李舜臣は王様である宣祖から謀反の疑いをかけられるのだが、それは一つには戦に連勝する李舜臣に対する人気と、首都を放り出して逃げた国王である自分の不人気による嫉妬からのものだが、李舜臣の行動に宣祖の神経を逆なでするものがあった。
1 宣祖が王様になった直後に、お忍びで柳成龍の家に出かけたことがある。そこに柳成龍の友人の李舜臣が訪ねてきた。宣祖は李舜臣に「最近朝廷の人が替わったので世の中は良くなってきたでしょう」とたずねた。すると王様とは知らない李舜臣は「人が替わっただけでは世の中はちっとも良くならない」とぶっきらぼうに言ったので、王様はどっ白け。これが2人の最初の出会いだ。
2 王様が水軍を解散して兵員をすべて陸軍に組み込むという命令を出した。日本軍が攻めてくる場合を想定して、陸軍の強化を図るものだ。水軍の武将たちもたまたま海岸地帯に赴任したのでもともと陸軍だという意識もあるので水軍からの反対はあまりなかった。これに李舜臣が強硬に反対して命令を実行しないだけでなく首都まで行き王宮の庭でずっと立ち続けて水軍の存続を請願した。柳成龍の協力もありやっと水軍の存続を許された。でも、王様が水軍の廃止を決意したのは李舜臣にも原因があるのだ。李舜臣は世宗大王のときにあったという亀船を再現したと王様に報告した。王様は喜び臣下を差し向け浸水式に出席させた。亀船は一般に亀甲船と呼ばれているが、甲板の上部を鉄板で覆った船だ。日本の水軍の得意技は敵船に船を横づけして戦闘員が敵船に乗り込むことなので日本の水軍との戦闘に活躍が期待される。ところがなんと浸水式で亀船は沈没して多くの乗組員が亡くなった。鉄板のため船の重心が高くなったのが原因だ。王様の落胆と怒りは大きく、王様は水軍の廃止論に傾いた。
ああそうそう、このとき水軍存続の条件で、1度でも負けたら水軍廃止なんて条件を付けられたんだ。ここから2人の関係はおかしくなったのかな。
3 国で武科の科挙を実施することとなったとき、李舜臣は三道水軍の中で独自に試験を行うといった。しかも身分にかかわらず参加して良いという。まったく前例にないことだ。本来なら全く認められないことだが、王様から軍事上の人事権を委任されている王世子の光海君が悩んだ末に許可をくれた。試験には兵法などの筆記試験もあるが李舜臣は学習の援助などを行い受験させた。そのため漕ぎ手等のものから軍官が誕生した。だけど李舜臣が謀反の疑いで拷問にあい白衣従軍になったときに、それらの軍官は兵士や漕ぎ手に戻された。光海君の許可で正式なものになっていたので戻すのは不条理だよ。
王様からみれば李舜臣は自分に忠実な軍隊を作っているようにみえて、謀反の準備をしているようにも見えるわけだ。
4 王様は北の国境付近の新義州に避難しているわけだが、加藤清正の軍隊も北方付近で2王子を捕虜にするなどしたため王様は脅威を感じている。そこで王様は李舜臣に釜山 を水軍で海から攻撃するよう命令を出す。釜山は日本軍の補給基地となっている。そこを攻撃すれば補給を断たれる懼れのため加藤清正ら日本軍は南下せざるをえなくなり、新義州への危険が無くなると考えたわけだ。でも李舜臣は今攻撃できないと出撃を拒否した。何回も王様の命令を伝えに宣伝官や高官が来るがそれでも頑として出撃しない。部下の中には形だけでも出撃してごまかせばというが聞かない。元均は王命には逆らえないというが李舜臣は出撃できないという。李舜臣によれば勝てない戦で部下は死なせられないとのことだ。王様は王様の軍隊が王様の危機なのに命令を拒否するとは全く理解できない。
でも不思議なのは、その後に釜山方面へ出撃しているのだよ。条件が変わったのかな?それとも王様にあえて逆らっているのかな?
5 慶長の役で、小西行長から朝鮮側に加藤清正軍が日本から釜山へ上陸する日が伝えられた。日本の通説では、講和の邪魔になる加藤清正を朝鮮側の手を借りて小西行長が殺そうとしたと思われている。だが李舜臣は出撃しなかった。罠と思ったのか、また罠でなくても釜山付近には李舜臣の水軍の数倍の日本の軍船がいるので李舜臣が勝てる可能性は少ないと思ったのだろうか。海上では李舜臣の水軍が無敗なので待ち伏せすれば海上で加藤清正を殺せたと思い王様は激怒する。まあこれが李舜臣の反逆罪で捕らえられるきっかけとなった。通説どおりだとすれば李舜臣は慎重すぎて勝機をのがした間抜けということになる。このドラマでは加藤清正の上陸日は知らされた日より一日後だとして罠説にちかい。
6 9月15日の[その2]にも書いたのだが、露梁海戦の前にあった朝明連合軍による小西行長が籠城する順天城攻撃で明軍に死者が多く出て失敗したのに、李舜臣は勝利したとの報告を行って王様の不興をかった。李舜臣の被害は小西行長軍より少ないから勝利という理屈らしい。これでは王様の李舜臣への不信は大きくなるばかりだ。
中国でも将軍はいったん戦場に出たら自分の判断を最優先して王命には従わなくてもとなっている。そうなのだから司令官である李舜臣は自己の判断で行動して王からの命令に右往左往してはいけない。それが兵士の命を預かる者の責任だ。しかし王様に事情を説明して相互の信頼を築くことも長期の戦争を勝ち抜くには必要なのではないか。李舜臣の中には宣祖あるいは朝鮮王朝や朝鮮社会に対する憤懣があったのではないのか。だから宣祖をわざと軽く見る態度をとったのではないのかな。
1 宣祖が王様になった直後に、お忍びで柳成龍の家に出かけたことがある。そこに柳成龍の友人の李舜臣が訪ねてきた。宣祖は李舜臣に「最近朝廷の人が替わったので世の中は良くなってきたでしょう」とたずねた。すると王様とは知らない李舜臣は「人が替わっただけでは世の中はちっとも良くならない」とぶっきらぼうに言ったので、王様はどっ白け。これが2人の最初の出会いだ。
2 王様が水軍を解散して兵員をすべて陸軍に組み込むという命令を出した。日本軍が攻めてくる場合を想定して、陸軍の強化を図るものだ。水軍の武将たちもたまたま海岸地帯に赴任したのでもともと陸軍だという意識もあるので水軍からの反対はあまりなかった。これに李舜臣が強硬に反対して命令を実行しないだけでなく首都まで行き王宮の庭でずっと立ち続けて水軍の存続を請願した。柳成龍の協力もありやっと水軍の存続を許された。でも、王様が水軍の廃止を決意したのは李舜臣にも原因があるのだ。李舜臣は世宗大王のときにあったという亀船を再現したと王様に報告した。王様は喜び臣下を差し向け浸水式に出席させた。亀船は一般に亀甲船と呼ばれているが、甲板の上部を鉄板で覆った船だ。日本の水軍の得意技は敵船に船を横づけして戦闘員が敵船に乗り込むことなので日本の水軍との戦闘に活躍が期待される。ところがなんと浸水式で亀船は沈没して多くの乗組員が亡くなった。鉄板のため船の重心が高くなったのが原因だ。王様の落胆と怒りは大きく、王様は水軍の廃止論に傾いた。
ああそうそう、このとき水軍存続の条件で、1度でも負けたら水軍廃止なんて条件を付けられたんだ。ここから2人の関係はおかしくなったのかな。
3 国で武科の科挙を実施することとなったとき、李舜臣は三道水軍の中で独自に試験を行うといった。しかも身分にかかわらず参加して良いという。まったく前例にないことだ。本来なら全く認められないことだが、王様から軍事上の人事権を委任されている王世子の光海君が悩んだ末に許可をくれた。試験には兵法などの筆記試験もあるが李舜臣は学習の援助などを行い受験させた。そのため漕ぎ手等のものから軍官が誕生した。だけど李舜臣が謀反の疑いで拷問にあい白衣従軍になったときに、それらの軍官は兵士や漕ぎ手に戻された。光海君の許可で正式なものになっていたので戻すのは不条理だよ。
王様からみれば李舜臣は自分に忠実な軍隊を作っているようにみえて、謀反の準備をしているようにも見えるわけだ。
4 王様は北の国境付近の新義州に避難しているわけだが、加藤清正の軍隊も北方付近で2王子を捕虜にするなどしたため王様は脅威を感じている。そこで王様は李舜臣に釜山 を水軍で海から攻撃するよう命令を出す。釜山は日本軍の補給基地となっている。そこを攻撃すれば補給を断たれる懼れのため加藤清正ら日本軍は南下せざるをえなくなり、新義州への危険が無くなると考えたわけだ。でも李舜臣は今攻撃できないと出撃を拒否した。何回も王様の命令を伝えに宣伝官や高官が来るがそれでも頑として出撃しない。部下の中には形だけでも出撃してごまかせばというが聞かない。元均は王命には逆らえないというが李舜臣は出撃できないという。李舜臣によれば勝てない戦で部下は死なせられないとのことだ。王様は王様の軍隊が王様の危機なのに命令を拒否するとは全く理解できない。
でも不思議なのは、その後に釜山方面へ出撃しているのだよ。条件が変わったのかな?それとも王様にあえて逆らっているのかな?
5 慶長の役で、小西行長から朝鮮側に加藤清正軍が日本から釜山へ上陸する日が伝えられた。日本の通説では、講和の邪魔になる加藤清正を朝鮮側の手を借りて小西行長が殺そうとしたと思われている。だが李舜臣は出撃しなかった。罠と思ったのか、また罠でなくても釜山付近には李舜臣の水軍の数倍の日本の軍船がいるので李舜臣が勝てる可能性は少ないと思ったのだろうか。海上では李舜臣の水軍が無敗なので待ち伏せすれば海上で加藤清正を殺せたと思い王様は激怒する。まあこれが李舜臣の反逆罪で捕らえられるきっかけとなった。通説どおりだとすれば李舜臣は慎重すぎて勝機をのがした間抜けということになる。このドラマでは加藤清正の上陸日は知らされた日より一日後だとして罠説にちかい。
6 9月15日の[その2]にも書いたのだが、露梁海戦の前にあった朝明連合軍による小西行長が籠城する順天城攻撃で明軍に死者が多く出て失敗したのに、李舜臣は勝利したとの報告を行って王様の不興をかった。李舜臣の被害は小西行長軍より少ないから勝利という理屈らしい。これでは王様の李舜臣への不信は大きくなるばかりだ。
中国でも将軍はいったん戦場に出たら自分の判断を最優先して王命には従わなくてもとなっている。そうなのだから司令官である李舜臣は自己の判断で行動して王からの命令に右往左往してはいけない。それが兵士の命を預かる者の責任だ。しかし王様に事情を説明して相互の信頼を築くことも長期の戦争を勝ち抜くには必要なのではないか。李舜臣の中には宣祖あるいは朝鮮王朝や朝鮮社会に対する憤懣があったのではないのか。だから宣祖をわざと軽く見る態度をとったのではないのかな。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます