セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

みんな知ってるのかな来年の住民税率10%化

2006-12-17 21:52:11 | 社会経済
昨日の「ウエークアップ」も今日の「サンデーモーニング」も、来年の企業の減税と個人所得税の定率減税の廃止はふれるけど、住民税率の一律10%化には触れないな。大きな変化のはずだが・・・
実は僕もこの間までは知らなかった。いや住民税の定率化について聞いたような気もするが・・・・。はっきりオヤと思ったのは、12月初めに職場で市の広報紙を見た時だ。国から地方への財源移譲のため、住民税率を一律10%に増税してその分国の所得税率を減らすということだ。所得税は平成19年1月から、住民税は平成19年6月に徴収される分からだ。住民税で増えた税率分を所得税から差し引いてトータルの税率は同じとなる。個々人において旧制度で計算された税額と新制度の税額は同じになるという。実は税率の合計が同じでも、所得税と住民税では基礎控除や扶養控除等の人的控除額が違うため、控除後の課税所得が異なるため税率の合計が変わらなくても税額は大きくなるはずだが人的控除による変動も調整して、どの所得段階の人も旧と新の両制度での税額をぴったりと同じにするらしい。
でも不思議だな。テレビでもほとんど聞かないし、市の広報紙も全市共通のページではなく職場のある区のページに載っていた。そのうえ住んでいる区の広報紙には載ってなかった。ということは大部分の市民は知らないということか?インターネットで検索する国の関係機関らしきところから1箇所説明があった。でもとにかく国関係でも載っているから間違いではなさそう。
19年分所得税と19年度住民税はどちらもほぼ同じ期間に支払うので、市民の財布という担税力では損得が無いように見えるが、課税の対象となる所得でみるとおかしいぞ。所得税は19年つまり来年の所得についてから税率が変化するが、住民税の19年度分はその課税対象の18年つまり今年の所得についての分から増税となる。つまり今年の所得については所得税については旧制度の高い税率で課税になり、住民税では新制度のこちらも高くなったあとの税率で課税となるわけだ。つまり18年中の稼ぎについては大幅増税となるわけだ。財政当局の窮余の一策か?9室に10人泊めるホテルというマジックみたい。
国民は毎年財布から出るお金が変わらないので損した気にはならないかもしれない。また19年1月から5月の間は給料から源泉徴収される税金が少なくなり、住民税は変わらないので得した気分になるかも。では損をしていないのかと言うと、僕の考えでは、それから後で退職などして所得が激減したあとに前年の所得にもとづいた住民税が来た時だろう。では国とか地方自治体のほうにはその住民からの増税分が具体的にどのようにまわってくるのかはよくわからない。研究課題だ。これを立案した国の担当者はわかっているかもしれないけど。
18年度に老年者控除の廃止や公的年金の特別控除の縮小などで、老年者の税額が増えて、それにもとづいている国民健康保険料が大幅に増えた高齢者が多くいて話題になった。来年度の場合は、全般に元々課税の人が同様に住民税が増えるので、住民税に掛けて保険料の所得割を計算する料率が低くなるので保険料自体はあまり変わらないかな。それとも最高限度額の人あたりに変化があるかな、

映画鑑賞ノート:山田洋次監督「武士の一分」その2

2006-12-06 22:39:44 | 文化
藤沢周平の原作が「武士の一分」という題名でないということを知り、原作ではどのように武士の一分ということが取り扱われているかを知りたくて原作の「盲目剣谺返し」を読んでみた。読む前は映画がハッピーエンドなので、映画のほうが原作よりもいいかもしれないと思っていたが、違った。原作のほうがずっとよく、映画のほうはかなり原作と違う設定にそれも僕に言わせれば通俗化とか歪曲されていることがわかった。
まず敵役の身分の高い侍は、映画では切れ者の実力で出世した人物で通常主人公とつながりのない人物となっているが、原作では主人公の上司で能力はあるが女癖が悪いとの評判の人物だけど名家の出身なのでそこそこの地位についている人物となっている。山田洋次監督は黒澤明の「椿三十郎」の仲代達也が演じた悪役を意識して改ざんしたのではないかと思う。それから主人公の妻の姦通も、映画では強姦に近いものだが、原作では好色の上司が薄笑いを浮かべて代償を求めて妻が「死んだ気になった」としても「身をまかせた」とある。
主人公の性格も違うぞ。「三十石」という言葉も出てくるが、映画では「たかが三十石のために」と妻を非難するために使っていたような気がするが、原作では「わずか三十石の家、召し上げられて、路頭に迷うとも何のことがあろう。妻を盗み取った男の口添えで保った家かと思えば、吐気を催す。この家、捨てたがましじゃ」と似ているが力点の置き方がちがう。また決闘の場面でも、原作では相手が妻をだまして何もしなかったことの不満の繰言を言っていない。
剣の鍛錬も違う。映画では盲目の主人公が師匠から稽古と必死のアドバイスを受ける場面があるが、原作では盲目になってから師匠を訪れていない。自分で鍛錬して盲目でも飛来する小虫を打ち落とすまでになっていて、その流派の伝説の「谺返し」という技に近づいたどうか考えていた。山田監督は必死ということを強調するために、原作の必殺技の存在を無視したのだろう。
原作では会話に方言は使われずいわゆる武家言葉で話されている。映画では方言を使いそれで庶民性のリアリティを計ったのだろう。しかし全体として原作での主人公の素直でまっすぐな性格が、山田監督の余分な改作で俗っぽい点ちらほら出てきている。「庶民」を描かなくてはという山田監督の強迫観念が、心の本性に根ずくものでなく、イデオロギー的なものなので、逆に卑属の観念の進入に無防備なのだ。

映画鑑賞ノート:山田洋次監督「武士の一分」

2006-12-04 21:36:22 | 文化
日曜日に映画「武士の一分」を観たので忘れないうちに思いついたことを書こう。あくまで思いついたことなので映画批評とはちがう。
この映画は山田洋次監督が藤沢周平の時代小説を原作にした映画の第三弾だ。藤沢周平の作品は新井白石が主人公の「市塵」と上杉鷹山の主人公の「漆の実のみのる国」を読んだことがあるが、暗いというか悲しいというかそんな雰囲気が好きではなく他にあまり読んでいない。山田洋次監督の藤沢作品シリーズ第一作映画「たそがれ清兵衛」についても、主人公が最後の場面になるまでにもっと別の行動の選択があったのでないかという気がする。いいかえれば最初に正しい行動をしなかったら後で追い詰められた場面で悩まなければならなかったのではないかと思う。
映画「武士の一分」に戻るけど、この映画はハッピーエンドでよかった。不義で離縁した妻と最後によりを戻したのだから。でもそうなるとこの映画及び原作の「武士の一分」というタイトルとは齟齬が出てくるぞ。武士の一分とは武士の絶対に譲れない面目のこと。武士の面目とはなにかというと、臆病とか卑怯とかで侮られないこと。時代により変化はあるけど武士とヤクザはメンタリティにおいて共通している。侍=ヤクザ論があるほどだ。つまりなめられたら生きていけないということ。女敵討ち(めがたきうち)つまり妻の姦通の相手を討ち取ることは武士の一分に違いない。でもそうだとするとその前に裏切った妻を殺さなければならない。そうしなければ臆病者といわれる。だから離婚で済ませるのはおかしい。それに映画で主人公は相手を討ち取る理由が「妻をだました」と妻のための復讐らしい。この怒りは人間として共感できるが、おのれが侮られたという武士の面目の問題とは関係ない。だから妻を殺さない点と姦通の相手を討ち取る理由の問題でこれは「武士の一分」とは関係ない。まあ武士の一分とは違うかもしれないが、人間的でいいと思いたいのだがでも見過ごすにはひっかかる点がある。主人公の言葉のなかに、「たかが三十石のために」とか、「妻をだまして何もしなかった」とかの言葉があった。え?もっと高禄の家の存続のためだったら妻が権力者に身を任せてもいいの。本当に妻の不義の相手が殿様に口を効いてれば納得できたのか。
この言葉は武士の一分にも人間的な倫理にも合致していないぞ。ふとした言葉にこの世のしがらみが出てくる。逆に言えばこれが深層にあるため藤沢作品がサラリーマンに受けている理由かな。