セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

DVD鑑賞ノート「不滅の李舜臣」[その5]

2009-09-21 19:03:47 | 歴史
第2章の「武官時代」は、造山堡萬戸という役職についているところから始まる。「萬戸」というのはある地域の村長兼守備隊長のようなものと思われる。「萬戸」は「マノ」と読む。日本語式に読まない方が無難だ。似たような役職に「僉使」とか「郡使」とか「府使」とかが出てくるが「萬戸」は一番規模が小さいみたいだ。ようするに軍事的に重要な拠点の守備隊長が首長も兼ねていると思われる。

このころの朝鮮の軍事的問題は。北方での女真族の侵入と南方での倭寇の跳梁だ。女真族とは後に清帝国をつくる満州族のこと。ただこの当時朝鮮では「野人」と呼んでいた。朝鮮政府は北方の国境付近に五鎮とか六鎮とかの軍事拠点を定めて対処していた。造山堡というのはそのうちの1つの鎮なのかさらにその下の組織なのかはわからない。たぶんその下の方なのだろう。堡というのは砦という意味だ。

李舜臣はこの時点で武科試験合格から14年たっている。その間に李舜臣は左遷や免職を経験している。何度も受けてやっと受かって武官になっても懲戒処分がいくつもあるとは履歴をみればだいぶはみ出しているね。原因は命令違反や上官への反抗が原因らしいが、ドラマではナレーションで触れられただけでその内容は不明だ。だがこれからも李舜臣はいくつも罰を受けていくのでその内容は類推できる。まあ官僚組織は時と共に自己保存目的と成員の利益共同体となっていくから、本来の職務に忠実たろうとすると李舜臣のようにならざるを得ないかもしれないが。おっと私がやめたのは自己都合での円満退職で免職ではないので誤解のないように。

ドラマでは、李舜臣はいままでバラバラであった女真族が結束しつつあることを把握した。そこで結束した女真族が侵略してくるとしたら彼の担当区域内の鹿屯島が戦略的に重要であると考えた。そこで上官に都に増援部隊の派遣を要請するよう訴えたが全く取り合ってもらえない。少ない兵力では守れないので、田畑建物食料のすべてを焼いてにげる清野作戦も考えたが村人がどうしても残るというので屯田兵を使って補強したが、まだまだ兵力は不足だ。あるとき五鎮の本部で指揮官の会議があるので出席要請がきたが、行きたくなかったが兵隊の援助を養成しようと出かけた。ようやく指揮官の一人が協力して応援に来てくれることになりいっしょに戻ろうとしている途中に、鹿屯島が女真族に襲撃されているとの連絡があり急いで向かったが着いた時には部隊は全滅して鹿屯島は廃墟になっていた。このため李舜臣は指揮官が持ち場をはなれた敵前逃亡罪に問われ、白衣従軍という罰を受けた。これは官位をはく奪され白い服で一兵卒とおなじ任務に就くことだ。これが生涯で2回ある白衣従軍の1回目で2回目は慶長の役のときだ。

でも会議に出席するための外出だから敵前逃亡とはおかしいが敗戦の責任をだれかが負わなければいけないので貧乏くじを引かされたのだろう。でないと兵士の増強を拒んだ上官の責任になるかもしれない。これは僕の推測。白衣従軍というのは一兵卒に戻っても手柄を立てれば位が戻るというもの。しかし軍隊というのは他の官僚組織と同じく高級官僚の互助組織だ。すぐそのあとで朝鮮の部隊が女真族の本拠を襲撃してその中に李舜臣も加わり、敵の頭目を李舜臣が斬って白衣従軍は解除された。ドラマでは斬っている。でも斬っていなくても手柄を立てたことにされるだろうと思う。

白衣従軍を解除された李舜臣は元の萬戸に戻ったのではなく、都で軍の宣伝官となった。宣伝官は各地の軍人に王様の命令を伝える役目だ。これは李舜臣が武科に受かった後最初に就いた役職とおなじとのこと。最初にもどり萬戸よりは官位がぐっと低いはず。このあと小さな町か村の首長になったが、純然たる牧民官(民生官)で兵隊の指揮官でない。そこから柳成龍の推薦で全羅左水使という全羅道という地域の半分の水軍の総司令官についたのだが、7階級の上の役職なので前例にないとひと騒ぎ起きる。

ここで思うのは、一つは宣伝官は位が低いと思われるのに、慶長の役のとき王様の命令(釜山の攻撃)を伝えにきた宣伝官は威張っていたぞ。もちろん王様の代理だから強圧的になるのは当然だと言えるかもしれないが、その宣伝官は年をとっていたぞ。とすると宣伝官にも階級の低い者から高い者まで何種類もあるのか。このときの李舜臣は三道水軍統制使という従二品ぐらいの高官だから宣伝官も高官が来たのかな?

次に武科に受かって武官になったものは、いきなり指揮官にはならないが、李舜臣の部隊のなかにも指揮官の下に武官が何人もいる。李舜臣が強引に三道水軍の中で武科の科挙を行って水兵や漕ぎ手からも武官に採用した。とすると李舜臣が宣伝官になったのは最初からエリートコースに乗ったと言える。でも彼は何度も試験におちて三十過ぎてやっと丙科という最低クラスで合格したのだ。そのあとも免職になっても返り咲いて萬戸というそこそこの役職についている。これは宰相の柳成龍が幼なじみということが関係しているのかな。試験成績順位にこだわったハンモック制の昭和の日本海軍は失敗したから、李舜臣を7階級上の水軍使(艦隊長官)の抜擢したのは結果として間違ってはいなかったが、やはり縁故人事ではないかと思う。