セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:洒井篤彦「炎の如く 備前贋銀事件始末」(河出書房新社)

2007-01-28 21:41:32 | 文化
時は江戸時代初期四代将軍家綱の時代。備前岡山で実際におこった贋銀(にせがね)事件と岡山の領主池田光政と老中洒井讃岐守忠勝との確執が物語の内容だ。
池田光政と洒井讃岐守との確執とは、大老となっている讃岐守にとって外様大名でありながら幕府の朱子学尊重の方針に面従腹背して心学(陽明学)者の熊沢蕃山を重用し家中で心学を講じさせている池田光政は苦々しい存在だ。他の大名なら難癖をつけて取り潰すことも簡単だが、二代将軍秀忠の娘の天樹院(千姫)の娘を妻に迎えている池田光政には手がだせない。讃岐守にとって個人の心情を重んずる陽明学は幕府体制を揺るがせかねない危険思想である。讃岐守の背後には幕府の朱子学者の林大学頭や熱烈な朱子学信奉者の保科正之がいる。讃岐守は隠密を岡山に送り込み池田家の弱点を掴もうとする。
備前贋銀事件は歴史上に存在する事件だ。ただ奇妙なことにこの事件が発覚したのは、匿名の投書が藩庁の目安箱に投げ入れられたからだ。普通こうした事件が発覚するのは贋銀が市中で発見され捜査が始まり、身の危険を感じた犯行グループの一員がわが身かわいさに自首することだ。だがこの事件の場合は、投書の前まで誰も贋銀の流通に気がついていない。また匿名の投書は誰がどんな目的で行ったかは不明である。そこでこの作者は創作で陽明学をめぐる幕閣と池田光政との確執をからませ、幕府の隠密による投書というストーリを考えた。なぜ投書したかというと、大名の領地の犯罪は大名の管轄だが、キリシタン禁制と贋金(または銀)については天下の一大事なので、大名は自分の領地内のことであっても幕府に報告して指示を仰がなければならないからだ。池田家から幕府に報告させて、贋銀事件の発生にからめて、陽明学者を重用する池田光政の政治をけん制するためだ。
この小説では贋銀つくりの首謀者の動機を、洪水で疲弊した領民の救済を目的としている。しかしこれは皮肉なことだ。熊沢蕃山と池田光政は武士の存在意義を。領民を愛し領民のためにつくすこととしていた。ところがそれでも治水を上手くやっていれば防ぎえたとおもわれる洪水がおこってしまい、幕府から借金までして被害住民の救済につとめていたが首謀者にはまったく不十分に思われたからだ。

昨日、野崎修平、今日はヒューム

2007-01-23 20:56:06 | 文化
昨日、マンガ喫茶にいったところ、なんと「頭取野崎修平」の第9巻が出ていた。さっそく読んだ。そのなかで、野崎修平が若い行員たちに、「数値目標は必要ないもの」という。理由は「人は愛するものには数値目標をたてない」からだ。家族や恋人に数値目標を立てる人はいない。だから「仕事を愛するひとに数値目標は必要ない」とのことだ。いいことを言うな。
今日の日経朝刊の経済教室のページの「やさしい経済学-名著と現代」のヒューム「人性論」に、「ヒュームは・・・・・道徳は理性によって判断されるものではなく、感じられるものだと考えた」「人間本性の最も特筆すべき点は、われわれが他者に対して持つ共感である、とヒュームは言う」と書いてある。おお王陽明とおなじである。ヒュームには以前から興味をもっていて今日で6回目だが、このコラムが始まってから切り取ってきた。ヒューム、カント、ポパーと続く流れがあるような気がするし、これらの人と王陽明と親鸞を加えた人々に共通するものがある気がする。

正月テレビ時代劇「忠臣蔵 遥泉院の陰謀」

2007-01-03 22:25:00 | 文化
昨日(2日)の正月テレビ時代劇「忠臣蔵 遥泉院の陰謀」はなかなかの傑作であった。松の廊下の刃傷事件の原因の描き方がなかなかリアルで納得できるものであった。吉良上野介と浅野内匠頭の描き方が他の忠臣蔵物よりも抜群によい。浅野匠頭の「つかえ」という史実にある持病もきちんと描いている。このドラマでは吉良上野介は名家で儀式の指南役という立場の人間にしては驚くほどリベラルで柔軟な考え方ができ金銭にも鷹揚だ。これに対して浅野内匠頭は精神的にも不安定な上に思い込みが激しい。
勅使供応役をおおせつかった浅野内匠頭は、武門の家を誇るあまり質素倹約が肝心と家臣の前でここ数年千数百両かかっている費用を七百両でやると宣言した。その旨を家臣により吉良家に伝えに行かせたのだが、応対した吉良家の家臣は、院使供応役の伊達家は千二百両で行うのでそれより重要な勅使供応役が七百両では釣り合いがとれないと当惑して差し戻した。それを聞いた内匠頭は自分で上野介に話すと出かけた。内匠頭は心の中では七百両は少なすぎたと思い、上野介から言われたら上積みするつもりでいた。ところが上野介は「自分も年々華美になるのはよくないと思っていたので内匠頭の意見に賛成だ。七百両でやってみて足りなくなった時はそのときに考えよう」と言った。ウン相手の面子を立てつつ保険も忘れない、上野介は人物だなあ。さすが領民から名君と慕われるだけはある。文官である上野介に偏見をもっている内匠頭は、なにか魂胆があるのだろうと疑心暗鬼になる。疑心暗鬼が高じて匠頭は病気になる。内匠頭から上野介への偏見を植え付けられていた妻の阿具利(遥泉院)は、二百両を家臣に持たせて上野介に届けさせる。上野介は二百両を受け取らず、その金で勅使宿舎の畳替えをしたらどうかと奨める。伊達家が院使宿舎の畳替えをしたので釣り合いを考えてのことだ。しかし日時が迫っていたので畳替えは大変困難な仕事であったので、内匠頭は無理難題を押し付けられたと受け取った。そんなわけで内匠頭の妄想が高じて松の廊下の刃傷が起った。
なんか内匠頭って、社会主義者以外の自治体首長は金持ちと大企業のために政治を行い貧乏人に冷たいと思い込んでいる某政党支持者と共通するものがあるな。
このドラマ、細かい点も正確だ。内匠頭の辞世の歌「かぜさそう・・・」は、実は本人が作ったのではなく、家臣が僧侶に依頼して作ったものとのこと。大名なのに庭先で切腹させられたので、せめて辞世の歌を残させたかったとのことである。遥泉院という未亡人の院号も初めは違うものであったが「昌」の字が将軍生母の桂昌院と重なるのではばかって変えたものだそうだ。
単純に敵討ち説を採っていないのもいい。大石自体が、内匠頭が切りつけられたのではなく切りつけたほうだからあだ討ちではなく、主君の後を受けた「追い討ち」だと言っている。
喧嘩両成敗論もとっていない。柳沢吉保の「一方に非があり他方の非がないのだから喧嘩ではない」という主張にだれも反駁していない。
「遥泉院の陰謀」とは、遥泉院が赤穂浪士の討ち入りの手助けをしたことだが、遥泉院が侍女などを使い、町中に「内匠頭は乱心ではなく、遺恨があって切りつけた」といううわさを流して吉良への敵愾心をあおったのは、ありうることだ。吉良はそんなに悪くなく内匠頭の乱心の方が真実に近いことが、遥泉院だってわかっているのにね。赤穂浪士も遥泉院も善悪は関係なく、匠頭の成し遂げられなかった無念を晴らしたいというのが、時代の精神ということだろう。