セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:三田誠広「桓武天皇」(作品社)

2006-05-27 21:31:33 | 歴史
平安京を造った桓武天皇が主人公の歴史小説。桓武天皇の平安遷都といえば早良王の怨霊伝説が有名だが、この小説はまったく怨霊については触れていない。史実として早良王については神として祭って、また天皇号を追贈しているので、桓武天皇が怨霊を恐れたか、少なくとも非常に気に病んでいたことは明かだが、そこはさらりと飛ばしている。また山部王(桓武天皇)の前に光仁天皇の皇太子だった池戸親王とその母の井上内親王の失脚についても事実だけ書いて山部王がどのようにかかわっていたかは書いていない。つまりこの小説は政治改革者としての姿だけを描いているわけである。
この小説を読んで今まで漠然と思っていたことが違っていたことがわかった。

まず、この本を読む前は、奈良時代というのは天皇家の血を受け継ぐ男子皇族がほとんどいないため女性天皇が何度も出てきたのかなと思っていた。しかし現実には天武天皇系の皇族も天智天皇系の皇族も何人もいたのだ。聖武天皇が娘の孝謙天皇に譲位した時点で、天武天皇系では、安宿王、黄文王、山背王、塩焼王、道祖王、池田王、船王。天智天皇系では白壁王とその息子の山部王のほか、市原王、壱志濃王、神王などがいた。つまり女帝はたしかに繋ぎの天皇かもしれないが、それは幼少の皇族男子しかいないという意味ではなく、自分の近しい者に皇位を譲りたいためのものである。そしてそれがその社会で通ったということは、成年男子皇族がいたとしても彼らが傍系ならば、直系女子又は配偶者を天皇にしてもかまわないということはほぼ当時の常識だったわけだ。

それから平成の女帝論議では、女性天皇では生理のための血の穢れで宮中の祭祀でできないものがあるから困るという議論がある。でも奈良時代の伊勢神宮の斎宮は必ず皇族の未婚女性。つまり祭祀専門の皇族が女性なのだ。さらに白鳳・奈良時代の女性天皇(皇極=斉明、持統、元明、元正、孝謙=称徳)には天皇も女性、斎宮も女性で、そうするとその何十年間か祭祀が途絶えていたのか?おっとこれは飛躍しすぎであった。生理の時期でなければ問題ないと思われるから。そんなときは省略しても問題なかったのだろう。

また女系天皇否定論者の話では、古代より天皇家は染色体の知識を本能的に掴んでいたので男系天皇のみという伝統ができたとのことだ。しかしこの本を読むと、古代では皇室に異母兄妹の間を始め親族同士の婚姻が多かった。しかしこれは皇室だけに限られ、社会全体の風習ではなかったそうだ。また藤原氏の娘が皇后になる前は、皇后は皇族出身者に限られていた。つまり多くの皇子のなかで皇族出身の母の皇子が圧倒的に皇位継承者に有利となる。これをみると、古代では男系女系双方からの血統を重視していたことがわかる。

女系天皇否定論者というのはえらそうに知ったかぶりで話すけど、古代の史実に照らすといい加減な思いつきばかりを言っている気がする。

あ、僕の意見に異議がある人、史実と論理で教えてね。知ることは喜びだから。

また斎藤一人さん本がでた。

2006-05-07 08:58:00 | 文化
この間いろんな本などについて書き込みたいことがなかったわけではないが、なかなか新しい生活時間に対応するライフスタイルを確立できてなく、そうした時間をつくれないでいた。朝早いため夜は早く寝なければいけないのに、ずるずる無駄な時間を使ってしまい、結局一日の自由時間を有効に使ってこなかった。それに連休中も出勤だったし。
ただ早く目が覚める習慣は定着しすぎて、休日の土日でもテレビのニュースショウが始まる朝8時まで寝るつもりで前日夜更かししても朝5時に目が覚めてしまい、そのまま布団の中にいてももう眠れない。そんなわけで、朝早くめが醒めたので、久しぶりに書き込むことができる。でもやはり寝不足で頭がすこし痛い。

斎藤一人さん本が、また1冊出たので買って読んだ。遠藤忠夫「斎藤一人 天才の謎」。著者は例によって斎藤一人さんのお弟子さんの一人(アレ?)。
でもこのお弟子さんたちの本をみていつも思うことがある。本の著者の紹介でいつも、その地域やあるいは全国の「高額納税者の常連」という記述がある。出版社の意向かもしれないけど、それがなにか評価の基準になっているのかな。それにこのお弟子さんたちすべて斎藤一人さんの「銀座まるかん」関連の仕事をしている。それがちょっと残念なこと。だってうがった見かたをすれば、みんな一人さんのおこぼれで高額納税者になっているけど他の仕事をしていたらそんなに成功しなかったのではないかとも言えるから。

でもね、本でみる一人さんの考えはすばらしいよ。「弟子」という言葉から過度に思想的な面のみを見てしまうが、この場合の「弟子」とは一人さんと同じ仕事をしているため日常的に接触する機会が多いという意味にとればいいだろう。斉藤一人さんの考えに共鳴する人は全国にかなりいて、「ファン」と呼ばれていて「弟子」ではない。純粋に思想的な面では斎藤一人さんは弟子をもたないかもしれない。なぜなら斉藤一人さんの考え方はだれもが持っているが曇らされて発揮できていないものかもしれない。だから一人さんの考えは一人さんの発明ではないので、一人さんとファンは同じ考えを求めるご同朋ということ。おお、ここまでくると、親鸞が、自分は弟子を一人も持たない、といったことを思い出す。(というよりも親鸞のことから斎藤一人さんのことを類推したけれど。)

親鸞で思い出すのは、歎異抄で親鸞が、つらつら思うに阿弥陀如来の本願は自分の一人のためにある気がする、と言ったことだ。これは宗教的には敬虔主義な態度だ。外部からの理屈やイデオロギーにより帰依するのではなく、直接に自分自身が阿弥陀物(神、良知、サムシング・グレート等)に向き合う。ひょっとしたら斎藤さんの名前はこの親鸞の言葉から取られたのではないのだろうか。