セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:金賢植「わが教え子、金正日に告ぐ」新潮社

2008-10-25 22:06:48 | 社会経済
著者は、長年にわたり北朝鮮の平壌師範大学(金亨稷師範大学)のロシア語学科の教授であったが、1992年に派遣先のモスクワから韓国に亡命し、現在はアメリカの大学に研究室をもっていてアメリカで暮らしている。

日本版の題名は、著作権関係の英文記載のタイトル「I AM THE IDEOLOGICAL NOMAD IN 21ST CENTURY」とは意味内容が異なる。デザインとして表紙に書きこまれているハングル文字のなかに21というアラビア数字があるので、韓国での原書も英文と同じ意味のものであると思われる。なおアマゾンで見る限り現在まで英語版はでていない様子。翻訳は韓国版の原書から訳された模様だ。日本版のタイトルは、新潮社が販売戦略から独自につけたのだろう。著者は金日成の指示で他のロシア語教授と3人共同で、高級中学3年生の金正日に口頭試験を行いその結果から、金正日が在学していた南山学校のロシア語教育指導方法の改善を指示したことがある。新潮社ではそこから拡張して「わが教え子」という言葉を使ったのだろう。

この本のサブタイトルは「脱北エリート教授が暴く北朝鮮」というものだ。大学教授や大学生などの中間エリートの政治に翻弄される生態を通じて北朝鮮社会の特徴をよく現している。他の本の飢えに苦しむ庶民、政治犯の強制収容所又は最高権力者の周辺の話とはまたちがう側面である。だが著者は、最高権力者とも接触があり、また自身が突然そこに落とされかねない危険性という点で下層の人々ともつながるという、北朝鮮の社会構造をよく見渡せる位置にあったともいえる。

僕の仮説なのだが、北朝鮮だけでなく中国や旧ソ連の社会主義国及び各国の共産党などを見るにつけて、社会主義とは、封建制への回帰を希求する社会の近代化への反動現象だと思う。社会心理学的には「自由からの逃走」(フロム)といったところか。社会主義国では、旧ソ連、中国、北朝鮮とも農民を土地に縛りつけ、都市に流入するのを硬く禁じた。開放された農奴が社会主義者により再び農奴とされたのだ。そして身分制度が復活する。中国でも特に文化大革命のときに迫害の手段として使われた紅類・黒類の人民の種類の分類があったが、北朝鮮では成分という身分差別がある。親や兄弟などの親族のありかたで、本人の生涯が決まってくるものだ。連座制もある。脱北した著者の家族は政治犯の収容所に入れられ、多分もう生きてはいない。権力者及び体制への忠誠心が無定形に要求されるのも同じだ。そうしたいろんな点で日本の江戸時代と似ている。だが江戸時代の方がずっとおおらかなような気がする。

むかし北朝鮮での身分制度を知った時、僕はモンゴル帝国の身分制度を思い出した。モンゴル帝国の元(げん)では、早くモンゴルに降伏した順に身分制度が定められていた。中国人が最下層だがそれも早くモンゴル領になった北中国の民が最後に征服された南宋の民(南人)よりも上とされた。そんなことから昔からの大陸の遊牧民族の伝統かなと思ったものだ。しかし今思うと北朝鮮あるいは社会主義国家のそれははるかに過酷で不条理だ。封建性という地域歴史性のほかにテロルを統治手段としたマルクス・レーニン主義的要素も含んでいるからだ。

大学教授になってからの著者は何度も転落の危機に遭遇する。あるときは、臨時に行われた人民の親族関係の動向調査で、著者の姉が朝鮮戦争時にアメリカの船で南へ行ったという情報が当局に流れた。そのときは必死に抗弁してうわさがあったに過ぎないと認めさせて難を逃れた。ちなみに親族などの関係から出身成分が悪いと判断されると大学教授でも一般の工場労働者にされる。その後、兄の一人が朝鮮戦争で戦死していたことがわかりそれまでの行方不明者家族というあまりよくない分類から戦死者家族という分類の証明書がもらえた。なお妻の親族が韓国軍の将校だったわかったときは、著者は離婚をしなかった。しかし大学進学前の次女は成績がきわめて優秀なのだが進学を阻まれた。

金正日が教え子というのは正しくないが、じつは著者は金王朝のロイヤルファミリーの家庭教師を10年ほどしていた。金日成の後妻の金聖愛の弟の子供の家庭教師だ。学生時代のアルバイトというようなものではなく、大学教授が権力者の子弟の家庭教師するのである。著者は生徒の祖母にあたる金聖愛の母に気に入られた。しかし著者はその家庭から何ももらっていない。じつは金正日が権力を持つことを予想した友人から、決して何ももらうなという忠告を受けたのだ。金正日の権力掌握を万全とするため、「脇枝」という他の金王朝ファミリーのメンバーの勢力を削ぐ運動が起こった。金正日の手先が大学に来て著者を尋問した。金聖愛の弟から何かをもらっただろうと尋問した。ちなみに北朝鮮では贈り物とは人民が金日成・金正日にするもので、それ以外は禁じられている。何ももらわなかったので、逮捕されないですんだ。しかし金聖愛につながるものなので、地方の中学教師へと転勤命令がきた。ところが引越し直前に出発を待てという指示が来た。しかし職場から離れ配給は止められたままなので困窮したが、金聖愛の母から食料の差し入れがあった。3ヶ月ほどして転勤命令は撤回されもとの大学教授に戻った。金正日が権力を握っても金日成がまだ存命なので、何らかの働きかけがあったのかもしれない。

著者は派遣先のモスクワから韓国へ亡命したが、もともと亡命の意向を持っていたのではない。モスクワで韓国の情報部員か近づいてきて亡命をすすめたが断っていた。あるとき朝鮮戦争時に不明となっていた姉が、アメリカで生きていて韓国の情報部員の手引きでモスクワに来て著者と会った。うわさは本当だったのだ。姉も亡命を進めるがそれでも断った。しかしすぐに北朝鮮に召還されるという情報が入った。韓国の情報部員や姉と接触したことがばれたのだ。北朝鮮へもどればそのまま収容所行きである。そこでやむなく韓国へ亡命することとなったのだ。しかしそれは人質となっている家族や保証人となっている教え子に過酷な運命がおとづれることになるのだが。

著者は師範大学を卒業してほどなく師範大学の教授となった。著者が韓国やアメリカの大学に来て驚くことは、講師、准教授などがあり大学教授になるのに時間がかかることと,毎回の講義内容の準備計画をたてていない大学教師がいることだ。これは北朝鮮では、大学で教える内容や教科書は国で決めている。大学の講師は講義計画を学科長にあらかじめ提出して許可を受けて講義するのだ。つまり講義内容が統制されているのだ。ただよい点をあえていえば、教授たちは講義の仕方を互いに批判しあい研鑽しているということだ。つまり北朝鮮の大学とは高校の延長みたいな講義方法をとっている。したがって大学教師は即大学教授でもよいわけだ。

大学教授とは逆に北朝鮮で少なく、韓国やアメリカで多いのは博士だ。北朝鮮では大学ではなく、国の2つの機関が博士号を授与できる。つまり国家への貢献によるものか、学術上から最高の学者と認められた場合だ。だから博士は非常に少ない。僕はこれって「はくし」ではなく日本の平安時代にもあった「はかせ」なのじゃないのかと思った。お茶の水博士は「はかせ」だけど、彼は科学省の長官でもあったから「はかせ」なのかな。

読書ノート:樋口尚文「『月光仮面』を創った男たち」(平凡社新書)

2008-10-15 18:52:42 | 文化
今から50年前のテレビの創世記の昭和33年(1958年)に国産初の連続テレビ映画として「月光仮面」が放映された。「月光仮面」はただ単に始めての国産の連続テレビ映画というだけでなく、一世を風靡したスーパーヒーローを作り出した。この本は「月光仮面」とそれに続く「豹(ジャガー)の眼」「怪傑ハリマオ」「隠密剣士」をつくった人たちと時代についての本だ。

著者は映画批評家だが、1962年つまり昭和37年生まれであるので、「月光仮面」の誕生時の放映を目撃しているわけではない。ただ著者は「月光仮面」の最初の形態である毎日10分間ものの再放送を見たという少年時の「月光仮面」体験をしている。

かくいう僕は、誕生時の「月光仮面」も「豹の眼」「怪傑ハリマオ」「隠密剣士」も本放送時に見ている。ただ内容の記憶もおぼろげなので、何年か前にケーブルテレビであらためて「月光仮面」と「豹の眼」を見たことがある。とくに「豹の眼」については、最初の記憶として笹竜胆(ささりんどう)の源氏の紋が出てきて源義経の伝説がらみの点に興味があったのと、主題歌が好きでわりと覚えていたので、ケーブルテレビで欠かさず見るようにした。ただ消滅した部分があり全編ではなかった。

「月光仮面」をつくったのは、本格的な映画人たちではない。船床監督は映画会社では助監督で監督作品はそれまで1本もなかった。プロデューサーの西村氏も映画の製作助手の経験があるのみ。主演の大瀬康一は東映の大部屋俳優でまったく無名であった。製作の宣弘社プロダクションは、番組枠を受け持った広告代理店である宣弘社が、映画会社から協力を得られないためやむなく自ら製作に乗り出したものだ。なお原作者は森進一に歌うことを禁止した「おふくろさん」の作詞者で有名な川内康範氏。「月光仮面」のアイデアはスポンサーの武田薬品が新発売のアリナミンを売り出すための番組企画の求めに応じて川内氏が提案したものである。

「月光仮面」の制作費は驚くほど少なかった。カメラは手巻き式の16ミリであり、1回に28秒しか撮影できない。そのため非常にテンポの速い場面となりそれが独特の効果を作り出している。低予算についてのエピソードで、本では1行しか書かれていないが、僕がなるほどと思ったのは、予算がないため夜に撮影できないのでレンズにフィルターをつけて暗くして夜にみせたということだ。「月光仮面」を見ていたとき、暗いので夜のつもりなのは判るが、月も星も見えなく、ただ薄暗く白夜という感じ。それはこんなわけがあったのだ。ちなみに月も星ももちろん太陽もなくて暗いというのは僕としてはあの世特に地獄方面を連想してしまう。

この本で、「豹の眼」や「怪傑ハリマオ」に出ていたヒロインの女のひとが近藤圭子さんという童謡歌手であることを知った。本の中で著者の樋口氏と大瀬氏の対談で、大瀬氏は「豹の眼」で共演していたので近藤圭子さんに話が及んだ。映画評論家で戦後映画史に著作も多い樋口氏は、近藤圭子さんは現在もハワイで存命であるということを知っていた。大瀬氏は、昔の話で近藤圭子さんが妻子ある男性と心中未遂をしたのでショックだったという話をした。いろいろあるんだ。ところで「怪傑ハリマオ」の主演の人はその後どうしているのだろう。

ちなみに、「月光仮面」「豹の眼」「怪傑ハリマオ」とアジアンテイストの物語が連続したのは、戦前の「少年倶楽部」という雑誌の影響によるものらしい。製作者たちの少年時の体験が、関係しているようだ。「月光仮面」は主な舞台は日本国内だが、東南アジア風の衣装の集団がでてくるが、何よりも月光仮面の服装がエキゾチックすぎる。ターバンについている三日月マークはどんな意味があるのだろう。もちろん川内氏が月光菩薩からヒントを得て作り出したということは承知しているが、物語の内部世界での意味はなんだろうかと思う。ターバンはインドのシーク教徒関係のようにおもえるが、三日月は回教徒のようにおもえる。月光仮面自身に聞きたいね、なんか宗教的な意味があるのかと。そういえば他の製作会社のものだが、川内康範氏の原作で「アラーの使者」というテレビ映画があった。川内氏は回教徒かしら。川内氏は今年4月に亡くなったが、当初故人の意思で読経も戒名もないかったが、さすがにないのはどうかと親族が「生涯助っ人」を戒名にしたとのことである。

そうそう、「豹の眼」の主題歌はカラオケにあったことがある。ところで「ライフルマン」の主題歌の「無敵のライフルマン」も好きだけどカラオケにあるかな。まああってもどのみちカラオケに行く機会はないけど。

映画鑑賞ノート:「容疑者Xの献身」

2008-10-07 17:14:08 | 文化
昨日6日月曜日に土曜日に封切られたばかりの映画『容疑者Xの献身』を映画館で見てきた。そこで気付いたことをノートする。ストーリーの筋に触れるので、これから見る予定のある人はこのノートを読むのは待ったほうがよい。

月曜日に見に行ったのは、平日のほうが空いていると思われるので、無職の自分としては土日に行く理由がないからだ。いつもならこれに株主優待券を使って無料で入るので込んでいる時を避ける遠慮という理由もあるのだが、昨日はもう優待券がなくなっていた。この映画を見に行くことにしたのは、おなじ探偵のテレビシリーズ『ガリレオ』を平日昼の再放送で連日見ていたからだ。無職になっていいことの一つは、本放送時に見ていなかった評判ドラマを集中的に見ることができることだ。今は『ハケンの品格』を見ている。

原作の推理小説は直木賞を受賞した東野圭吾氏の推理小説だ。推理小説の手法としていくらか論争があったようだが、僕は原作を読んでいない。ここでは作品としてではなく映画の中身を実在の人物の行動と同じように考え批評する。

ドラマは、母子(娘)が母の別れた元夫をアパートの自室で殺害してしまい、それを隣室の住人で母に心を寄せる高校の数学教師の石神が、優れた思考力から母子に指示を与え完璧なアリバイ工作を行うというものだ。探偵役は大学の物理学の准教授でガリレオと呼ばれる湯川学だ。実は石神も学科は違うが同じ大学で湯川と同期であり湯川の友人であった。天才と呼ばれる湯川だが、湯川自身が本当の天才と認めるのは石神だ。

ドラマの最初のほうで湯川が、「石神が、(母子と元夫のことに)最初から関わっていたら、殺人などという愚かな手段を使わずに、問題を解決していたはずだ」というようなことを言っていた。僕は、殺人を初めとする犯罪などということは頭のいい人間はしないはずなので、頭のいい犯人が出てくる推理小説は無理があると思っていたので、思わずうなずいた。ところがナント、石神はその殺人を犯したのだ。それもより愚かな形で。

母子のアリバイをつくるために、ホームレスを殺し顔と指紋を焼きつぶすなどとして、元夫の死体に仕立て上げ、その死亡推定時間に母子に映画館に行かせるなどアリバイ作りをさせたのだ。

僕がなぜ石神が愚かなことをしたと思うのは、母子の殺人直後に立ち会った時、母が警察に自首すると言ったのを止めたことだ。母が電器布コードで元夫の首を絞めている間、娘が元夫の手を押さえつけていた痕があるため、娘にも罪が及ぶと考えて母も石神に同意した。しかしこの事件は過失事故にはならないけど、凶暴な夫が娘に危害を加えようとしていたこともあり、中途半端なことでは逆に母子共に非常な危険な状態になることは当然想定される。だから弁護の仕方によっては情状酌量により執行猶予なり緊急避難での不起訴なども考えられるのではないのかな。頭のいいはずの石神が愚かな選択を奨めたのは、母子に対して自分が何かをしてやりたいとう意欲が論理的な判断を鈍らせたと思う。

娘を傷つけたくなという点にこだわるなら、死体を完全に隠してしまうだけでよい。石神の身代わり死体のトリックは、本物の元夫の死体が出てきたら崩れてしまう。しかし元夫の死体が出てこないことを前提とするなら、それだけで犯罪の捜査が開始されない完全犯罪となる。だから石神の行ったことは、無関係の人を謀殺するというより凶悪な犯罪だけでなく、余分で危険なことを行ったのだ。母子はそのことをわかっているのかいないのか。

頭のよい人間は犯罪を起こさない。比較的頭のよい人間は犯罪を起こす場合でも1回きりで繰り返さない。犯罪者つまり頭の悪い人間と破滅型のギャンブラーと軍国主義者は破滅するまで(破滅を求めて)行為を繰り返す。特に犯罪の場合は、どんな犯罪にも痕跡は残る。「ガリレオ」の口癖の「どんな現象にも原因がある」ということは、犯罪事態が想定される動機という痕跡を残すわけだ。単独で解決につながらない痕跡も、次の痕跡と結びつけば意味が出てくる。つまり犯罪の累積は捕まる可能性が乗数的に増大するのだ。

動機の点から、母子は警察の容疑者となり、犯行推定時刻に何をしていたのか警察に聞かれた。しかしその時間は本当に映画館にいたのでよどみなく答えられた。たぶん石神の想定で刑事は犯行推定時間について何をしていたかと聞くと思っていただろう。事実そうなった。しかし刑事が直截に「あなたが殺したのではないのか?」と聞いたら、きっと母子はひどく動揺してそのまま白状してしまう可能性もある。そういう刑事がいないとは限らない。まして母子は遺族でもなく悲しんでもいないのだから。

僕の結論としては、石神はもともと頭がよく論理的な人間かもしれないが、心を寄せる女性に何かをして頼られたいという気が論理的思考をゆがめて愚かな行為を行ったのだ。ぼくからみれば石神は天才ではない。本当の天才は柳沢教授だけだ。知らない人は「天才柳沢教授」で検索してみるとよい。