青年になった李舜臣は詩文にもすぐれた才能をもった青年になっていた。その地方に中央から役人がきて臨時の別試が行われることとなった。この別試というのは合格者が直接官吏になるものではなく、合格者が成均館という国立大学に入るものらしい。その土地の知事が李舜臣の才能に眼をつけ陥れて息子の代理受験をさせようとするが失敗する。李舜臣は受験しその答案は試験管の部屋に呼ばれて賞賛を受けるほど優秀なものであったが知事から反逆者の孫だと指摘があり落第してしまった。
その後、商団の下働きになったり濡れ衣を着せられておたずねものになったりしたが、権力と癒着した商人の密貿易などの犯罪を暴いて身を晴らした。そのころ王様は宣祖に替わった。柳成龍を兄ともしたっていた宣祖は当初は理想に燃えており、趙光祖の功績を認め冤罪をはらした。これにより李舜臣も官吏になる道が開かれた。李舜臣は武科の試験を受けるが、途中までは抜群の成績であったが試験の合間に暴れ馬から他の人を救ったとき負傷してしまった。そのため試験途中で落馬してしまい、最下位のクラスの合格となった。
これがドラマの内容だ。要するに学問でも非常に優秀な青年だったが家系の問題で科挙には受験できなかった。そのため先祖の名誉回復後に武科の科挙を受けたが、他人を助けるため負傷したので落馬して最下位クラスの合格となったという。つまり文武とも抜群なのだが本人の責任でない事情により30過ぎてからの科挙それも一段低く見られている武科の合格となったというわけだ。
でもウィキペディアの「李舜臣」の記事には次のように載っている。
『李舜臣は、幼い時から勇猛果敢な性格だったが勉学は苦手であったようである。このため、20歳すぎになると、文科は諦めて武科の試験を受けることにした。しかし、試験では、落馬したり、筆記試験に落ちるなどして、合格したのは1576年、32歳のときであった。』
ウィキペディアの方が客観的で正しいように思える。しかしドラマの内容はこのドラマによる創作ではなく伝承として広く信じられているようである。人々の心情としては英雄が実は落ちこぼれだったというのは納得できないのかもしれない。
しかし落ちこぼれだったからこそ、すぐれた水軍指揮官になれたのではないかと思う。太平洋戦争での日本の将官はアメリカ軍からほとんど無能と評価されているが、有能と評価されている数少ない一人に木村昌福少将がいる。彼はキスカ島の撤退作戦を指揮し5200名の日本兵をアメリカ軍に全く気付かれずに救出した。しかし彼は海軍兵学校の卒業成績は118人中107番であった。だから海軍大学にも行ってなくほとんど将官になれる見込みもなかった。彼は上からの早く行えという命令を無視して、天候の変わるのをじっと待った。自分の判断でことを行うことはこれ馬鹿にはできない。李舜臣も王様が釜山の日本軍を攻撃せよと何度も命令をくだしても頑としてまだ時期ではないと拒否したところと似ている。
ではなぜ落ちこぼれの方が馬鹿でなく正しい行動ができるのか。青森県立保健大学の羽入辰郎教授が「支配と服従の倫理学」(ミネルヴァ書房)という本を出している。大学での講義をそのまま本にしたものなので読みやすい。その本の中で、東大は馬鹿ばっかりで驚いたことを書いている。その原因は『十代の終わりにものを考えなかった人間というのは、実は一生なにも考えない。考えているかのようなポーズを取ることだけは見よう見まねで覚えるが――さもないと、ただの馬鹿なのがバレる――しかし、本当に考えることは出来ない。十代末期まで受験勉強のシステムに乗っかり続けることの出来た人間というのは、ものを考えることはその間一度たりともなかった、ということが証明されてしまっている人間ということである。』(p.215)
その後、商団の下働きになったり濡れ衣を着せられておたずねものになったりしたが、権力と癒着した商人の密貿易などの犯罪を暴いて身を晴らした。そのころ王様は宣祖に替わった。柳成龍を兄ともしたっていた宣祖は当初は理想に燃えており、趙光祖の功績を認め冤罪をはらした。これにより李舜臣も官吏になる道が開かれた。李舜臣は武科の試験を受けるが、途中までは抜群の成績であったが試験の合間に暴れ馬から他の人を救ったとき負傷してしまった。そのため試験途中で落馬してしまい、最下位のクラスの合格となった。
これがドラマの内容だ。要するに学問でも非常に優秀な青年だったが家系の問題で科挙には受験できなかった。そのため先祖の名誉回復後に武科の科挙を受けたが、他人を助けるため負傷したので落馬して最下位クラスの合格となったという。つまり文武とも抜群なのだが本人の責任でない事情により30過ぎてからの科挙それも一段低く見られている武科の合格となったというわけだ。
でもウィキペディアの「李舜臣」の記事には次のように載っている。
『李舜臣は、幼い時から勇猛果敢な性格だったが勉学は苦手であったようである。このため、20歳すぎになると、文科は諦めて武科の試験を受けることにした。しかし、試験では、落馬したり、筆記試験に落ちるなどして、合格したのは1576年、32歳のときであった。』
ウィキペディアの方が客観的で正しいように思える。しかしドラマの内容はこのドラマによる創作ではなく伝承として広く信じられているようである。人々の心情としては英雄が実は落ちこぼれだったというのは納得できないのかもしれない。
しかし落ちこぼれだったからこそ、すぐれた水軍指揮官になれたのではないかと思う。太平洋戦争での日本の将官はアメリカ軍からほとんど無能と評価されているが、有能と評価されている数少ない一人に木村昌福少将がいる。彼はキスカ島の撤退作戦を指揮し5200名の日本兵をアメリカ軍に全く気付かれずに救出した。しかし彼は海軍兵学校の卒業成績は118人中107番であった。だから海軍大学にも行ってなくほとんど将官になれる見込みもなかった。彼は上からの早く行えという命令を無視して、天候の変わるのをじっと待った。自分の判断でことを行うことはこれ馬鹿にはできない。李舜臣も王様が釜山の日本軍を攻撃せよと何度も命令をくだしても頑としてまだ時期ではないと拒否したところと似ている。
ではなぜ落ちこぼれの方が馬鹿でなく正しい行動ができるのか。青森県立保健大学の羽入辰郎教授が「支配と服従の倫理学」(ミネルヴァ書房)という本を出している。大学での講義をそのまま本にしたものなので読みやすい。その本の中で、東大は馬鹿ばっかりで驚いたことを書いている。その原因は『十代の終わりにものを考えなかった人間というのは、実は一生なにも考えない。考えているかのようなポーズを取ることだけは見よう見まねで覚えるが――さもないと、ただの馬鹿なのがバレる――しかし、本当に考えることは出来ない。十代末期まで受験勉強のシステムに乗っかり続けることの出来た人間というのは、ものを考えることはその間一度たりともなかった、ということが証明されてしまっている人間ということである。』(p.215)