セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

神は生まれた

2015-01-06 17:02:19 | 文化

あけましておめでとうございます。

さて新春最初に何を書くかといえば、前回の映画『神は死んだのか』で取り上げられた神の実在についての問題だ。映画ではあまりにも無神論者を戯画化して描いている。映画で言うような神に幻滅した者が神を憎んで無神論者になっているばかりではないと思う。ダーウィン主義者のドーキンスは『神は妄想である』という刺激的なタイトルの本を書いたが、多分キリスト教原理主義者が執拗に進化論に反対するので反撃したのだと思う。理論的結論で神を信じて幻滅したからではないと思うが。伝記を読んだわけではないから断定できないが。ホーキングは難病にかかっているから神を頼って幻滅したと思われやすいがやはり学問的帰結だろう。だからこの戯画的なこのキリスト教的有神論のプロパガンダ映画を皮肉った。

だから誤解されるかもしれないが、僕は神の実在を信じている。ただし学問的に神の実在証明はできないとう言う不可知論の立場だ。映画では不可知論者を無神論者と同じ意味に扱っている。アメリカではそのようにとられる場合多い。しかし不可知論自体は科学や哲学では神の存在非存在を証明できないと主張しているのにすぎない。おなじ不可知論者でもカントは神を信じているし、ラッセルは無神論に近い。

神について哲学として語るなら不可知論こそ合理的かつ現実的だと思う。もしも人間が超高性能コンピュータで仮想空間内にその仮想空間内を全世界とする思考する知的生命体もどきを作ったなら、その生命体もどきは自分と世界の本質を証明できるかな。もちろんいろんな可能性を空想することはできる。われわれの世界に「世界が5分前生成した」という説のSF小説があるようにあちらにもいろんな説がでるだろう。だが証明はできない。彼らの世界の物理法則はこちらが設定したもの。彼らが無限の空間と思っているものはこちらから見れば無に等しい。彼らがよりどころとする前提はこちらが設定したもの。

このようにコンピュータ内の仮想知的生物体が自分たちの世界の本質を決して証明出来ないように、われわれも神の存在を証明出来ない。その証拠に数学では「不完全性定理」というものがある。聞きかじりで正確ではないかもしれないが、数学の世界では全く矛盾のない定理の体系は存在しないそうだ。全てを証明しようと思っても証明しきれない部分がのこる。証明しようがないので逆に証明の必要のない公理として話を進めるしかない。たぶん神様がそう決めたのだろう。アレ?これこそ神の存在証明かな。これは冗談。

では不可知論のラッセルが『私はなぜキリスト教徒ではないのか』という本を書いたのに倣って「私はなぜ神を信ずるのか」を書くとしよう。私の有神論はかの有名なパスカルの「神があると前提して生きた方が有益」という功利的なものではい。ぶっちゃけ身の周りに不思議な事が起こるからという原始時代から現代まで続く素朴にして非論理的ではあるが最強の論駁不能の理由だ。論駁不能と言っても他人から見れば「たんなる偶然」とか「思い込み」とかたづけ可能だが、本人が受け入れない限りは何の論駁にならない。

いつの頃からか「むやみに欲しなければ必要なものは必要な時に手に入る」(ただしいつもギリギリだけど)という確信を持つようになった。また「ふと思ったことは実現する」とも感じるようになった。「問題はねかせておけば解決策が向こうからやって来る」もあるな。以前は何度か「今までは偶然にもうまくいったがこれからはそうはいかないことも当然ありうるのでは?」とも思ったが、その後もなんども「今までは・・」とも思っている自分に気がつき結局ずーっとそうなのだと思うようになった。これは明らかに学んできた無神論・唯物論哲学と矛盾する。肝心なのは本当に当面必要としないものを欲しないことだ。なんかこれは「明日のことで思いわずらうな」とか「野の花」の例えとかの聖書を思い浮かぶ。

僕には家を建てたとき、雪景色の絵で家中を飾りたいということを思いたった。さっそくブリューゲルの『雪中の狩人』の複製画を注文した。機械で絵具の質感のある複製画を作るものでサイズは自由に注文できる。そのあとも東山魁夷の雪の中の木を描いた絵の複製画など何点か購入した。しかし気にいったのに購入をためらった絵があった。パリの冬景色を描いたものだ。スーパーの臨時の展示販売のものだ。20数万円の値段にたじろいだ。そんな金は現金でも預金にもない。退職金の残金は無くなって投資信託と共済年金が入るまでは金がない。そこで逡巡したわけだ。今ならカード利用で直ぐ買うかもしれないがその時は思いもしなかった。2・3日後に行ってみると展示販売はまだやっていたがその絵は無かった。きっと誰かが買っていたのだろう。それから月日が流れ再び別のスーパーだと思うが絵の展示販売があった。そこでノーマン・ロックウェルの彼の故郷の町の雪の風景があったのでカードで買った。ノーマン・ロックウェルというのはアメリカの近代画家で人物画が有名だがこれは風景画だ。もちろん原画ではなく許可を得て限定数作成された複製画だ。その絵を部屋に飾りながらまた思い出すのはあのパリの風景画。だれかの家に入っているならもう二度と会うことはないが残念だ。こんな風に思いながらいるとあの画商から手紙が来た。これから展示販売するスーパーの予定表だ。ふとみるとエアポートウオークがある。ここは映画館のミッドランドシネマ名古屋空港と隣接しているので食事場所として週2・3回訪れているところだ。その後エアポートウオークに行ったときに絵の展示販売にであった。ああ手紙にあったのだと思いながら展示された絵画を見た。するとパリを描いた4枚組の絵の中に1枚冬景色があった。割といい絵だが4枚セットで40数万円する。僕は縁なきものとパスをした。その数日後に画商から電話がかかってきた。昔僕が雪景色の絵を集めていると言ったので電話をかけてきたのだ。「かわいい雪景色の絵があります」「かわいい絵。あの雪の中の木の単色の版画の絵?数千円だったけど買う気はないよ」「いやいやパリの4枚組の絵の1枚です。上と話して1枚だけで売る許可を得ました」さっそく車を飛ばしてエアポートウオークに向かった。そして10万円ちょっきりでカードで買った。この絵はリトグラフで150枚同じものがありこれはその43枚目だ。さっそく部屋に飾って眺めていると、アッと気がついた。これは買い逃したと思っていた絵ではないか。リトグラフなのだから同じものが何枚もあるからこうして手に入った。でもこの間「ああ欲しかったな。買った家が何かで手ばなして回り回って手に入らないかな」とも思っていたのも事実。ああ神(仏)は実在する。

ところで実在する神はどのようなものだろう。映画『神は死んだか』では、無神論者側が宇宙や生物の発生について自発的発生論を使い、有神論側が知的デザイン(設計)論を使う。でもオーストリア学派経済学では「自発性」を重視して社会の設計主義を排斥する。となるとオーストリア学派に心をよせながら有神論者の僕はどうなるのか。お答えします。我が宇宙論及び神の存在論は以下の如し。

映画『神は死んだか』では、「神が世界を作ったのなら、神を誰が作ったのだ」という発言が出てきた。徒然草に同じような話があったね。僕は宇宙論発生についてはホーキングの自然発生説に同意する。神はどうなるって?自然発生した宇宙が神になったのだよ。

宇宙には光速を超えるものはないという。物質でも情報でもだ。しかし例外があるらしい。ひとつの粒子が分裂すると分裂した粒子は遠く離れていくが、片方の粒子に変化がおこると同時に他方にも変化が起こるそうだ。これは同時だから光速を超える。また宇宙の物体は重力で引き合うが、全宇宙の物体がそれぞれ互いに引きあっているらしい。とすると全宇宙の物質は情報を共有する量子コンピュータになってきたと考えることも現実的だ。瞬時に情報が宇宙全体の伝わるシステムができたのだ。ここに神が生まれた。我々の思考は原子・分子段階の化学反応によっているが、そのさらに深い段階で見守っているものがありそれは全宇宙と繋がっている。どんな稀なる偶然を全宇宙の量子コンピュータなら簡単に計算でき設定できる。

あ、こんなことを書くと僕が順風万般の人生みたいに聞こえるかもしれないがそうではない。え?出世していないことは知っているって。いやいやそういうことではない。自分が管理職にむかないことは百も承知だ。陽明学者は外部的な尺度を用いない。そうではなくて、「こうすればよかった」とか「こういう偶然がなければ(あれば)いいのになあ」ということや恥ずかしきことも10ぐらいすぐ思い浮かぶ。でもそういうことが人生でないということはありえないだろう。ただきままに注意力に欠陥があって多動するこの僕が他人の命に係わることや仕事や職場にパニックを起こしそうことは辛くも避けられた。それだけでも神は存在する。