セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

BSチャングムの結末に思う

2005-10-29 12:12:45 | チャングム
BS2の「チャングムの誓い」がハッピーエンドで終わった。史実どおり王様の主治医になって、ドラマのフィクションだがミン・ジョンホと結婚して子供もつくった。この結末にいくつか思いついた点を書いておこう。

(1) 本当のチャングムはラスプーチンか?
チャングムが王様の主治医となってからほどなくして、王様の病状が悪化してしまった。もともと胃腸が弱かったうえに老衰が加わったとのこと。でも、宮中の医官たちも敬服させる医術の腕を持ったものが主治医になったとたん体調が悪化したのは割り切れないなあ~。
ドラマでは「チャングムが心配していたとおりだ」なんて、チャングムの想定内の出来事だから、やっぱりチャングムはえらいような描き方。史実でも王様が「自分の体のことはすべてチャングムが知っている」といった数ヵ月後に王様が死んでいる。
 なんかここに朝鮮史上にチャングムだけが女性として王様の主治医になった秘密があるかもしれない。つまりすでに死病に冒されていた王様がなにか特別な治療法を持っていると思われる女性チャングムにすがりつくかたちで主治医にすえた。でもそれは効果がない治療法でありよりましな治療法を妨げたので死期を早めたのではないか。もちろんこれは僕の想像、でもドラマの内容よりはありそうだと思う。

(2) 繰り返すだけで進歩しない歴史
チャングムは王様が死ぬ前に王様の意向で宮中から逃がされ、流刑になっているミン・ジョンホのもとに行き一緒になった。王様の意志によるものなのだがそれは秘密なので、逃亡者となってお尋ね者になった。そして8年後、身分を隠して暮らすチャングムとミン・ジョンホには元気で賢い女の子供がいた。
アレレ!これってドラマの最初のチャングムの登場した時と同じではないか。でも結末は、チャングムびいきのあの皇后様の息子が王様になっていて皇后様は皇太后になっていたので、晴れてチャングムもミン・ジョンホも名誉回復した。これが中宗のあとの王様が長命でその保護者の前の皇太后が権勢を振るっていたらチャングムは逃亡犯のままで命を失い、チャングムの子がまた身分を隠して宮中の女官見習いになったかもしれない。そのサイクルが無限に繰り返される情景を想像させられた。政争はつねに存在するが社会の発展がないと感じられるせいか。これは儒教と身分制の拘束が社会の変化を妨げているせいではないか。チャングムは女性の主治医の先駆けではなくて唯一の例外だったということがそれを物語っている。日本の植民地支配がそのサイクルから抜け出す唯一の解決策だったかどうかは不明だけれど、当時の韓国人でそれが解決策と望んだ人達がいたことは事実だ。

(3) 早熟な天才少年の行方
ミン・ジョンホは名誉回復して旧職に復した。まだ若いので将来は大臣になるかもしれない。でもこのミン・ジョンホ16歳で科挙に首席で合格したのに、いままであまり出世コース歩んでこなかった気がする。ドラマの初めのころはネグミという宮中警護部門の中間管理職。本人は武芸ができるといっても科挙合格者の文官なのに武官の仕事。王様が知らないのだから長官ではなく中間管理職。ドラマの後半はネイオンという医療部門の事務長みたいな職。ネイオンの主役は医官。医師ではないミン・ジョンホは国政にかかわりない部門でしかもそのなかの傍流の立場。両班の科挙合格者で、中人の医局長より身分は高くても、王様に拝謁しネイオンの総意を伝えるのは医局長で、ミン・ジョンホは王様にその存在も知られていなかった。地位の高低はともかく、政治の中枢からはずされてきたのは事実。まあこれは派閥に関係していたかもしれない。オ・ギョモが幅を利かせていたからね。
ところで早熟な天才少年といえば、チャングムが倭寇の首領の治療をした罪で都に連行されて、結局無罪となって済州島に引き戻される途中に、資産家の息子を治療したことがある。その少年は早熟の天才少年で風水なんかにも詳しかった。かなりの有力者の家で両班だろうと思われるから大きくなったら科挙を受験しているだろう。チャングムが名誉回復したドラマの終わりの時点で、生きていれば20代にはなっていたはず。科挙に合格したのだろうか?宮中にいれば会っただろうな。ひょっとしたら地方に勤務していたかもしれない。それとも役人になるのは馬鹿らしくて仙人にもなる修行をしているのか。あるいは二十歳すぎたらただの人になって科挙にはなかなか受からないかもしれない。そういえばむかし韓国の天才少年が日本のテレビ番組に出演して微分の問題を解いていたが、その人は普通のサラリーマンになったそうだ。

王様と抵抗勢力

2005-10-15 22:41:13 | チャングム
王様がチャングムを主治医にする話は、百官の猛烈な反対に加え王様の母である皇太后の反対で頓挫した。アジア的な専制君主と思える王様だが思い通りにならないことはいっぱいあるらしい。王様はちょっと鬱になってチャングムのカウンセルを受けている。

わが国の王朝の支配者を考えると、後白河法皇は「思い通りにならないものは、川の流れと比叡山の坊主」だけだと言うし、藤原道長は臣下の身なのに「この世を自分のものと思っても満月が欠けた部分がないように不足したことはない」と言うなど、はるかに自由みたいだ。でも、臣下や皇后や側室を処刑することほとんど不可能(怨霊が怖いこともあるが)なので、それなりに節度をもってその範囲で満足するらしい。

チャングムにもどって、百官が王様の命令なのに絶対反対したのは、国法に違反すること、国教である儒教の教えに反すること、先例にないことの3つの理由によると思われる。これは強力な抵抗勢力だな。でも方法はないこともない。中宗(チャングムの王様)は順番を間違えたのだ。

建武の中興の時、それは先例にないことだといわれた後醍醐帝は、自分のやることが後の世の先例となると答えた。実力を示しカリスマ性を確保できたら先例を無視して新しいことができるのである。徳川幕府の八代将軍の吉宗は分家である紀州からの移入された者だが、長期政権の中で成果をあげカリスマ性を獲得したので、自分の子供たちで御三卿をつくり自分の子孫で将軍を確保する保証をつくった。こんなことができたのは歴代将軍のなかでも御三家をつくった家康、家光の弟を駿河大納言にした二代秀忠しかいない。
おっと!家光の息子も徳川姓で館林とか甲府に領地をもっていたか。すると7代までの秀忠流の徳川宗家は息子が複数いれば徳川姓の大名にすることができたのかな。すると吉宗の子の御三卿は領地を持たないだけ遠慮したことになるか。ともかく九代以後の将軍は自分の嫡子は将軍にできるが、他の息子の子孫たちに将軍になれる権利を与えることも新たな大名家を創設することもできない。
またまたおっと!御三卿の一つ清水家は九代将軍家重の子からか。いろいろ訂正が多いのはポパー哲学の信奉者のせいかそれとも持病の注意欠陥多動性症のためか、おそらく両方だな。とにかくそれ以後の担がれているだけの将軍の立場では、息子たちをはなんとか跡継ぎのいない大名家の養子に押し込むことが精一杯だ。皇室にいたっては明治になるまで、室町にできた宮家があるだけで、天皇の子は皇太子以外は僧侶になるか子孫を残せても数代で皇族でなくなる。

だから今まで百官の言いなりで政治を行ってきた中宗が、いきなり奇抜なことを言っても百官は従わない。それ以前にいろいろ成果をあげて百官を唸らせたり、恐れさせたり、威かしたりしたしなければならない。小泉首相でも解散総選挙とその結果が出てから抵抗勢力は沈黙した。

科挙と官位とポパー哲学

2005-10-07 22:02:50 | チャングム
ミン・ジョンホはネイウォン(内医院)の管理職でありながら、チャングムを主治医にするという王様の方針を支持したため王様の前に呼び出された。でもそれは王様の方針を支持する上申を自分がしたというわけではなく(実際していない)、逆に他の百官から弾劾の上申が王様に多く提出されたためだ。これからミン・ジョンホはたびたび王様に呼び出されて側近みたいになる。弾劾されて王様の目に留まるという奇妙なケースだ。
でも、分からないのは王様がほとんどミン・ジョンホを知らなかったということ。どうやらミン・ジョンホと王様が顔を合わすのは、科挙に合格した時に拝謁したとき以来らしい。あれ!科挙の試験ってものすごい難関だろう。現代日本の国家公務員の上級試験と比較にならない狭き門だと思う。毎年あるか数年に一度あるか知らないが合格者はそんなに多くないはず。役人の多くは中人といわれるノンキャリア、だから科挙合格者はいきなり高官になっているはず。中国に較べたら政府の規模がずっと小さいから科挙の合格者ぐらいは知っていて不思議はないと思うのだが・・・。
ミン・ジョンホが15歳で科挙に首席合格して王様に拝謁した時の王様の回想場面では4人の合格者が並んでいた。すると4人しか合格しないのかな。でもそんな数では、数世代で1人の合格者を出しただけでもいいにしても両班という社会階層を作り出すには無理がある。するとあの王様が拝謁した4人は上位合格者の4番目までで、合格者はもっと多いのかな?まあ毎年20人ぐらいいたら役職によっては王様も知らない高官もいるかもしれない。でもミン・ジョンホは以前は宮廷の護衛官の隊長みたいな職務だったはず、とすると警備任務中の夜の宮中で王様が側室の部屋に行くことに出会うこともあったと思うけど。
でもここまでは僕の憶測。科挙合格者が毎年何十人もいて王様がいちいち知るわけがないというならそのとおりだろう。警備の役人などは宮中で王様をみかけても遠くでかしこまって言葉どころか目を合わすことさえできなかったかもしれないし。

でももっと分からないのはチャングムの地位。皇后の王子をふくむ天然痘の治療の功績により再び王様がチャングムに官職を与え主治医にしようとした。で、そのとき王様が最初に言い出した官位が従九品。日本流で言えば従九位で一番下の官職で宮中に野菜を届けるため八百屋がもらう便宜上の官位みたいなもの。だから今や最高尚官(チェゴサングン)のミン尚官だけでなく平の女官のチャンイまで「わたしたちより官位は低いけど」というわけだ。解説では女官でも従五品までは行けるらしい。
でもおかしいな、チャングムは王様にお願いして短い間だけでもスラッカンの最高尚官になって母の無念をはらしたはず。そうするとそのとき役職に対応する官位を得たはず。日本の例だと、罪を犯して剥奪されないかぎり職を退いても前官待遇で官位は下がらないのだけど。チャングムは医女に戻った時またになったのか?

ところで今回、天然痘の治療法を探す過程をみると、チャングムがポパー哲学の実践者であることがわかった。チャングムは天然痘について「治療法が分からないからいろんな方法を試してみてどれがよいか探していく」といって、その方法を実践して総合的な治療方法を確立した。ポパー哲学では知識の源泉は問題とされない。権威あるものによるものでも民間療法からのものからで、それはすべて反証されるまでの仮説である。源泉によって判断せずに、状況に適応するものならば実践し、誤りなり限界がわかればまたあらたな状況に適応する仮説をためしてみるのである。この場面でチャングムでなくて森鴎外が治療法の研究にあたったら王子は死んでいただろう。日露戦争か日清戦争時の軍医総監の森鴎外は脚気の治療法に米ぬかがいいという意見を民間療法だとして無視したため、日本軍では多くの兵士が脚気でなくなった。

ミン・ジョンホはちょっとむごいよ

2005-10-02 23:15:24 | チャングム
チャングムとミン・ジョンホは駆け落ちみたいな形で都を離れたけれど、追っ手がかかって結局宮中にもどった。この間の経緯はちょっと混乱している。だって、ミン・ジョンホの方は一応辞表をだした。チャングムの方は東宮(皇太子)つきの医女になっていたけど無断での出奔。しかも宮中では王様がチャングムを主治医にすると言ったので前例のない暴挙と宮中は大騒ぎ、でもまだチャングムの出奔のことは公にはばれていなかった。本来なら無断での出奔でチャングムに追っ手がかかるのだが、追っての目当てはミン・ジョンホを連れ戻すこと。ミン・ジョンホがいなくなると大いに困る改革派の大臣が辞表を握りつぶし追っ手を出すと共に自ら出向いてミン・ジョンホを説得に来たのだ。そうだよね~オ・ギョモがいなくなってもそれは汚職のため、改革派の天下になったわけではなく、また保守派の高官がオ・ギョモの後の職についた。ミン・ジョンホが安心して退職できる状況ではないはず。「愛のために何もかも捨てます」という覚悟でもなさそうだし、どうなっているのだろう。
でもともかくもミン・ジョンホとチャングムは宮中にもどった。宮中では女医のチャングムを王様が主治医にする言ったことで、男尊女卑の儒教社会の根幹に触れることなので百官は大騒ぎ。王様は皇后とチャングムとのやり取りを聞いてしまっていたので、たぶんチャングムの命を護るためにそう言ったと思う。もちろんチャングムの医術の腕と医療に策謀を持ち込ませない姿勢も理由だろうけど。でも表向きは医術の腕のことだけしか言えないもの。だから医局の中も大反対。医女たちもシンビ以外はみな反対。医局長で王様の主治医になっていたイクピルも「王様に信頼されていないから退職する」と落ち込んでいる。百官は王様の言い出したことなのであつかいに困りチャングムに辞退することを期待する。チャングムも辞退するつもりであったが、なんとミン・ジョンホはチャングムに辞退しないよう頼んだ。その理由はこの国の古い因習を打破し身分や性別にとらわれない社会を作るためだとさ。
でも、周りは反対ばかりの中にチャングムを一人で立たせるなんて、ミン・ジョンホはちょっとむごいよ。自分は簡単に職務放棄するくせに。