セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:門司親徳『空と海の涯で』光人社NF文庫

2012-05-26 16:23:32 | 歴史

これは海軍の短期現役主計科士官に日米開戦直前に任官して、空母「瑞鶴」艦上で真珠湾攻撃に参加して、台湾で終戦を迎えた門司親徳氏(日本興業銀行取締役・丸三証券社長)の回想録である。

短期現役主計科士官というのは、日中戦争に伴う軍拡により不足する事務系及び医学工学系士官を専門知識を持つ大学及び専門学校卒業者から供給しようとした海軍の制度だ。

戦前では20歳になると徴兵検査があり合格するとそのまま兵役につかされる可能性があった。大学生は最長6年間の徴兵猶予があったが、猶予であり免除ではないので卒業したら一兵卒として戦場に赴かなければならない可能性があった。僕の推測だがそれでも平和時は大卒者は甲種合格しても徴兵されることが少なかったと思う。しかし日中戦争の拡大に伴い徴兵検査で合格したら即兵役ということが多くなった。そこに登場したのが海軍の短期現役士官制度だ。徴兵期間に見合う2年間を将校の扱いを受けて過ごせるわけだ。だから戦後には海軍の短期現役士官制度を知識人の温存として評価されることが多い。しかし戦死者が少ないわけではない。大卒者が誰でもなれるのではなく20倍以上の試験があった。国民皆兵の建前から言えば帝大卒でも二等兵というのが原則上正しい気がする。でも戦争遂行の為の目的合理性からいえば専門知識人の士官登用は必要だ。だけど序列重視の海軍の人事が目的合理性にかなっていないことは周知のことだ。だからこの短期現役士官制度も海軍のエリート主義と権威主義という点から見て行くのが正しいのではないか。

僕がこの本を読もうと思ったのは、中曽根康弘元首相もその出身という短期現役主計士官というものがあった事を知っていたので、司令部に近い場所にいた士官とはいえ職業軍人でなく作戦指導にも責任がない知識人の目で日米戦争をどう見てたかを知りたかったからだ。この本は期待以上の収穫であった。というのは、著者自身の戦争地域全域に渡る広範な転勤と、同期生や様々な場所で知り合った海軍将校達の動静により日米戦争全体の様子が分かることと、戦争最終期に副官として大西滝治郎中将に仕えたことで特攻隊の発生事情が垣間見られることである。

本の記述の始めは、昭和16年10月2日に転勤命令のため経理学校卒業後の最初の勤務場所であった戦艦「陸奥」を離れ次の勤務先の新造艦の航空母艦「瑞鶴」に向かう大発(大型発動機艇)の船上からだが、それ以前の著者の経過をたどってみよう。門司氏は同じ年つまり昭和16年3月に東京大学経済学部を卒業してすぐ(4月始めか3月末だろう)に日本興業銀行に入社しているが、なんと4月18日には第6期短期現役主計科士官として中尉に任官して海軍経理学校に入校している。これは戦時体制の日本では徴兵とか短期現役が予定される者でも採用に支障がなくまた徴兵されても首にはならないで復員したときの職場が確保されていると考えられる。ただ日本興業銀行は国策会社だからむしろ積極的に短期現役予定者を採用したかもしれないが、そうでない会社は他の理由をつけてそうした人の採用を敬遠したかもしれない。まあ僕の現代的な発想だが。

第6期短期現役主計科士官といえば、中曽根元首相も鳩山威一郎氏も第6期である。鳩山威一郎氏は鳩山由紀夫元首相の父親で戦後大蔵事務次官のあと政治家になり外務大臣をやった。この本には著者の勤務場所に近隣して勤務している同期生や移動途中や出張先の同期生との交流の他に、この時々のスポットの戦地や艦船にいる同期生の名をあげているが、鳩山氏の名前はでてきたが、中曽根氏の名前は出てこなかった。これは偶然であろう。名前がでてくるのは米軍との戦闘が予想される場所なので鳩山氏が生きて復員したのは幸運に思える。反対に名前が出てこなかった中曽根氏が安全な場所ばかりにいたかと言うと、ウィキペディアによると違うみたいだ。もちろん政治家の自慢話は誇張があるものだけど。

海軍経理学校での修学期間は4ヶ月と短い。もともと基礎学力のある人たちであり兵役の期間が2年なので長い期間は取れないし必要もないのだろう。ちなみに短期現役士官は経理学校入学時にすでに中尉であるが、職業軍人としての経理学校出身者(多分旧制中学卒業後入学)は卒業した時点でも中尉ではない。たぶん少尉でもないだう。この本で「海軍兵学校出身の候補生」という人がでてくるので、兵学校や経理学校を卒業した時点では士官ではないのだろう。短期現役士官というのはもともと社会のエリートであるので海軍でもエリート扱いされるのだろうね。著者の門司中尉は戦艦「陸奥」で1ヶ月ほどの勤務のあと経理学校生徒出身の少尉に庶務主任を譲って転勤している。

門司親徳氏の軍歴をまとめてみると以下のようになる。

昭和16年4日18日  第6期短期現役主計科士官として中尉任官、海軍経理学校入学

昭和16年8月中旬  戦艦「陸奥」に配属、しばらくして庶務主任

昭和16年10月2日  航空母艦「瑞鶴」で主計科庶務主任

昭和16年12月8日 「瑞鶴」艦上で真珠湾攻撃に参加、この後「瑞鶴」にてラバウル方面攻略作戦とセイロン島攻撃に参加

昭和17年5月1日  呉鎮守府第五特別戦隊(呉五特)主計長

昭和17年5月15日  呉五特はミッドウェイ攻略のため輸送船で呉を出港。

昭和17年6月5日  機動部隊がミッドウェイ海戦で敗退、呉五特の輸送船は反転。

昭和17年8月25日  呉五特ニューギニア島のラビ飛行場攻略のためミルン湾に上陸。

昭和17年9月6日 ラビ攻略作戦失敗。呉五特ミルン湾を脱出してラバウルに収容される。

昭和17年11月1日 呉五特解隊。大尉進級と同時に横須賀鎮守府へ異動命令。

昭和17年11月21日  土浦航空隊分隊長。主計科だが特に分担のない分隊長。土浦航空隊は戦闘部隊ではなく教育機関でいわゆる「予科練」。

昭和18年9月 木更津で新設される第五五一航空隊主計長。

昭和18年10月 第五五一航空隊はスマトラ島コタラジアに移駐(一部は近隣のサバン島)

昭和19年2月11日  第五五一航空隊はトラック島へ移駐。

昭和19年8月14日 第一航空艦隊司令長官(寺岡勤平中将)付き副官としてフィリピンのミンダナオ島ダバオに着任。

昭和19年10月10日 副官として次の第一航空艦隊司令長官を台湾まで迎えにゆき新長官大西滝治郎中将と初めて会う。台湾滞在中に台湾沖航空戦(10/12〜16)があり大戦果が発表されたが実際は敵の損害は軽微で日本の航空戦力の消耗が甚大であった。ちなみに第一航空艦隊はフィリピンの航空基地戦力で台湾の航空基地は第二航空艦隊(長官=福留繁中将)

昭和19年10月17日 大西長官とともにフィリピンにもどる。

昭和19年10月18日  連合艦隊司令部から「捷一号作戦発動」が伝達される。「捷一号作戦」とはフィリピン方面に来襲する敵を撃滅する作戦。

昭和19年10日19日  大西長官の伴でマニラ郊外のクラーク基地に行く。大西長官は基地航空隊幹部と翌日にかけて特攻隊について協議。

昭和19年10月20日  最初の特攻隊を編成。大西中将に正式に第一航空艦隊長官の発令。敵のフィリピンへの本格的上陸がはじまる。

昭和19年10月22日  敵上陸船団が集結するレイテ湾突入をめざし水上部隊(栗田艦隊)がボルネオのブルネイから出撃。第二航空艦隊が支援のため第一航空艦隊と合流。

昭和19年10月25日 水上部隊がレイテ湾突入を断念。神風特別攻撃隊敷島隊が撃沈=空母1・巡洋艦1、大火災=空母1の成果をあげる。第一航空艦隊と第二航空艦隊が合体して第一連合基地航空部隊になる。長官は福留中将、幕僚長は大西中将。

昭和20年1月6日  第二航空艦隊司令部のフィリピンからの転出開始。これはフィリピンでの航空作戦終了により台湾が守備範囲の第二航空艦隊を返し、第一航空艦隊は引き続きフィリピンで山籠りして戦う決意。

昭和20年1月8日  第二航空艦隊は解隊してその下の部隊は第一航空艦隊に入り、福留長官は転任となった。中央より第一航空艦隊の守備範囲を台湾まで広げ司令部は台湾に転出せよとの指令がきたことを門司氏が知る。

昭和20年1月10月  大西長官とともに台湾へ転出。フィリピンには残存部隊が残った。

昭和20年3月23日  沖縄地区に敵機動部隊が来襲。沖縄戦が始まる。

昭和20年5月13日  大西長官が軍令部次長に異動のため東京へ行くのに随行する。

昭和20年5月23日 台湾へ戻る。

昭和20年6月15日 一航艦は解隊して、高雄警備府の下に第二十九航空戦隊ができ、司令部付きとなる。

昭和20年8月15日  終戦。翌日に無電で大西長官の自刃を知る。

主計科士官というのは直接的な戦闘要員ではない。だから比較的安全かというとなかなかそうではない。軍艦勤務だと船が沈むと命に関わることは他の乗務員とかわりない。基地航空隊勤務だと敵の空襲により防空壕に隠れることが多いが飛行士よりはかなり安全だろう。問題なのは海軍でも陸上戦闘部隊の主計科士官となった場合だ。部隊の行くところ即ち戦場にも同行することとなる。呉五特がニューギニアのラビ飛行場攻略のためミルン湾に上陸したときがそれだ。これは海軍が主体の作戦だが、同じ時期に始まった陸軍によるガダルカナル攻略(正しくは奪回だけど)とよく似た作戦だ。だからガダルカナルと同じ経過をたどれば、門司氏は餓死か病死していただろう。同じ経過にならなかったと言っても決して勝ったわけではない。むしろ司令始め幹部将校が多数戦死するという大敗である。ガダルカナルよりは早めに断念したため駆逐艦による撤退が可能だったにすぎない。主計科士官だから助かったと言えるとしたら主計科は二次上陸部隊だからだ。二次上陸部隊が上陸した時、司令を始めとする一次上陸部隊はラビ飛行場を目指してジャングルの中を進んでいっていた。だから直接の前線にはいなくて後方にいたと言えるが、それでも敵機の機銃掃射に頻繁にさらされた。この作戦で注目する点は、作戦開始のかなり前から林司令が「地図が欲しい、せめて航空写真を」と訴えていたが与えられなかった。上陸地点も上陸してから予定地でないと気づいたことである。情報軽視ということは真剣さが足りないと思うのだが、これが第二次世界大戦の日本に頻繁にみられる。

第一次世界大戦でもそして日米開戦以前に始まっていた第二次世界大戦のヨーロッパ戦線でも、島国イギリスはドイツのUボート(潜水艦)による通商破壊作戦に苦しめられたことは知られている。だからイギリスと同じアキレス腱を持つ日本は日米開戦にあたって対潜水艦対策が必須なのは自明なのだか、開戦前に対潜水艦対策が立てられた形跡がない。船団防衛ための護衛艦隊司令部ができたのは戦争も半ばに入ってからである。そのときはもう時遅しである。すでに莫大な数の船を失っている。これが僕の疑問であったが、この本で理由が分かってきた気がする。

フィリピンでのレイテ湾突入作戦の水上部隊の主力艦が何隻も潜水艦により沈められた時に、著者は以前に乗っていた船がアメリカの潜水艦に沈められた同僚からアメリカの潜水艦について話を聞く。アメリカの潜水艦は4隻が平話(暗号でないということ)で無線電話しながらフォーメーションを組んで攻撃してくるという。アメリカの魚雷は日本の水素魚雷より航跡がはっきり見えるので単独なら回避しやすいがフォーメーションを組まれると回避先にも魚雷が待っていて逃れられない。平話なので日本の艦の通信士にもアメリカ潜水艦の行動が分かるかもしれないが翻訳して艦長に伝える時間的余裕はないだろう。スピーカーで艦長が直接聞くことが可能かもしれないが英語を聞き取れる艦長はあまりいないだろうし聞き取れたところで4隻のフォーメーションには対抗できないだろう。

著者はアメリカ潜水艦乗組員の敢闘精神に感心する一方、いままで自分たちが聞かされてきたことが全くの誤りである事を知らされる。それは「潜水艦に乗れるのはドイツ人と日本人だけだ。アメリカ人は嫌がり乗組員がいないのでアメリカは潜水艦部隊を作れないからアメリカの潜水艦は心配しないでよい」というもの。なんと馬鹿げたご都合主義の考えだ。これは僕が思うに海軍内で対潜水艦対策の必要性を主張すると、それならお前がやれと言われて、戦艦や機動部隊の花形部署から飛ばされかねないのでアメリカ潜水艦の脅威をことさら考えないようにしたのではないかと思う。

明らかに馬鹿げた考えがまかり通るのは軍国主義の昔だけではない。現代日本の現在進行形でもある。「日本の国債は大部分を日本国内で買っているから大丈夫。国債は負債でもあるが財産でもある」という主張はあきらかに馬鹿げている。日本国内で買っているということは国内金融機関が買っているという事とほぼ同じなのだが、投機筋が売り浴びせにくい点があるが、動き始めると全体が一期に動くのも日本の特徴。そうした場合は政府や日銀の資金補給が不可能になる。

特攻隊の成立についておやっと気がついたのは、特攻隊はまず当面の水上部隊のレイテ湾突入を助けるための急場の策として考えられたということだ。大西長官がフィリピンに着くなり長官就任よりも前にクラーク基地に特攻隊編成のために向かったのは、あらかじめ東京で軍令部の許可を得てきていると思われるが、ひとえに捷一号作戦の水上部隊のレイテ湾突入を成功させるために敵機動部隊の動きを一時的にも封じるため航空機による「決死隊」を作るためだ。だから特攻の決行日は水上部隊のレイテ湾突入予定日の10月25日より前と決められていた。実際の特攻は予定最終日ギリギリの25日でも水上部隊がレイテ湾突入を断念して反転した後であったが、一航艦司令部や軍令部は多数の航空機を失っても久しく無かった戦果が少数機部隊で得られたことによりどん詰まりの戦争の行方に光明を見た思いになり以後特攻戦術にのめり込んで行く。

大西長官が麾下の航空部隊に訓示した内容が残っている。門司氏が副官として訓示をガリ版刷りにして各部隊に配布したのでそのまま残っているのだ。これにより戦争末期の軍事指導者の思考がよく分かる。玉砕とは自軍の全滅という敗北なのになぜ宣伝され称えられる理由もわかる。大西長官のいうには、多くのアメリカ兵を殺せばアメリカでは反戦世論がわきあがり向こうから戦争終結を求めてきて日本が勝利するというもの。日本人は何人死んでも屈しないがアメリカは違うということか。しかし戦死者数に見合うかで判断するならそれはそれで戦争についての目的合理性にかなっている。死んだ英霊のために負けられないという口実で、実は軍人の面目や功名心のために国家が戦争の方向を目的合理的に決められないとしたらその先は滅亡しかない。しかし大西長官の予測は別の方で実現したのかな。アメリカ兵の戦死者の増大に耐えられないから原爆を落としたとアメリカ人は言っているもの。