セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:村井淳志「勘定奉行 荻原重秀」(集英社新書)

2007-03-25 20:14:57 | 歴史
五代将軍綱吉の時代に幕府の勘定奉行として辣腕をふるった荻原重秀についての歴史の本。著者の村井氏は金沢大学の教育学部の教授。専門は歴史教育とのことなので関連がないわけではないが一寸意外な気がしたが「あとがき」を読んでその辺の事情がわかった。吉村昭の歴史小説に傾倒していた村井氏は自分でも歴史小説を書こうとおもい、その業績について通説では非難が多いが村井氏は評価していた荻原重秀を主人公に選んだのだ。しかしながら書き始めてすぐに人物描写などで自分には無理だと気付いた。でも小説の準備のリサーチのなかで明らかになったことを世に示したいとおもいこの本を書いたわけだ。

荻原重秀というと元禄時代の貨幣改鋳で有名だ。要するに通貨(金貨・銀貨)に含まれる金や銀の量を減らすこと。改鋳することによって貨幣に含まれる金銀の減少分の価値が幕府の増収となる。元禄の改鋳後に物価が騰貴したため、庶民の犠牲にとって幕府の増収を図ったと後世の評価は悪い。しかし荻原は姑息な考えで貨幣改鋳を考えていたのではない。現代の経済学つながる貨幣理論にもとづいていたのだ。村井氏がこの時代の物価騰貴を検討してみると、その原因は天災などによる不作による農産物の供給が少なくなったことが大きく、それを除いた物価の上昇は年率2~3%にすぎない。したがって物価騰貴は貨幣改鋳の結果ではない。では幕府の増収はどこから来るのかというと、村井氏によれは金貨銀貨を大量に保有している大商人の懐からだ。大商人が多量に持っている金成分の多い旧小判も国家(幕府)の通貨管理により金成分の少ない新小判とおなじ貨幣価値しか持たなくなるからだ。だから金持ちからの増税というわけだ。なお経済規模の拡大により通貨供給量を増やす必要性については荻原に批判的な経済史家も認めている。

しかし荻原は後世の人多くが考えているような貨幣改鋳ということだけで幕府財政に貢献したのではない。天領の検地と代官の整理粛清。佐渡金山の経営体制の改革。長崎貿易の輸入代金の金銀を銅輸出に切り替え金銀の国外流出を防ぐ。天災や大仏殿再建を名目とした幕府のタブーであった大名領への実質課税。五百俵以上の切り米取りを知行持へ変えることを口実とした旗本の大幅な配置換えによる旗本の小大名化の防止などである。

荻原の後世の評価が悪い原因のひとつは新井白石による非難である。白石は荻原が26万両の賄賂を受け取ったと「折りたく柴の記」に書いているがその根拠はない。五代綱吉がなくなり家宣が将軍になりそのブレーンの白石が政治に参画してきた。白石は通貨改鋳を元に戻すことと荻原の罷免を家宣に要求する。だが白石の行動には常軌を逸している点がある。罰せられないのなら自分の手で殺したいと書いている。また天災などで幕府財政が逼迫したので貨幣改鋳はやむをえなかったのではという意見に、貨幣改鋳など行うから天災が起こるのだとオカルトチックなことを言う。家宣は白石の荻原罷免要求を退けてきたが、病気で心身ともに衰弱した時に白石の要求を認め荻原を解任する。その数日後家宣はなくなった。

異常な白石の荻原への憎悪は政策上からだけのものかは不明だ。だが村井氏は興味ある事実を書いている。白石は以前に綱吉政権初期の大老堀田正俊に儒学者として使えていたことがある。堀田正俊は綱吉より勝手方老中に任ぜられ幕府の財政の責任者となっていた。そのころ荻原は勘定組頭という役職で勘定奉行所に勤めていた。つまり同じころ白石は家臣として、荻原は部下として同じ堀田正俊に仕えていたことになる。そのころ二人になにか接点がありそのことが尾を引いている可能性がある。白石は家宣が将軍になる前の甲府時代のことは書いているが、堀田家に勤めていたことのことはほとんど書いていない。なにかいやなことがありそれに荻原も関係していたのかもしれない。

以前に白石を扱った「市塵」という藤沢周平の小説を読んだことがある。なんか白石の人生が暗い感じがした。これは藤沢周平の書き方かと思ったが、白石の人生自体にその原因があるのかもしれない。

読書ノート:伊東潤「武田家滅亡」(角川書店)

2007-03-17 21:48:40 | 歴史
なかなかおもしろく読み応えのある本であった。この本を書店でみかけて買って読もうと思ったのは、ひとつには本の帯に評論家が絶賛していたことだが、他の理由は直前に読んでいた雑誌「歴史群像」4月号の記事に甲州の戦国大名武田家が滅亡するのに深く関係していた謙信死後の越後上杉家の2人の謙信の養子による争いがあって、その辺の事情に興味をもっていたからだ。
武田家が滅亡する直接の要因は、信玄死後の当主の勝頼が越後上杉家の内紛に際して、同盟を結んでいた北条氏政の弟の上杉景虎を援助しないで上杉景勝を事実上援助したため、武田家と北条家との同盟関係が破綻したからだ。
上杉謙信は突然に亡くなったため後継者を誰にするかのはっきりとした遺言を残していない。だが謙信の扱い方をみると景虎を世子のようにあつかい景勝は親族代表のような感じである。そのためか敵対していた北条家出身にもかかわらす景虎の支持者は古くからの上杉(長尾)家の家臣と北条領と境界付近に所領を持つものが多かった。謙信の血縁者の景勝の支持者は最近に上杉家に加わった者が多かった。
本来ならば景虎が圧倒的に有利なのだ。最初は景勝より多くの領主が支持した。隣国には景虎の兄氏政が当主の北条家とその同盟者の武田勝頼がありその兵力は大きい。ではなぜ負けたのかというと、
①景勝の行動がすばやく春日山城の庫を押さえたことで、兵糧、武器、資金を押さえてしまった。このためしばらくは景勝と景虎は春日山城の城郭で対峙していたが補給ができないため景虎は春日山城を出て御館という前関東管領の館に移る。だから「御館の乱」という。
②北条氏の軍が越後領内に入れなかった。北条氏の領国から越後への入り口には景勝の実家の上田長尾家があり頑強に抵抗したのと、季節から長期間滞在すると雪で補給が途絶え全軍飢え死にする可能性があり引き返してしまったからだ。これは「武田家滅亡」の解釈。「歴史群像」では北条氏政は越後が疲弊してから魚父の利を得ようとしたとの解釈。
③武田勝頼が景虎を裏切り景勝と結んだことだ。武田の軍勢は数日で春日山城に着くところまで来ていた。そのまま進軍して景虎に加勢すれば勝負は決まっていただろう。ところが勝頼は同盟者の北条氏政とその弟の景虎を裏切ったのだ。形としてはあからさまな裏切りではなく、突然に景勝と景虎の間を取り持つといって進軍を中止したのだ。その理由は「武田家滅亡」も「歴史群像」で共通しているのは、武田家は軍事費が枯渇していたため、景勝からの資金提供の話にのったのだ。その他に「武田家滅亡」では小説として、勝頼が北条氏出身の正室の桂姫と景虎の仲に疑念と嫉妬を感じたからだとしている。
④景勝のまめな宣伝と調略活動。景勝は無口で笑わない人間として知られているが、この戦いでは各地の豪族にたくさんの手紙を書いて味方になるように説得している。また本当はないと思われる謙信の遺言状で後継者に指名されていると盛んに宣伝していた。
⑤これは僕の感想だが、当たり前のことで、景勝の方が戦は強かった。景虎のほうから何度も攻撃に打って出るがそのたびに大きな犠牲をだして敗退している。
こうして景虎は自刃して、景勝が勝利した。景勝は武田勝頼の妹を妻に迎え越後と甲州の同盟ができた。しかしそのため武田家は越後以外の国境に織田徳川北条の敵を抱えることになった。

さて本来の「武田家滅亡」にもどると、この小説は北条家の桂姫が武田勝頼に輿入れするところから始まる。この小説の特長は武田家が滅亡するまでの経過がよくわかるという歴史書としての面の他に、エンターテインメント小説として登場人物の個性や思惑の変化が史実やフィクションのストーリーの展開と絡まっている点である。登場人物も桂姫や勝頼、勝頼の寵臣の長坂釣閑斎などの歴史上の人物の他に、さまざまに策謀する裏切り者の辻弥兵衛、忠臣の小宮山内膳、伊那の地侍の宮下帯刀などがストーリーを盛り上げる。辻弥兵衛の策謀はフィクションだろう。本当にあったと思えない。でも歴史書に残っていないことでこのような意外なことがあったかもしれない。

この本で知ったことは、真田昌幸という真田幸村の父親についてだ。よく知られているのは信長死後の徳川や北条との沼田城の攻防からだが、この本で武田勝頼の下で上野国の方面の武将として大活躍していたことがわかった。
あと本と史実との関係では、上杉景勝と交渉した武田側の武将は、この本では甲陽軍鑑という昔の本の説で長坂釣閑斎としているが、「歴史群像」4月号の記事では、手紙などの資料から武田信豊としている。
それから辻弥兵衛が連絡を取っている徳川家の重臣は本多正信だが、本多正信は三河一向一揆に参加して後に出奔していてこの時期に徳川家に帰参していたか不明だ。すくなくともこの時点で重臣になっていたとは思えないが。

読書ノート:須藤義雄「わたしは特別なのよ! 田中真紀子の実像」

2007-03-03 22:16:50 | 社会経済
田中真紀子衆議院議員の元公設秘書による記録だ。元公設秘書といってもその肩書きで国会周辺での働いた期間はすごく短い。とはいっても田中真紀子議員の新潟県での実質の選挙事務所となっている越後交通の秘書室社員として田中真紀子議員にかかわって期間は長い。
国会議員の中には秘書が長くいつかないという人が時々週刊誌にでてくる。それはたいてい非難めいたニュアンスで語られる。議員の人格に問題があるのか業務がハードすぎるのかは別として、政治を志して秘書になったがやって行けない思った者は次の勤め先を探して去るのだろう。しかし田中真紀子議員の秘書たちの場合は悲劇的でさえある。多くの場合彼らは議員秘書ましてや田中真紀子議員の秘書になりたくてなったわけではない。越後交通あるいは関連会社の社員で社命によりいやいや田中真紀子議員に仕えることになったのだ。そして逃げ出すにせよ首にされるにせよ生活基盤を失うことを意味する。
企業オーナーである田中議員は越後交通などの支配会社を私物化して選挙活動などを行わせている。田中議員は支配している会社から秘書などを供出させ給料を支払わせて、国からの公設秘書に対する給料等を横領していたのだ。それで一時議員辞職となったわけだ。
田中真紀子議員は自分の意に沿わないとすぐ腹をたてるのだが、直接に文句を言わない。でもその場で言わないという意味ではない。本人の目の前でそばにいるものに、「この人は・・・・なのよ、あなたからよく言い聞かせて」と言い、その人物が代わってしかるのを聞くのである。昔の殿様が直接身分の低いものに声をかけないのに似ている。田中議員は口答えされるのを怖がって他の人間に言わせているようだ。
この本で著者は田中議員を「真紀子は、」と呼び捨てにしている。まあその気持ちはわかる。しかしおもしろいのは、田中議員平身低頭の越後交通の社長なども、議員のいないところでの会話で田中議員を「また真紀子が、・・」などと話していることである。ちなみに越後交通内の公式の呼び方は田中真紀子議員は「代議士」、夫の田中直紀氏は「直紀先生」。