喪脚記 その1 発病
コロナ下お見舞いがほぼ禁じられている今、病状を電話で伝えようとしても「入院したよ」「右足を切ったよ」など平坦なものになってしまう。そこで文として記録に残し関係ある人も関係無い人も読んでもらって、もって医学の進歩と人類の福祉に貢献したい。そんなわけないかエヘ!
タイトルは、権力者でもないのに失脚記はおかしいし、走っていたわけでもないのに失足記(失速記)でもおかしい。交通手段を失ったという意味がある喪足記でもおかしい。よって喪脚記とした。
令和4年4月28日木曜日の夕刻突然右足が痛くなった。このところ右足にトラブルをかかえることが多かった。でもそうした時は医者にかかっても検査だけしているうちに痛みが収まっていて、とくに治療がなく説明だけ聞いていた。でもいま考えると、曜日で担当が違うにしても同じ医院の医師が同じ部位についての所見が違うことに気がついた。
昨年エアポートウオークの和式トイレで歩けなくなった時は隣接の映画館内で数時間休憩したら駐車場まで歩いていけた。そして自宅近くの整形外科医院で受診した。その時の診断では、しばらく使わなかった筋肉がビックリして痙攣したというもの。これは和式にトイレに入った外国人の婦人がたてなくなった、という話しを読んでいたので納得した。
その後、家でYouTubeをみていると、足の痛みは動脈硬化が原因という内容だ。なるほどと思いそれからは風呂に入っても足のマッサージにこころがけた。
最後に整形外科医院にいったのは4月23日土曜日である。土曜日の朝足が痛くなったがその整形外科医院は午前中はやっていることに気がついた。さっそく受診すると、レントゲンを撮られた。医師に動脈硬化が原因でしょうか、と聞いたところ、「いや、あなたの場合は背骨を走っている神経の問題だとおもいます。実際その方が多い。」だが先生はなにか釈然としないものを感じたらしく「大きな病院でMRIを撮って焼いた物を見せてください。MRIの予約はこちらでします。」
かくして翌週の4月27日水曜日に旭労災病院でMRIを撮り先生の次の出勤日である連休あけの5月14日土曜日に先生の診察を受けることとなった。
皮肉なものだ。あの整形外科医院にMRIがあってすぐに病相がわかりすぐに処置できたなら。また旭労災病院のラジエーションハウスが依頼された撮影だけでなく画像の診断も行っていたならば今でも僕の足は2本あったかもしれない。
連休の存在は実際には意味を持たない。連休のない場合の先生の最短の出勤日は4月30日だがすでに僕は4月28日に発病していたから。
僕が申し訳なく思うのはいろいろお気遣いいただいたのにこんな結果になってしまって、先生が負担など感じないかということ。
制度とか勤務体系のなかで先生はベストをつくされた。それに僕は今の状態に特に不満はありません。人生の新しいステージに入ったと思っています。あのままだと古いステージの上で「昔はよかった」の愚痴を口へにしながら意外に早く朽ち果てる気がします。
喪脚記 その2 救急入院
発症時に戻ろう。寝れば治ると考えて一旦寝ようとしたが、どうも治まりそうにない。右足がぱんぱんに膨れてしかも感覚が全くなくなっている。独居老人としてはより早く自発的に救急車を呼ぶべきではないのかと考えた。自分で連絡をとれない状態になってはアウトである。そこで救急車を呼んだ。救急車内ではかかりつけの病院はないかと聞かれたので旭労災病院と答えた。救急隊と旭労災病院との通話では旭労災病院いわく「それは手術が必要な病状と思われるが、当院では手術ができない。別の所をあたってほしい」とのことであった。かくして昭和区にある第二赤十字病院へ行くこととなった。実は第二赤十字病院は八事霊園へのお墓参りの途中にあるのでよくその前を通っている。いつもその威風堂々の外観には関心していた。旭労災病院も最近増改築していたが第二赤十字病院と較べると遜色がある。
第二赤十字病院は深夜12時前に着いたと思うがハッキリしない。国民保険証や近親者の連絡先を聞かれたあと、幾つもの検査に回された。MRIやCTスキャン検査を受けてるうちに僕が思ったことーは、検査は最小限にしてすぐ手術なり処置を始めたほうがよいのではないということ。血が流れていない部分がどんどん死んでいくのではないかと思った。
そうこうしてるうち治療方法も決まり誓約書にサインをさせられた。術式はカテーテルだ。高橋一生似の若い医師が「カテーテルで失敗したら足を切断することになります」という。なぜこんなことを言うのだろう。失敗したときのためのあらかじめの保険か?
結果は高橋一生の言う通りとなりカテーテルは失敗した。でもこの結果を見て思うのだ。メスの手術とカテーテル手術を較べて見て、予後の回復はカテーテルが早いにしてもトータルの危険性はカテーテルが大きい気がする。カテーテルの失敗の可能性が無視できるほど微々たるものならば別だが、現実に無視できない失敗率があり、その結果は取り返しのつかないものとなるならば手間がかかってもメス手術を選ぶべきだったと思う。
カテーテルが失敗してもすぐに足を切断にはならなかった。医師が言うには右脚のふくらはぎに肉がいっぱい詰まっており、それが血流を圧迫して血流を悪くしている。従って何センチか肉を削って肉の圧力をへらす必要がある。というわけで右足のふくらはぎの肉を削る事ととなった。写真を何枚か撮っていた。論文に載るのかな。なんだこのシャイロック手術は。ふくらはぎ含めて脚を失った後から考えると、全く必要のない手術なのではないか。まあ高額療養費に達してるはずだからぼくの支出に変化はないが、連休中は若い医師たちのやりたい放題ではないのか。
喪脚記 その3 兄弟
ここで病院から連絡先になっている弟と妹について話そう。二人とも僕の入院以後驚くほど活躍してくれた。弟は家族持ちで気のいいやつだが住所が設楽町のため名古屋にででくるのに時間がかかる。したがって妹は江南市に住んでいるのでより近いだろうと思って妹を緊急連絡先に選んだ。しかし江南市でも数時間かかるらしい。弟は僕に逆らわずなんで心よくやってくれるので信頼していた。驚くのは妹である。彼女は僕の家に乗り込むと新聞やヤクルトの購買中止を僕に提案してきた。それだけでなく僕がやり残している町内会の仕事も町内会長に事情を伝え齟齬のないようにしてくれた。さらに生命保険会社や家の建築会社にも連絡をとり給湯器の休止なども行なっていた。彼女は以前ピアノ講師だったが今はヘルパーをしており、こうした場合対処方を知っていた。その上以前からのエホバの証人なので病院との交渉方法も熟知している。
僕は誤解していた。エホバの証人はエホバの証人の活動をすることが世のためになると思っていて、いわゆる良きサマリア人の行為なんか価値を持たないと思っている人たちだと思っていた。ところがエホバの証人の妹もそうでない弟も長い距離に愚痴もこぼさず必要とされるお金も喜んで払い、常に僕に何かいるものはないかと聞いてくる。
今まで妹は「本に書いてある」ことを鵜呑みにする教条主義の馬鹿だと思っていたが、今や彼女はその教条主義をつらぬいて単なる馬鹿ではなくなった。独居老人が入院した時何をなすべきかがすべて頭に入っているかのようだ。
だが僕にとって驚きはセカンドオピニオンと言い始めたことだ。カテーテルが失敗したので脚を切るしかなくなったが問題はどの程度深く切るかと言うこと。高橋一生医師によると義足を使うためには浅く切るしかないがその場合血栓が再発してくる可能性がある。深く切ると再発の可能性は少ないが義足は使えず一生車椅生活となる。妹は彼女たち組織の医療機構を使おうとしたがエホバの証人でない僕には利用できないのでセカンドオピニオンは弟に任せてその場にいなかった。しかし僕は専門家の意見は尊重されるべきであり、単純な病気なので他の病院の意見も違いはないだろうと思うと言って深くきることを受け入れた。
だが実際に切られた足は浅く切られたもので、義足も可能となった。きっと若い医師は浅く切って再手術になった場合最初の手術は失敗になるから深く切ることに固執したが、熟練医師から患者の術後の生活も考えなければならないと指導を受けたものと思われる。