セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:山本博文「お殿様たちの出世」(新潮選書)

2007-07-01 18:45:59 | 歴史
江戸時代とくにその武士社会について多産な山本博文教授(東大資料編纂所)の最新の著作。山本教授の本はほとんど購入してその大半を読んでいる僕は書店でこの本をみかけて早速購入した。この本のサブタイトルが「江戸幕府老中への道」と書いてあるように、江戸幕府の老中になる譜代大名についての本。
むかし聞いた通説では、徳川幕府は譜代大名でも石高の大きいものには実権をあたえず、比較的石高の小さい大名を老中として実権を与えて、大きな大名が徳川幕府を専横するのを防いだとあった記憶がある。でもこの本を読んでみるとそれは後世の者の俗説だということがわかる。といってもこの本が直接この通説を取り上げて批判しているわけではない。

老中に譜代大名での大大名、たとえば徳川四天王といわれる武将の家がならないのは、それらの家に期待されている役割に較べてはるかに評価の低い役割だからだ。戦国大名から将軍になった徳川家の家臣としての名誉は、軍勢をそろえて徳川軍団の一翼を占めることだ。これに対して老中とはとくに徳川幕府初期では将軍の意を汲んでそれを大名や諸役人に伝える秘書官みたいなもので、武門の家や由緒ある家の者がやるべきものではないからだ。だから石高がそれほど大きくない大名でも由緒ある家や徳川家と血縁のあるものは老中にはならないし、なれない。徳川幕府初期には、将軍の息子に小さいころから使えてきた者達がその子供が世継ぎになると西の丸老中となり、世継ぎが将軍になると老中になった。彼らは多くは数百石からはじまり次第に加増されていった。3万石ぐらいを超えたところで老中となり城持ちとなり、最後は10万石を越えた知行をもらう。

老中になる道の性格が変わるのは将軍綱吉の時から。綱吉は兄の死により将軍になったため、将来の将軍としての自分に仕えてきた者はいない。そのため老中を幕府の役職についている譜代大名から選ぶことになった。ここから大阪城代あるいは京都所司代から老中になるコースが確立して、譜代大名の出世コースが完成した。そうすると老中はそれまでの将軍の意を汲んで行うものから、将軍からある程度自立した官僚組織の頂点となってくる。そのため将軍の意を汲んで老中につたえる側用人というものが必要となり柳沢吉保がその地位に着いたというわけだ。

さてこの本の主題ではないけど、この本を読んで気付いたことをノートしよう。老中になる過程も含めて、譜代大名の国替えが非常に多いことだ。老中になるあるいはなった大名が置かれることが多い土地がいくつもある。いくつかの大名がその土地に移り老中となりまた加増されたり老中をやめたりして去っていく。外様大名はおおむね大きな大名も多く幕府から監視される対象だから、罰せられて石高を減らされるとき以外はほとんど動かないだろう。しかし譜代大名は幕府の都合により簡単に動かされるみたいだ。そうすると譜代大名にとって善政をしいて領地を繁栄させるよりは、出世して別の大きな領地に行こうと考える傾向が出ていたのではと思える。旗本にも言えるかもしれない。そうすると幕府滅亡の原因の一つかもしれない。