セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:平山優『天正壬午の乱』(Gakken)

2011-04-21 21:28:10 | 歴史
天正とは日本の元号で西暦の1573年から1592年にあたる。壬午(じんご、みずのえうま)というのは干支(えと、かんし)で十干と十二支を組み合わせたもので、10年と12年の最小公倍数の60年ごとに同じ干支に戻るのでそれを還暦という。それで天正年間での壬午の年は天正10年で西暦1582年になる。この年は、3月11日に武田勝頼が自害して甲州武田氏が滅亡した。また6月2日には本能寺の変により織田信長が横死して、6月13日には山崎の戦いがあり、明智光秀は羽柴秀吉に敗れた。というように日本史上での激動の年だ。

しかし「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」というのは、本能寺の変から山崎の戦いまでの畿内を中心とする中央政局をめぐる争乱のことではない。織田信長の横死に起因して権力の空白地となった旧武田領(甲斐、信濃、上野、駿河)をめぐる東国の騒乱をさす。

このノートはあくまでも僕の読書ノートであるから、本の書評でも内容紹介でもなく、僕が気づいて書き残す気になったことをノートする。だから著者の主張とか意図などはあまり関係がないのでそのつもりで。

まず本能寺の変(6月2日)直前の旧武田領の様子はどうかというと、それは3月11日の武田氏滅亡後の信長による分割の結果でもあるが、信濃国諏訪郡と甲斐国(穴山梅雪領を除く)は信長家臣の河尻秀隆、上野国と信濃国の佐久郡と小県郡は信長家臣の滝川一益、信濃国の川中島4郡は信長家臣の森長可、信濃国の伊那郡は信長家臣の毛利秀長、信濃国の木曽郡・筑摩郡・安曇郡は木曽義昌、駿河国(穴山梅雪領を除く)は徳川家康とに分割された。

穴山梅雪と木曽義昌はともに武田勝頼の親族であったが織田信長に内通して生き延びた。木曽義昌が織田信長に内通して武田領に織田軍を導き入れたのが武田家滅亡の直接の始まりだ。穴山梅雪は数年前から徳川家康を通じて織田信長に内通していた。

さて信長家臣にとっては新しい領地を手に入れて2カ月たったかたたないかのうちに織田信長という軍事力の後ろ盾を失ったわけである。織田信長の力の前にやむなく臣従している国人衆の離反が当然にも予想されるし、北条や上杉などの隣国勢力の侵入も予想される。多くの信長家臣は新領地を捨てて畿内への脱出を試みた。それらの信長家臣は国人衆から追撃されないように人質をとり信濃国と美濃国の境にある木曽義昌領まで行き木曽義昌に人質を渡す条件で美濃国まで通行させてもらった。結果として木曽義昌は信濃国全体の国人衆の人質を手に入れ信濃国全体を支配するに有利な手段を持ったのだが、利用できずに手放してしまうことになる。木曽義昌自身も新たに得た筑摩郡と安曇郡を失い元の木曽郡だけとなる。

信長家臣でただ一人、新領地に留まろうとして殺されたのが河尻秀隆だ。河尻秀隆の受けっとった領地は甲斐国だ。そこは武田家の本拠地だったところで織田信長は甲斐国内の武田家家臣を全部殺そうとしていた。当然に河尻秀隆は恨みをかっているので、真っ先に逃げるべきなのだが彼は甲斐国に留まろうとした。きっと大身の国持大名になったので手放すのが惜しかったのであろう。国人衆の一揆が発生し、隣国の徳川家康が援助を申し出るが、河尻秀隆は家康の真意を疑い拒否して一揆に殺されてしまう。一番逃げる必要があってしかも徳川領の駿河国と領地が接して逃げやすい河尻秀隆が逃げずに死んでしまうとはなんと愚かなことだろう。

さてここからが気づいて書き残したいことだ。それは4つに要約される。
1 上杉景勝はダイ・ハード(死にそうで死なない)である。
2 北条氏はいつも楽して得ることを狙って何も得られない。
3 真田昌幸の表裏比興
4 徳川家康の律義

上杉景勝というのは兵法で言うところの死地つまり絶体絶命のピンチに3回プラス1回も陥っているが何とすべて生き残っている。プラス1回というのはこの本の時代のずっと後で関ヶ原直前の家康の会津征伐の時だが、これは自ら招いた作戦の内とも思えるので他の3回とは一緒にしなかったが、現象的には大ピンチだよね。で、のこりの3回については1回目と2回目はこの本で天正壬午の乱の前史としてこの本でふれられている。3回目はまさにこの天正壬午の乱の一部分として記載されている。

上杉景勝は子供を作らなかった上杉謙信の養子だが、じつは上杉謙信にはもう一人上杉景虎という養子がいた。景勝は謙信の姉の子で甥にあたる。景虎は北条氏の当主北条氏政の弟で上杉と北条が一時同盟を結んだ時に人質として謙信のもとにきたが、同盟が敗れたのちも謙信は養子として手元に置いた。謙信は2人の養子のうち誰を後継者にするつもりかを言いのこさないまま病気で突然死した。そこで2人の養子による跡目争いがおきた。それを「御館の乱」という。

最初は景虎を支持する勢力が多かったが、景勝の積極的な行動により景勝が盛り返したのではあるが、景虎の兄の北条氏政が上野国との国境方面から兵を送り、北条と同盟していた武田勝頼が信濃国との国境方面から兵を近づけてきた。北条軍については新入経路にある景勝の実家の上田長尾氏が踏ん張り上杉軍の侵入を阻止し、北条軍は季節的に補給が困難になることを理由に撤退した。しかし武田軍は景勝の本拠地の春日山城へ数日のところまで迫っており絶対絶命の状態である。しかしここで景勝はウルトラCの奇策にでる。武田軍の資金不足につけこみ多額の資金の提供を申し出たのである。武田勝頼はそれにのり、景虎と景勝の仲を取り待ちたいといって進軍を停止する。実質上は景勝に加勢したことになり、景勝も武田が景勝についたように宣伝して戦を有利にすすめ景虎を打ち破って勝利した。これが最初のダイ・ハードだ。武田勝頼は同盟軍の北条を裏切ってまで景勝と結んだのは軍資金のこともあるけど、東だけでなく北の方も北条勢力に囲まれるのは面白くなかったのかもしれない。でもこれで武田と北条の同盟は壊れて、北条は織田と同盟を結ぶこととなる。これは武田家滅亡の原因のひとつになった。

上杉景勝の2つ目のダイ・ハードは、武田家が滅びた後、上杉家は織田家の侵攻を受けピンチに陥る。越中方面には柴田勝家が侵攻してくるし、信濃からは森長可、上野からは滝川一益が侵攻する。その上に越後国内では上杉家の家臣の新発田重家が反乱を起こしている。景勝は越中の魚津城に応援を出したいのだが森長可が信濃から春日山城へ迫ってくるので断念せざるを得なかった。さしもの上杉景勝も滅亡を覚悟した。ところが何と本能寺の変で織田信長の急死が伝えられ織田軍はみんな引き返してしまった。ちなみに魚津城は6月2日に落城したが、翌日の6月3日に本能寺の変が起こっている。景勝は援軍が送れないので魚津城の将兵に織田軍に降伏しても構わないと手紙を出したのが、魚津城の将兵は降伏を拒み全員討ち死にした。ちょっとの時間の差であたら忠義の士が命を落とすとは、とこの僕でも時代がかった感想を持つものである。

さて3つ目のダイ・ハードはこの天正壬午の乱の中の出来事だ。これは1つ目のように奇策により助かるというのではないので、2番目と同じく偶然とも天の助けとも言うべきものだが、人間の心理の機微にかかわっていて興味を引いたのでこのテーマでノートする気になったものである。

織田信長の横死による旧武田領の権力の空白は近隣勢力の侵攻をも招いた。滝川一益が放棄した上野国へ北条氏直を大将とする北条軍が侵入し、そのあと碓氷峠を越えて信濃国佐久郡を制圧しさらに兵をすすめて川中島4郡を制圧しようとした。このときすでに上杉景勝は越後から兵を率いて川中島4郡を制圧していた。ここに上杉と北条は対峙することになった。北条軍は2万であるのに上杉軍は7~8千であり圧倒的に上杉軍は不利である。北条氏直はここで上杉景勝を破れば信濃だけでなく越後も手に入ると期待する。上杉景勝は兵力差から勝つ見込みが薄いが、退却すれは逃げる軍は弱いので追いかけられて大きな被害を受けるだけでなく越後まで攻め込まれてしまうから逃げられない。

ところがここに不思議なことが起こった。起こったことの始まりは上杉にきわめて致命的だが結果として上杉は助かったのである。上杉軍に臣従している海津城主に春日信達がいる。しかし実は彼は北条方に内通していたのだ。これはこのとき北条に臣従していた同じ武田の旧臣の真田昌幸の調略によるものだ。計画では上杉景勝が北条氏直を迎撃しようと海津城をでたら後ろから春日信達軍が上杉軍を襲い挟み撃ちにするというもの。これで北条軍の勝利は間違いなしとなった。よろこんだ北条氏直は勝ったあかつきの恩賞を約束した朱印状を飛脚にもたせて海津城の春日信達に送ったのだが、其の飛脚が挙動不審で上杉兵につかまってしまったのだ。春日信達夫妻と三歳の女子の首が北条方の眼前にさらされた。これで北条氏直はがっくり気落ちしてしまい上杉勢への攻撃に消極的になった。真田昌幸はぐずぐずすると味方の士気が落ちるのですぐに攻撃するよう説得するが、氏直は南下して甲斐国を攻めることに目的変更する。春日信達の内通話がなければそのまま両軍は激突して兵力が3倍近い北条勢が勝ったであろう。旨い話が突然消えた時の落胆感は旨い話が元々なかった時よりもかない大きいらしい。

つぎに北条氏はいつも楽して得ることを狙うが結局何も得られないで終わるということ。御舘の乱で北条氏政は実弟の上杉景虎を支援すべく上野国から越後に兵を進めようとするが、侵入経路にある景勝の実家の上田長尾氏の抵抗で兵を進められずに季節による補給の困難を理由に引き返した。しかし歴史家によると北条氏は景勝と景虎の両者が疲弊したところに介入して主導権を奪おうとして一旦引き揚げたとみている。北条氏のその後の行動を見るとその可能性もあると思える。武田家が滅亡したした後の武田遺領の分配では、織田家と同盟して武田領へ侵入したはずの北条氏は何処ももらえなかった。北条氏が本格的に侵入する前に武田家があっという間に滅びて北条氏は活躍しなかったためと思われるが、たぶん北条氏は武田軍がもっと頑強に抵抗するとみていて早く侵入して無傷の武田軍とぶつかっては自軍の損害が大きくなると思ったのかもしれない。たぶん織田・徳川軍と武田軍が泥沼化した戦で疲れ果てたときに無傷の北条軍が介入すれば武田領の大部分を自分の物にできると思ったのだろう。上杉軍との川中島4郡をめぐる戦いでも内通者を利用して楽に勝とうとしてかえってがっくりしてしまった。

真田昌幸の表裏比興ということ。真田昌幸について豊臣秀吉が「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評したそうだ。「比興」は「卑怯」と違う字であるように、現代のようなマイナスイメージとはちがい、戦国武将としてはほめ言葉の要素もある。ようするに変わり身が早く一筋縄でいかない男ということだろう。

しかしながら、この時代で強力な勢力が行きかう場所ならその近辺の領主は強いものに従うのは普通ではないか。この地方でもそうだ。中には2つの勢力に同時に臣従する誓詞を出していた者もいる。なのに、なぜ真田昌幸のみことさら表裏比興なんて言われるのか不思議であった。だがこの本を読んでわかったような気がする。真田昌幸は臣従すると、やむなく消極的に従うというような態度をとらず、積極的に建策や調略などの活躍をするのだね。だから目立つから表裏比興といわれるのだ。才能がありすぎるから自分の才能を使いたがるのだと思う。

ところで真田昌幸はこの後だけど、関ヶ原の時に長男の信之は徳川方で自分と二男の幸村は石田方についた。真田家を残すため示し合わせて一族を2つに分けたように評する人々もいるが、僕は、真田信之は本多忠勝の娘を妻としているし、幸村は大谷吉継の娘を妻としているから姻戚関係でたまたまそうなったと思っていた。しかしこの本で、真田昌幸が北条氏に臣従しているとき、昌幸の実弟の加津野昌春が徳川方にいて、真田昌幸を徳川方に寝返らすのに活躍したという。するとやはり真田昌幸はいつも保険をかけているのかなとも思える。

徳川家康の律義。この本で著者の平山優氏は、天正壬午の乱で徳川家康は甲斐国や信濃国を手にいれたので、この機会をとらえて領土を増やそうと企てたように見えるがそれは結果からそう見えるだけで、家康自体は織田陣営の一員として織田の権益を北条や上杉から守ろうとして行動したという。現実にたえず織田信雄や織田信孝らの織田勢力と連絡を取っていた。となると少なくともこの時点での徳川家康は戦国武将らしからぬ律義者ということになる。そうならば徳川家康の真意を疑って死んだ2名の者は大バカ者だ。穴山梅雪は本能寺の変のとき家康と一緒に堺にいたが、一緒に逃げようという家康の真意を疑い、別行動をとったため道中で落命した。河尻秀隆は家康の援助の申し出にその真意を疑い一揆に殺された。

読書ノート:河村たかし『減税論』(幻冬舎新書)

2011-04-06 17:59:04 | 社会経済
なかなか福島第1原子力発電所は鎮静化しませんね。東京電力と政府のビヘイビアをみて奇しくも、原発必要派(池田信夫氏)と原発懐疑派(内田樹氏)の意見が旧帝国陸軍みたいだという点で一致しました。ガダルカナル島での兵力に逐次投入が思い浮かぶようです。僕も旧軍的だと思いますが、それは不都合な真実をみたくないので実態の解明を避ける点です。そして場当たり的対処しながらまったくの幸運を期待する点です。

僕は、最初のころから東電は事故の実態を把握していないのではと感じました。ロシアなど外国の機関では何か隠しているのではと疑いを持ったところが多いようですが、本当のところは実態を把握していないのだと思います。たぶん調査すると最悪の結果が分かるのが怖くて積極的に調査しないのだと思います。正しい方策は、最初に水素爆発が起こった時点で、東電はマスコミを通じて原子力発電所内部の問題点の解明が困難なことを話して全国のロボット製作者に調査に必要な仕様のロボットの提供を求めるべきだったと思います。ガイガーカウンターという放射線測量機がありましたよね。昔からあるのだから今の物はずっと性能がいいでしょう。それをロボットにつけて建物内を調査させれば、施設配置図と照らし合わせれば放射性物質が漏れている個所がわかると思うのだが。

それから原子炉や燃料保管プールの放水が必要な時、どうして全国に協力を求めなかったのでしょうか。実態を国民に知らせずに東電と役所で処理しようしてヘリコプターでの散水というテレビを見た国民はどれだけの水が目標に注がれたのか疑いました。結局、三重県の建設会社が三重県庁を通じて高い場所へのコンクリート注入装置の提供を申し出てやっと有効な手段が手に入りました。でも三重県での映像ではたしか「中央建設」と入っていた会社名が、福島の現場では赤く塗られて判らなくなってしまいました。特定企業の宣伝になってはいけないという思惑かもしれませんが、それは良くないと思います。べつに中央建設へのお礼と言う意味ではなく、全国の力を集めているというしるしのためです。この装置の効果がわかった東電(または国)はドイツから同型機を取り寄せるらしいですが、初めから実状を国民にしらして国民の知恵と資材の協力を求めるべきなのですが、官僚組織にはそれができないのだね。

ところで復興費用の財源として国債とか復興税(消費税アップ)の話が出ていますが、復興費用以前に23年度は大幅な税収減になると思うがあまりこちらの方は話題になっていない様な気がする。被災地域に工場を持つ企業だけでなくそこから部品の供給を受けている企業やそこに部品を供給していた企業も大きな減益が予想されるし、計画停電の経済に与える影響も大きい。解雇された被雇用者も多い。年度途中で予定された税収がほとんど入ってこないという事態になるのでは?

さて本題の河村たかし市長の『減税論』に入ろう。僕の考える河村氏の問題点は、あいも変わらず国債(および市債)は問題ないという点。河村嫌いの市職員とちがって減税自体には文句はない。

だいたい河村氏もリフレ派も同じ詐欺まがいの手法を使うね。それは国民と国家という別の概念を「国」という言葉を使っている。国債はその大部分を日本国民(正しくは国内の金融機関)が買っている。国債は子孫に相続もできる財産だ。だから国債は国の持っている財産なのだから借金ではない、という論法だ。

でもさあ、国家と個人である国民は厳密に区別された概念だよ。たしかに国家の借金としての国債は将来的に返済のための増税が予想されるから国民の借金でもある。でも国民(この場合金融機関であれ個人であれ)の持っている国債は、国家が無償で取り上げることを予定されていないから国家の財産ではあり得ない。かりに国家権力が行おうとしたら私有財産の保証を認めた憲法違反になる。またそんなことを行ったのなら永遠にその国の国債を買うものがいなくなる。

河村氏は、金融機関の借り手がいなくて困っているから国や地方自治体が国債を発行して借りてやっているのだと言う。その点はいくらか同意するが、それが借金を踏み倒せる理由にはなるまい。それにもし国債がなかったら、金融機関はもっとまじめに有望な企業を探して融資するかもしれない。またクラウディングアウトといって、国債が出回ることで民間企業の資金調達が困難になることもある。どちらが原因で結果かわからないが、国が資金を使うより、民間が資金を使う方が社会発展に役立つような気がする。

なんといっても借金は借金だから返さなければならなのは厳然たる事実。だから河村氏は気がひけるのか「国債自体が問題なのではなくて国債管理の問題なのだ」(p34)と現に問題が存在することをしぶしぶ認める。それはまさに正論。しかしずっと毎年公債を発行し続けているのはもう国債が管理できていないということだ。その現時点で国債は問題ないとは絶対に言えない。

ところで河村氏は真逆のことを書いている。「・・国債は平和の道で、・・増税は戦争への道」と言っている。その根拠は「・・太平洋戦争の直前、ロンドンで日本国債が売れなくなって、」「これは国債は、国家にとって『アラート機能』の役目を果たしているということだ」とのことだ。

なんだ、これはじゃあ外国で日本国債が売れなくて日本国内でしか国債が売れないのは日本国家が危険だという警告(アラート)だと言うのかと突っ込みたくなる。ハッ!その通りだ。

冗談はさておいて正しい論理では、国債は戦争の道で、増税は平和の道となる。なぜなら戦前でも日中戦争の拡大により軍事予算が増大してきた。当然に政府は増税をするが、それにはすぐ限界に突き当たる。なぜなら国民が生活できなくなる以上に増税はできないからだ。それを行うと反戦世論が沸騰するからだ。国債ならばこれも国民は半ば強制的に買わされたがそれはあくまで生活費をのぞいた余剰の収入からになる。そして国債を買った人は戦争支持勢力になる。彼らは戦争に勝ったら相手国からの賠償金が入って国債に高い利子がついて償還されることを期待するからだ。もし敗戦または痛み分けの講和にでもなったら国債は紙くずになると予想されるからだ。事実そうなった。だから国債を発行しないことが戦争回避の道だ。