやすい。その本の中で、東大は馬鹿ばっかりで驚いたことを書いている。その原因は『十代の終わりにものを考えなかった人間というのは、実は一生なにも考えない。考えているかのようなポーズを取ることだけは見よう見まねで覚えるが――さもないと、ただの馬鹿なのがバレる――しかし、本当に考えることは出来ない。十代末期まで受験勉強のシステムに乗っかり続けることの出来た人間というのは、ものを考えることはその間一度たりともなかった、ということが証明されてしまっている人間ということである。』(p.215)

DVD鑑賞ノート「不滅の李舜臣」[その3]

2009-09-17 20:12:59 | 歴史
第1章「青年時代」の導入部分で李舜臣が鉄砲に撃たれたあと、物語は李舜臣の少年時代にさかのぼる。そこでびっくりしたのは、李舜臣と元均が幼なじみで深い絆で結ばれていたようになっていたからだ。宰相になる柳成龍(ユ・ソンニュン)とは幼なじみで彼が李舜臣を水軍司令官に推薦したことは史実として知っていたけど、元均まで幼なじみとは信じられなかった。だって李舜臣と元均は水軍のライバルで鋭く対決して、李舜臣の日記では元均を激しく非難しているのだから。ドラマを面白くするための脚色としても行き過ぎではと思った。でも書店で朝鮮史の人物事典をみたら李舜臣と元均は同じ村の出身と書いてある。親しかったかどうかは不明だが両班だから顔見知りではあっただろう。

ドラマでは、少年の李舜臣は5歳ぐらい年上で戦争ごっこのリーダの元均にあこがれているが、小さいので仲間に入れてもらえない。やがていろんなことから李舜臣は元均に認められ友人になる。李舜臣の家は祖父が中宗のときの趙光祖(チョ・ガンジョ)の失脚に連座して処刑された反逆者の家系。そのため元均の母が息子の李舜臣との交遊をいやがり、塾の先生に圧力をかけて李舜臣をやめさせる。元均と前々から李舜臣を気にかけている柳成龍はこれに抗議して塾をやめる。まもなく李舜臣の一家は母の故郷の牙山へ引っ越してゆく。

ところで趙光祖の失脚にともない多くの官僚が粛清された事件を己卯士禍という。以前に紹介した「換局」というのは役人の派閥(学閥)間の政権交替だが、「士禍」というのは勲功官僚による士林(儒教学者)官僚の弾圧だ。勲功官僚というのは政権樹立に功績があって地位と領地を得た者とその子孫だ。朝鮮王朝の成立に功のあったものは開国功臣で、暴君を倒して中宗を立てたのが靖国功臣という。まあどちらも倒されたほうの王朝や王様からみれば反逆者の犯罪人なのだけれどね。それで何が言いたいかというと、河村市政あるいは民主党政権は換局なのか士禍なのかということ。住民や国民のためを公務員職務の第一と考える役人の潮流が生まれなければ、ただ単に特権や給料が削られたと被害者意識だけを持つ役人が増える士禍になってしまう。

♪プレーボーイ、プレーガール、勝手な真似するな、勝手な真似するな・・・・
 みんなが行くから大学行くやつ、大学いくな、大学行くな・・・。
 生活が安定するから公務員なるやつ、公務員なるな、公務員なるな・・・