セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

映画鑑賞ノート『杉原千畝』

2015-12-19 16:23:00 | 歴史

 

14日の月曜日、映画館で『杉原千畝』を見てきた。映画を見る以前と後では杉原千畝氏とその生涯についてイメージが少し違ってきたのでここにノートする。まあ正確に言えば杉原氏と外務省についてだ。

以前の僕のイメージというよりは世間の通説では外務省の訓令に違反してユダヤ人難民にビザを発給し続けたたため外務省に解雇されたというもの。

「訓令違反」をどうとるかだが、外務省はユダヤ人にビザを発給してはいけないとは言っていない。単純に3項目の基準を順守せよと言っている。これはすべての外国人についてに当てはまる通常の原則だ。つまり日本滞在中に必要なお金を所持しているか。日本を通過した後の行く先はあるか。とあと一つだ(ちょっと忘れた)。つまり通常通り処理せよと言っているだけだ。日本の外務省としては同盟を結んだナチスドイツも気になるが、国際連盟などで人種差別反対を主張してきた日本としてはユダヤ人排斥は絶対にとれないわけだ。

だから杉原氏は映画の中で「外務省に禁止されたわけではない。でも勝手にやった」と言っている。形式的に確認すべき日本の後の行き先はオランダ領事がカリブ海のオランダ領の島へのビザを出している。それが全員に出されたかとか、お金を持っているかとかの確認は領事である杉原氏の裁量行為だから、杉原氏が判断したなら外務省は文句が言えないはずだ。

杉原氏は訓令違反で外務省を首になったのではないことは、リトアニア領事館が閉鎖された後に本国に召還されて懲戒をうけることもなく、次のドイツ国内に転勤したのでわかる。

ではなぜ杉原氏は戦後外務省を首になったのか。それは彼が単なる外交官ではなくてスパイ活動を行っていたからだ。満州での対ソ活動やドイツ国内での情報収取もある。もちろんリトアニアでも情報収集をしていたはずだ。映画ではポーランドの亡命政府関係者を運転手に雇って協力していた。すでに戦前から杉原氏の活動はソ連にも知られておりソ連から好ましからぬ人物として入国を拒否されていた。

敗戦国日本は講和条約を締結するにあたり主要な連合国であるソ連にスパイ活動をしてたとされる人物を外交官としておいておくことは非常に都合が悪いわけである。だから杉原氏は戦後外務省を首になったのだと思う。

映画の冒頭で、戦後の外務省の役人が杉原千畝という人物は過去にも現在も日本国外務省にはいないといったのはこういうわけだと思う。懲戒解雇なら懲戒解雇されたというはずである。

でも鈴木宗男氏によると杉原氏自身は「ビザ発給でクビになった」という認識でいたらしい。

終戦直後は外務省は大幅な人員削減があり、杉原氏も退職届をだして依願退職をしている。だから外務省も以前は杉原氏はビザの件で首にしたのではないという見解だった。

杉原氏自身は「事務次官からビザの件の訓令違反でクビだ」と言われたらしい。しかし僕が思うに人員削減をしなくてはならない事務次官が退職させるために、役人としてはにがにがしい出た杭である杉原氏についそう言ってしまったのだと思う。逆にそういわないとビザ発給を手柄のようにしてアメリカ占領軍に通じられたら扱いに困ることになる。

だから鈴木宗男氏の見解と異なり、スパイ活動が原因だと思う。映画もそうした視点で描かれていると思う。

もう一度言うと、スパイだったから外務省は存在を否定した。訓令違反ではない(禁止の訓令はなく、ビザ発給は領事の裁量行為だ)から本省に召還されず次の任地に赴いた。


読書ノート:門司親徳『空と海の涯で』光人社NF文庫

2012-05-26 16:23:32 | 歴史

これは海軍の短期現役主計科士官に日米開戦直前に任官して、空母「瑞鶴」艦上で真珠湾攻撃に参加して、台湾で終戦を迎えた門司親徳氏(日本興業銀行取締役・丸三証券社長)の回想録である。

短期現役主計科士官というのは、日中戦争に伴う軍拡により不足する事務系及び医学工学系士官を専門知識を持つ大学及び専門学校卒業者から供給しようとした海軍の制度だ。

戦前では20歳になると徴兵検査があり合格するとそのまま兵役につかされる可能性があった。大学生は最長6年間の徴兵猶予があったが、猶予であり免除ではないので卒業したら一兵卒として戦場に赴かなければならない可能性があった。僕の推測だがそれでも平和時は大卒者は甲種合格しても徴兵されることが少なかったと思う。しかし日中戦争の拡大に伴い徴兵検査で合格したら即兵役ということが多くなった。そこに登場したのが海軍の短期現役士官制度だ。徴兵期間に見合う2年間を将校の扱いを受けて過ごせるわけだ。だから戦後には海軍の短期現役士官制度を知識人の温存として評価されることが多い。しかし戦死者が少ないわけではない。大卒者が誰でもなれるのではなく20倍以上の試験があった。国民皆兵の建前から言えば帝大卒でも二等兵というのが原則上正しい気がする。でも戦争遂行の為の目的合理性からいえば専門知識人の士官登用は必要だ。だけど序列重視の海軍の人事が目的合理性にかなっていないことは周知のことだ。だからこの短期現役士官制度も海軍のエリート主義と権威主義という点から見て行くのが正しいのではないか。

僕がこの本を読もうと思ったのは、中曽根康弘元首相もその出身という短期現役主計士官というものがあった事を知っていたので、司令部に近い場所にいた士官とはいえ職業軍人でなく作戦指導にも責任がない知識人の目で日米戦争をどう見てたかを知りたかったからだ。この本は期待以上の収穫であった。というのは、著者自身の戦争地域全域に渡る広範な転勤と、同期生や様々な場所で知り合った海軍将校達の動静により日米戦争全体の様子が分かることと、戦争最終期に副官として大西滝治郎中将に仕えたことで特攻隊の発生事情が垣間見られることである。

本の記述の始めは、昭和16年10月2日に転勤命令のため経理学校卒業後の最初の勤務場所であった戦艦「陸奥」を離れ次の勤務先の新造艦の航空母艦「瑞鶴」に向かう大発(大型発動機艇)の船上からだが、それ以前の著者の経過をたどってみよう。門司氏は同じ年つまり昭和16年3月に東京大学経済学部を卒業してすぐ(4月始めか3月末だろう)に日本興業銀行に入社しているが、なんと4月18日には第6期短期現役主計科士官として中尉に任官して海軍経理学校に入校している。これは戦時体制の日本では徴兵とか短期現役が予定される者でも採用に支障がなくまた徴兵されても首にはならないで復員したときの職場が確保されていると考えられる。ただ日本興業銀行は国策会社だからむしろ積極的に短期現役予定者を採用したかもしれないが、そうでない会社は他の理由をつけてそうした人の採用を敬遠したかもしれない。まあ僕の現代的な発想だが。

第6期短期現役主計科士官といえば、中曽根元首相も鳩山威一郎氏も第6期である。鳩山威一郎氏は鳩山由紀夫元首相の父親で戦後大蔵事務次官のあと政治家になり外務大臣をやった。この本には著者の勤務場所に近隣して勤務している同期生や移動途中や出張先の同期生との交流の他に、この時々のスポットの戦地や艦船にいる同期生の名をあげているが、鳩山氏の名前はでてきたが、中曽根氏の名前は出てこなかった。これは偶然であろう。名前がでてくるのは米軍との戦闘が予想される場所なので鳩山氏が生きて復員したのは幸運に思える。反対に名前が出てこなかった中曽根氏が安全な場所ばかりにいたかと言うと、ウィキペディアによると違うみたいだ。もちろん政治家の自慢話は誇張があるものだけど。

海軍経理学校での修学期間は4ヶ月と短い。もともと基礎学力のある人たちであり兵役の期間が2年なので長い期間は取れないし必要もないのだろう。ちなみに短期現役士官は経理学校入学時にすでに中尉であるが、職業軍人としての経理学校出身者(多分旧制中学卒業後入学)は卒業した時点でも中尉ではない。たぶん少尉でもないだう。この本で「海軍兵学校出身の候補生」という人がでてくるので、兵学校や経理学校を卒業した時点では士官ではないのだろう。短期現役士官というのはもともと社会のエリートであるので海軍でもエリート扱いされるのだろうね。著者の門司中尉は戦艦「陸奥」で1ヶ月ほどの勤務のあと経理学校生徒出身の少尉に庶務主任を譲って転勤している。

門司親徳氏の軍歴をまとめてみると以下のようになる。

昭和16年4日18日  第6期短期現役主計科士官として中尉任官、海軍経理学校入学

昭和16年8月中旬  戦艦「陸奥」に配属、しばらくして庶務主任

昭和16年10月2日  航空母艦「瑞鶴」で主計科庶務主任

昭和16年12月8日 「瑞鶴」艦上で真珠湾攻撃に参加、この後「瑞鶴」にてラバウル方面攻略作戦とセイロン島攻撃に参加

昭和17年5月1日  呉鎮守府第五特別戦隊(呉五特)主計長

昭和17年5月15日  呉五特はミッドウェイ攻略のため輸送船で呉を出港。

昭和17年6月5日  機動部隊がミッドウェイ海戦で敗退、呉五特の輸送船は反転。

昭和17年8月25日  呉五特ニューギニア島のラビ飛行場攻略のためミルン湾に上陸。

昭和17年9月6日 ラビ攻略作戦失敗。呉五特ミルン湾を脱出してラバウルに収容される。

昭和17年11月1日 呉五特解隊。大尉進級と同時に横須賀鎮守府へ異動命令。

昭和17年11月21日  土浦航空隊分隊長。主計科だが特に分担のない分隊長。土浦航空隊は戦闘部隊ではなく教育機関でいわゆる「予科練」。

昭和18年9月 木更津で新設される第五五一航空隊主計長。

昭和18年10月 第五五一航空隊はスマトラ島コタラジアに移駐(一部は近隣のサバン島)

昭和19年2月11日  第五五一航空隊はトラック島へ移駐。

昭和19年8月14日 第一航空艦隊司令長官(寺岡勤平中将)付き副官としてフィリピンのミンダナオ島ダバオに着任。

昭和19年10月10日 副官として次の第一航空艦隊司令長官を台湾まで迎えにゆき新長官大西滝治郎中将と初めて会う。台湾滞在中に台湾沖航空戦(10/12〜16)があり大戦果が発表されたが実際は敵の損害は軽微で日本の航空戦力の消耗が甚大であった。ちなみに第一航空艦隊はフィリピンの航空基地戦力で台湾の航空基地は第二航空艦隊(長官=福留繁中将)

昭和19年10月17日 大西長官とともにフィリピンにもどる。

昭和19年10月18日  連合艦隊司令部から「捷一号作戦発動」が伝達される。「捷一号作戦」とはフィリピン方面に来襲する敵を撃滅する作戦。

昭和19年10日19日  大西長官の伴でマニラ郊外のクラーク基地に行く。大西長官は基地航空隊幹部と翌日にかけて特攻隊について協議。

昭和19年10月20日  最初の特攻隊を編成。大西中将に正式に第一航空艦隊長官の発令。敵のフィリピンへの本格的上陸がはじまる。

昭和19年10月22日  敵上陸船団が集結するレイテ湾突入をめざし水上部隊(栗田艦隊)がボルネオのブルネイから出撃。第二航空艦隊が支援のため第一航空艦隊と合流。

昭和19年10月25日 水上部隊がレイテ湾突入を断念。神風特別攻撃隊敷島隊が撃沈=空母1・巡洋艦1、大火災=空母1の成果をあげる。第一航空艦隊と第二航空艦隊が合体して第一連合基地航空部隊になる。長官は福留中将、幕僚長は大西中将。

昭和20年1月6日  第二航空艦隊司令部のフィリピンからの転出開始。これはフィリピンでの航空作戦終了により台湾が守備範囲の第二航空艦隊を返し、第一航空艦隊は引き続きフィリピンで山籠りして戦う決意。

昭和20年1月8日  第二航空艦隊は解隊してその下の部隊は第一航空艦隊に入り、福留長官は転任となった。中央より第一航空艦隊の守備範囲を台湾まで広げ司令部は台湾に転出せよとの指令がきたことを門司氏が知る。

昭和20年1月10月  大西長官とともに台湾へ転出。フィリピンには残存部隊が残った。

昭和20年3月23日  沖縄地区に敵機動部隊が来襲。沖縄戦が始まる。

昭和20年5月13日  大西長官が軍令部次長に異動のため東京へ行くのに随行する。

昭和20年5月23日 台湾へ戻る。

昭和20年6月15日 一航艦は解隊して、高雄警備府の下に第二十九航空戦隊ができ、司令部付きとなる。

昭和20年8月15日  終戦。翌日に無電で大西長官の自刃を知る。

主計科士官というのは直接的な戦闘要員ではない。だから比較的安全かというとなかなかそうではない。軍艦勤務だと船が沈むと命に関わることは他の乗務員とかわりない。基地航空隊勤務だと敵の空襲により防空壕に隠れることが多いが飛行士よりはかなり安全だろう。問題なのは海軍でも陸上戦闘部隊の主計科士官となった場合だ。部隊の行くところ即ち戦場にも同行することとなる。呉五特がニューギニアのラビ飛行場攻略のためミルン湾に上陸したときがそれだ。これは海軍が主体の作戦だが、同じ時期に始まった陸軍によるガダルカナル攻略(正しくは奪回だけど)とよく似た作戦だ。だからガダルカナルと同じ経過をたどれば、門司氏は餓死か病死していただろう。同じ経過にならなかったと言っても決して勝ったわけではない。むしろ司令始め幹部将校が多数戦死するという大敗である。ガダルカナルよりは早めに断念したため駆逐艦による撤退が可能だったにすぎない。主計科士官だから助かったと言えるとしたら主計科は二次上陸部隊だからだ。二次上陸部隊が上陸した時、司令を始めとする一次上陸部隊はラビ飛行場を目指してジャングルの中を進んでいっていた。だから直接の前線にはいなくて後方にいたと言えるが、それでも敵機の機銃掃射に頻繁にさらされた。この作戦で注目する点は、作戦開始のかなり前から林司令が「地図が欲しい、せめて航空写真を」と訴えていたが与えられなかった。上陸地点も上陸してから予定地でないと気づいたことである。情報軽視ということは真剣さが足りないと思うのだが、これが第二次世界大戦の日本に頻繁にみられる。

第一次世界大戦でもそして日米開戦以前に始まっていた第二次世界大戦のヨーロッパ戦線でも、島国イギリスはドイツのUボート(潜水艦)による通商破壊作戦に苦しめられたことは知られている。だからイギリスと同じアキレス腱を持つ日本は日米開戦にあたって対潜水艦対策が必須なのは自明なのだか、開戦前に対潜水艦対策が立てられた形跡がない。船団防衛ための護衛艦隊司令部ができたのは戦争も半ばに入ってからである。そのときはもう時遅しである。すでに莫大な数の船を失っている。これが僕の疑問であったが、この本で理由が分かってきた気がする。

フィリピンでのレイテ湾突入作戦の水上部隊の主力艦が何隻も潜水艦により沈められた時に、著者は以前に乗っていた船がアメリカの潜水艦に沈められた同僚からアメリカの潜水艦について話を聞く。アメリカの潜水艦は4隻が平話(暗号でないということ)で無線電話しながらフォーメーションを組んで攻撃してくるという。アメリカの魚雷は日本の水素魚雷より航跡がはっきり見えるので単独なら回避しやすいがフォーメーションを組まれると回避先にも魚雷が待っていて逃れられない。平話なので日本の艦の通信士にもアメリカ潜水艦の行動が分かるかもしれないが翻訳して艦長に伝える時間的余裕はないだろう。スピーカーで艦長が直接聞くことが可能かもしれないが英語を聞き取れる艦長はあまりいないだろうし聞き取れたところで4隻のフォーメーションには対抗できないだろう。

著者はアメリカ潜水艦乗組員の敢闘精神に感心する一方、いままで自分たちが聞かされてきたことが全くの誤りである事を知らされる。それは「潜水艦に乗れるのはドイツ人と日本人だけだ。アメリカ人は嫌がり乗組員がいないのでアメリカは潜水艦部隊を作れないからアメリカの潜水艦は心配しないでよい」というもの。なんと馬鹿げたご都合主義の考えだ。これは僕が思うに海軍内で対潜水艦対策の必要性を主張すると、それならお前がやれと言われて、戦艦や機動部隊の花形部署から飛ばされかねないのでアメリカ潜水艦の脅威をことさら考えないようにしたのではないかと思う。

明らかに馬鹿げた考えがまかり通るのは軍国主義の昔だけではない。現代日本の現在進行形でもある。「日本の国債は大部分を日本国内で買っているから大丈夫。国債は負債でもあるが財産でもある」という主張はあきらかに馬鹿げている。日本国内で買っているということは国内金融機関が買っているという事とほぼ同じなのだが、投機筋が売り浴びせにくい点があるが、動き始めると全体が一期に動くのも日本の特徴。そうした場合は政府や日銀の資金補給が不可能になる。

特攻隊の成立についておやっと気がついたのは、特攻隊はまず当面の水上部隊のレイテ湾突入を助けるための急場の策として考えられたということだ。大西長官がフィリピンに着くなり長官就任よりも前にクラーク基地に特攻隊編成のために向かったのは、あらかじめ東京で軍令部の許可を得てきていると思われるが、ひとえに捷一号作戦の水上部隊のレイテ湾突入を成功させるために敵機動部隊の動きを一時的にも封じるため航空機による「決死隊」を作るためだ。だから特攻の決行日は水上部隊のレイテ湾突入予定日の10月25日より前と決められていた。実際の特攻は予定最終日ギリギリの25日でも水上部隊がレイテ湾突入を断念して反転した後であったが、一航艦司令部や軍令部は多数の航空機を失っても久しく無かった戦果が少数機部隊で得られたことによりどん詰まりの戦争の行方に光明を見た思いになり以後特攻戦術にのめり込んで行く。

大西長官が麾下の航空部隊に訓示した内容が残っている。門司氏が副官として訓示をガリ版刷りにして各部隊に配布したのでそのまま残っているのだ。これにより戦争末期の軍事指導者の思考がよく分かる。玉砕とは自軍の全滅という敗北なのになぜ宣伝され称えられる理由もわかる。大西長官のいうには、多くのアメリカ兵を殺せばアメリカでは反戦世論がわきあがり向こうから戦争終結を求めてきて日本が勝利するというもの。日本人は何人死んでも屈しないがアメリカは違うということか。しかし戦死者数に見合うかで判断するならそれはそれで戦争についての目的合理性にかなっている。死んだ英霊のために負けられないという口実で、実は軍人の面目や功名心のために国家が戦争の方向を目的合理的に決められないとしたらその先は滅亡しかない。しかし大西長官の予測は別の方で実現したのかな。アメリカ兵の戦死者の増大に耐えられないから原爆を落としたとアメリカ人は言っているもの。


読書ノート:平山優『天正壬午の乱』(Gakken)

2011-04-21 21:28:10 | 歴史
天正とは日本の元号で西暦の1573年から1592年にあたる。壬午(じんご、みずのえうま)というのは干支(えと、かんし)で十干と十二支を組み合わせたもので、10年と12年の最小公倍数の60年ごとに同じ干支に戻るのでそれを還暦という。それで天正年間での壬午の年は天正10年で西暦1582年になる。この年は、3月11日に武田勝頼が自害して甲州武田氏が滅亡した。また6月2日には本能寺の変により織田信長が横死して、6月13日には山崎の戦いがあり、明智光秀は羽柴秀吉に敗れた。というように日本史上での激動の年だ。

しかし「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」というのは、本能寺の変から山崎の戦いまでの畿内を中心とする中央政局をめぐる争乱のことではない。織田信長の横死に起因して権力の空白地となった旧武田領(甲斐、信濃、上野、駿河)をめぐる東国の騒乱をさす。

このノートはあくまでも僕の読書ノートであるから、本の書評でも内容紹介でもなく、僕が気づいて書き残す気になったことをノートする。だから著者の主張とか意図などはあまり関係がないのでそのつもりで。

まず本能寺の変(6月2日)直前の旧武田領の様子はどうかというと、それは3月11日の武田氏滅亡後の信長による分割の結果でもあるが、信濃国諏訪郡と甲斐国(穴山梅雪領を除く)は信長家臣の河尻秀隆、上野国と信濃国の佐久郡と小県郡は信長家臣の滝川一益、信濃国の川中島4郡は信長家臣の森長可、信濃国の伊那郡は信長家臣の毛利秀長、信濃国の木曽郡・筑摩郡・安曇郡は木曽義昌、駿河国(穴山梅雪領を除く)は徳川家康とに分割された。

穴山梅雪と木曽義昌はともに武田勝頼の親族であったが織田信長に内通して生き延びた。木曽義昌が織田信長に内通して武田領に織田軍を導き入れたのが武田家滅亡の直接の始まりだ。穴山梅雪は数年前から徳川家康を通じて織田信長に内通していた。

さて信長家臣にとっては新しい領地を手に入れて2カ月たったかたたないかのうちに織田信長という軍事力の後ろ盾を失ったわけである。織田信長の力の前にやむなく臣従している国人衆の離反が当然にも予想されるし、北条や上杉などの隣国勢力の侵入も予想される。多くの信長家臣は新領地を捨てて畿内への脱出を試みた。それらの信長家臣は国人衆から追撃されないように人質をとり信濃国と美濃国の境にある木曽義昌領まで行き木曽義昌に人質を渡す条件で美濃国まで通行させてもらった。結果として木曽義昌は信濃国全体の国人衆の人質を手に入れ信濃国全体を支配するに有利な手段を持ったのだが、利用できずに手放してしまうことになる。木曽義昌自身も新たに得た筑摩郡と安曇郡を失い元の木曽郡だけとなる。

信長家臣でただ一人、新領地に留まろうとして殺されたのが河尻秀隆だ。河尻秀隆の受けっとった領地は甲斐国だ。そこは武田家の本拠地だったところで織田信長は甲斐国内の武田家家臣を全部殺そうとしていた。当然に河尻秀隆は恨みをかっているので、真っ先に逃げるべきなのだが彼は甲斐国に留まろうとした。きっと大身の国持大名になったので手放すのが惜しかったのであろう。国人衆の一揆が発生し、隣国の徳川家康が援助を申し出るが、河尻秀隆は家康の真意を疑い拒否して一揆に殺されてしまう。一番逃げる必要があってしかも徳川領の駿河国と領地が接して逃げやすい河尻秀隆が逃げずに死んでしまうとはなんと愚かなことだろう。

さてここからが気づいて書き残したいことだ。それは4つに要約される。
1 上杉景勝はダイ・ハード(死にそうで死なない)である。
2 北条氏はいつも楽して得ることを狙って何も得られない。
3 真田昌幸の表裏比興
4 徳川家康の律義

上杉景勝というのは兵法で言うところの死地つまり絶体絶命のピンチに3回プラス1回も陥っているが何とすべて生き残っている。プラス1回というのはこの本の時代のずっと後で関ヶ原直前の家康の会津征伐の時だが、これは自ら招いた作戦の内とも思えるので他の3回とは一緒にしなかったが、現象的には大ピンチだよね。で、のこりの3回については1回目と2回目はこの本で天正壬午の乱の前史としてこの本でふれられている。3回目はまさにこの天正壬午の乱の一部分として記載されている。

上杉景勝は子供を作らなかった上杉謙信の養子だが、じつは上杉謙信にはもう一人上杉景虎という養子がいた。景勝は謙信の姉の子で甥にあたる。景虎は北条氏の当主北条氏政の弟で上杉と北条が一時同盟を結んだ時に人質として謙信のもとにきたが、同盟が敗れたのちも謙信は養子として手元に置いた。謙信は2人の養子のうち誰を後継者にするつもりかを言いのこさないまま病気で突然死した。そこで2人の養子による跡目争いがおきた。それを「御館の乱」という。

最初は景虎を支持する勢力が多かったが、景勝の積極的な行動により景勝が盛り返したのではあるが、景虎の兄の北条氏政が上野国との国境方面から兵を送り、北条と同盟していた武田勝頼が信濃国との国境方面から兵を近づけてきた。北条軍については新入経路にある景勝の実家の上田長尾氏が踏ん張り上杉軍の侵入を阻止し、北条軍は季節的に補給が困難になることを理由に撤退した。しかし武田軍は景勝の本拠地の春日山城へ数日のところまで迫っており絶対絶命の状態である。しかしここで景勝はウルトラCの奇策にでる。武田軍の資金不足につけこみ多額の資金の提供を申し出たのである。武田勝頼はそれにのり、景虎と景勝の仲を取り待ちたいといって進軍を停止する。実質上は景勝に加勢したことになり、景勝も武田が景勝についたように宣伝して戦を有利にすすめ景虎を打ち破って勝利した。これが最初のダイ・ハードだ。武田勝頼は同盟軍の北条を裏切ってまで景勝と結んだのは軍資金のこともあるけど、東だけでなく北の方も北条勢力に囲まれるのは面白くなかったのかもしれない。でもこれで武田と北条の同盟は壊れて、北条は織田と同盟を結ぶこととなる。これは武田家滅亡の原因のひとつになった。

上杉景勝の2つ目のダイ・ハードは、武田家が滅びた後、上杉家は織田家の侵攻を受けピンチに陥る。越中方面には柴田勝家が侵攻してくるし、信濃からは森長可、上野からは滝川一益が侵攻する。その上に越後国内では上杉家の家臣の新発田重家が反乱を起こしている。景勝は越中の魚津城に応援を出したいのだが森長可が信濃から春日山城へ迫ってくるので断念せざるを得なかった。さしもの上杉景勝も滅亡を覚悟した。ところが何と本能寺の変で織田信長の急死が伝えられ織田軍はみんな引き返してしまった。ちなみに魚津城は6月2日に落城したが、翌日の6月3日に本能寺の変が起こっている。景勝は援軍が送れないので魚津城の将兵に織田軍に降伏しても構わないと手紙を出したのが、魚津城の将兵は降伏を拒み全員討ち死にした。ちょっとの時間の差であたら忠義の士が命を落とすとは、とこの僕でも時代がかった感想を持つものである。

さて3つ目のダイ・ハードはこの天正壬午の乱の中の出来事だ。これは1つ目のように奇策により助かるというのではないので、2番目と同じく偶然とも天の助けとも言うべきものだが、人間の心理の機微にかかわっていて興味を引いたのでこのテーマでノートする気になったものである。

織田信長の横死による旧武田領の権力の空白は近隣勢力の侵攻をも招いた。滝川一益が放棄した上野国へ北条氏直を大将とする北条軍が侵入し、そのあと碓氷峠を越えて信濃国佐久郡を制圧しさらに兵をすすめて川中島4郡を制圧しようとした。このときすでに上杉景勝は越後から兵を率いて川中島4郡を制圧していた。ここに上杉と北条は対峙することになった。北条軍は2万であるのに上杉軍は7~8千であり圧倒的に上杉軍は不利である。北条氏直はここで上杉景勝を破れば信濃だけでなく越後も手に入ると期待する。上杉景勝は兵力差から勝つ見込みが薄いが、退却すれは逃げる軍は弱いので追いかけられて大きな被害を受けるだけでなく越後まで攻め込まれてしまうから逃げられない。

ところがここに不思議なことが起こった。起こったことの始まりは上杉にきわめて致命的だが結果として上杉は助かったのである。上杉軍に臣従している海津城主に春日信達がいる。しかし実は彼は北条方に内通していたのだ。これはこのとき北条に臣従していた同じ武田の旧臣の真田昌幸の調略によるものだ。計画では上杉景勝が北条氏直を迎撃しようと海津城をでたら後ろから春日信達軍が上杉軍を襲い挟み撃ちにするというもの。これで北条軍の勝利は間違いなしとなった。よろこんだ北条氏直は勝ったあかつきの恩賞を約束した朱印状を飛脚にもたせて海津城の春日信達に送ったのだが、其の飛脚が挙動不審で上杉兵につかまってしまったのだ。春日信達夫妻と三歳の女子の首が北条方の眼前にさらされた。これで北条氏直はがっくり気落ちしてしまい上杉勢への攻撃に消極的になった。真田昌幸はぐずぐずすると味方の士気が落ちるのですぐに攻撃するよう説得するが、氏直は南下して甲斐国を攻めることに目的変更する。春日信達の内通話がなければそのまま両軍は激突して兵力が3倍近い北条勢が勝ったであろう。旨い話が突然消えた時の落胆感は旨い話が元々なかった時よりもかない大きいらしい。

つぎに北条氏はいつも楽して得ることを狙うが結局何も得られないで終わるということ。御舘の乱で北条氏政は実弟の上杉景虎を支援すべく上野国から越後に兵を進めようとするが、侵入経路にある景勝の実家の上田長尾氏の抵抗で兵を進められずに季節による補給の困難を理由に引き返した。しかし歴史家によると北条氏は景勝と景虎の両者が疲弊したところに介入して主導権を奪おうとして一旦引き揚げたとみている。北条氏のその後の行動を見るとその可能性もあると思える。武田家が滅亡したした後の武田遺領の分配では、織田家と同盟して武田領へ侵入したはずの北条氏は何処ももらえなかった。北条氏が本格的に侵入する前に武田家があっという間に滅びて北条氏は活躍しなかったためと思われるが、たぶん北条氏は武田軍がもっと頑強に抵抗するとみていて早く侵入して無傷の武田軍とぶつかっては自軍の損害が大きくなると思ったのかもしれない。たぶん織田・徳川軍と武田軍が泥沼化した戦で疲れ果てたときに無傷の北条軍が介入すれば武田領の大部分を自分の物にできると思ったのだろう。上杉軍との川中島4郡をめぐる戦いでも内通者を利用して楽に勝とうとしてかえってがっくりしてしまった。

真田昌幸の表裏比興ということ。真田昌幸について豊臣秀吉が「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評したそうだ。「比興」は「卑怯」と違う字であるように、現代のようなマイナスイメージとはちがい、戦国武将としてはほめ言葉の要素もある。ようするに変わり身が早く一筋縄でいかない男ということだろう。

しかしながら、この時代で強力な勢力が行きかう場所ならその近辺の領主は強いものに従うのは普通ではないか。この地方でもそうだ。中には2つの勢力に同時に臣従する誓詞を出していた者もいる。なのに、なぜ真田昌幸のみことさら表裏比興なんて言われるのか不思議であった。だがこの本を読んでわかったような気がする。真田昌幸は臣従すると、やむなく消極的に従うというような態度をとらず、積極的に建策や調略などの活躍をするのだね。だから目立つから表裏比興といわれるのだ。才能がありすぎるから自分の才能を使いたがるのだと思う。

ところで真田昌幸はこの後だけど、関ヶ原の時に長男の信之は徳川方で自分と二男の幸村は石田方についた。真田家を残すため示し合わせて一族を2つに分けたように評する人々もいるが、僕は、真田信之は本多忠勝の娘を妻としているし、幸村は大谷吉継の娘を妻としているから姻戚関係でたまたまそうなったと思っていた。しかしこの本で、真田昌幸が北条氏に臣従しているとき、昌幸の実弟の加津野昌春が徳川方にいて、真田昌幸を徳川方に寝返らすのに活躍したという。するとやはり真田昌幸はいつも保険をかけているのかなとも思える。

徳川家康の律義。この本で著者の平山優氏は、天正壬午の乱で徳川家康は甲斐国や信濃国を手にいれたので、この機会をとらえて領土を増やそうと企てたように見えるがそれは結果からそう見えるだけで、家康自体は織田陣営の一員として織田の権益を北条や上杉から守ろうとして行動したという。現実にたえず織田信雄や織田信孝らの織田勢力と連絡を取っていた。となると少なくともこの時点での徳川家康は戦国武将らしからぬ律義者ということになる。そうならば徳川家康の真意を疑って死んだ2名の者は大バカ者だ。穴山梅雪は本能寺の変のとき家康と一緒に堺にいたが、一緒に逃げようという家康の真意を疑い、別行動をとったため道中で落命した。河尻秀隆は家康の援助の申し出にその真意を疑い一揆に殺された。

映画鑑賞ノート『十三人の刺客』

2010-10-02 17:00:59 | 歴史
「あり得ない、けどあり得る」とかいう口上の芸人がいたな。江戸時代の知識があることであり得なくみえるが、実はよく考えるとあり得て、逆にあり得そうなのが、あり得ないことがある。この映画はそんな映画。

幕府の老中が、幕臣である旗本の目付に極秘(私的)に命じて、将軍の弟である譜代大名(稲垣吾郎)の暗殺を謀るのである。これはあり得なさそうだが、僕はあり得ると思う。その理由は後で。で、逆にあり得ないのは、襲撃方法だ。

13人で200人の大名行列を襲う。勿論それ自体は誰の目にも不可能に近い。そこでドラマは、罠を仕掛けた宿場町に大名行列を誘い込む。ふむふむ、何らかの仕掛けがなきゃあね、とここまでは納得。ところがその後がいけない。だって大名の一行を皆殺しにするというのだもの。皆殺しが無理というのではない。むしろ、火とか水とかがけ崩れとかを使うならば皆殺しの方が成功する可能性があることも多い。この映画では宿場町の家屋を利用して行列を閉じ込めて、弓矢で数を減らして切り込む作戦。

皆殺しがあり得ないというのは、この映画のテーマは残虐な大名を倒すために、正義の剣士が立ち上がるというものだからだ。しかし明石藩の200名の藩士を皆殺しにしたのでは、この映画で一番の残酷な人間は大名(稲垣吾郎)ではなく目付(役所広司)ということになる。だいたいこの200人の明石藩士のほとんどは、大名の暴虐の賛同者でも協力者でもなく、ただの宮仕え。大量の遺族と父なし子が出るぞ。だから主人公が正義の人という前提ならばこんな映画のストーリーにならない。もちろん旧陸軍の司令官達のように自己の出世や面目のために下級兵士の命をもてあそぶ者が世にはばかることも事実。でもこの映画の前提では老中(平幹二朗)も主人公(役所広司)も大名(稲垣吾郎)の残虐さが許せなかったはずだ。この映画に「『義』のために生きることに共感」という感想を述べる人もいるが、図式的な大儀名分に陥っているのではないか。

ではどのような襲撃方法が考えられるか。まず鉄砲で狙うことである。赤穂事件や桜田門外事件では鉄砲は出てこないが、それは江戸府内だから。俗に「入り鉄砲に出女」と言うとおり江戸府内には鉄砲の持ち込みは禁止である。しかし江戸を出れば別。猟師だって鉄砲を持っている。獣害に悩む農民が代官所から鉄砲を借りて猪を退治するという例もある。鉄砲で大名行列を狙う例は、密告で失敗したが盛岡藩士が弘前藩主を狙う相馬事件がある。だから街道脇から鉄砲数丁で同時に打ち込むのがよい。道は狭いから、大名の籠または馬は常に側面をさらけ出していることになる。1丁では外れることもあるので数丁を同時に発射する。
鉄砲が入手できない等の場合は、大名行列を寸断して、大名と家臣たちを離れさせ。家臣が来ないうちにひたすら大名ののみを狙うのである。映画の宿場町に罠を仕掛けるというのはこの意味でいいアイデアだが、大名行列全部を閉じ込めて皆殺しはいけない。映画でも13人のうち2人しか生き残らなかった。

ところでこの刺客たち、鎖帷子をしていないのは準備不足だね。本当なら赤穂事件の教訓から鎖帷子をしていていいはず。

さて最初にもどり、一般に老中が大名の襲撃暗殺を考えるのが、あり得なくてでもあり得ていいのかを言おう。ふつう大名を排除しようとするとき、何らかの言いがかりをつけて大名家をとり潰すことがある。でも江戸中期以降は、よほどのことがない限り取り潰しはしない。浪人が増えると困るからだ。でもこの大名(稲垣吾郎)は残虐に人を殺傷しているから取り潰しの理由にはなるが、前将軍の子で現将軍の弟なので現将軍がバックアップしているのでそれは無理だ。改易にはできないが問題のある者が藩主についている場合は、その藩の重臣が協議して老中の暗黙の了承のもと、藩主を監禁して幕府に病気届けをしたのち隠居届をだして藩主を替えることがある。これを「押し込め」と言うが、このドラマの設定ではそれも無理だ。老中と藩の重臣が示し合わせても、将軍が弟に見舞いの使者を送ればばれてしまう。それに明石藩では外からの養子の藩主なので藩主自身にはあまり忠誠はないと思われるが、旗本から付き添いできた重臣が藩主への絶対忠義の者なので「押し込め」に必要な重臣全員の合意ができない。

改易もだめ、押し込めもだめならば、忍者での暗殺とくに毒殺という手があるのではないかと思うだろう。協力者がいない限り食事に毒を盛るのは不可能だから、藩主が外出のおりに隙を見て毒を盛る方法が考えられる。よく大名が外出から帰ってから体調が悪くなり死んでしまうケースが多い。毒殺ってそんなに簡単にできるのと思われるかもしれないが、大名に毒味役が普通に付くように、広く行われていた可能性がある。ただ藩主の毒殺が成功したら、家臣も糾弾できなくなる。新藩主が毒殺に関わっていたらお家は取り潰しだから。だから歴史に残るのは保科正之の正室が側室の娘を毒殺しようとして自分の娘を誤って毒殺した例ぐらいだ。

しかしこのころ忍術の技量を保持しているのはお庭番ぐらい。しかしお庭番は将軍直属で将軍の命令しか聞かない。老中が動かせる伊賀組も甲賀組も門番以上の技量はない。

なおこの大名(稲垣吾郎)が、ほっとくと来年には老中となるという。まあこれもあり得るとしよう。ふつう譜代大名が老中となるには、いくつかの役職を経た後なので、大阪城代でも京都所司代でもない者がいきなり老中とは思うかもしれない。だがこの大名(稲垣吾郎)は前将軍の子で現将軍の弟だ。徳川吉宗の孫の松平定信もいきなり老中になったみたいだ。古くは保科正之もふくめて将軍家の近親者はいきなり老中になることが可能みたいだ。

DVD鑑賞ノート「不滅の李舜臣」[その8]

2009-10-01 22:16:25 | 歴史
李舜臣の朝鮮水軍が強かった理由を考えると次のいくつかの要素が思い浮かぶ。

1 大砲が発達していた。
 鉄砲は日本軍が質量とも圧倒的に優勢だが、船に積み込む大砲は朝鮮水軍の方が発達していた。日本水軍の艦上からの鉄砲隊の発射は船の近接戦では朝鮮水軍の弓手を圧倒したが、朝鮮水軍の大砲がより射程距離が長いため接近戦になる前に朝鮮水軍の大砲で破壊される可能性が大きい。

2 朝鮮水軍の板屋船が日本水軍の安宅船より堅牢であった。
 日本水軍は鹵獲した朝鮮の大砲を日本の安宅船に取り付けようとしたが、安宅船の構造が脆弱で大砲発射の反動で船体が壊れるためせいぜい2基しか大砲を設置できなかった。また双方の船が衝突した場合安宅船の方が破壊されかねない。

3 朝鮮半島南部海岸の地形や海流をよく知っていた。
 李舜臣は地形や海流を知り尽くしている退職していた元水軍の幹部を再び登用した。彼は自分が死んでも役立つように海流図などを書き残した。少数で多数を迎え撃つこともある李舜臣の水軍は地形や海流を大いに利用した。

4 艦隊訓練をよく行った。
 李舜臣が全羅左水使になって最初に重視したのは艦隊の統一行動だ。訓練によって各船が陣形を組めるようになった。李舜臣は一字陣と鶴翼の陣を多く用いた。これによりすべての船の大砲の弾を目標の的に集中的に浴びせることができる。もし陣形ができず各船がばらばらに行動したら味方の船が邪魔でうまく砲撃もできなくなる。なおこうした訓練によって李舜臣は部下の武将たちを掌握していったような気がする。

5 偵察活動をよく行った
 高速の偵察船とロケット弾や狼煙による連絡を用いて偵察活動を常に行っている。この偵察活動の指揮官は軽いタッチの調子よさそうな人物で、李舜臣が全羅左水使になったとき僕は調子よさそうな人物なので大陸の軍隊によくある横領などが出てきて李舜臣に罰せられるというストリーになるのかなと思った。ところがそうではなくて頭の回転がよいので李舜臣から偵察活動の指揮官を任された。ところでこの人は元均が日本艦隊に大敗し朝鮮艦隊がほとんど壊滅したとき、日本軍の捕虜になって日本に連行された。そのあと日本から脱出して朝鮮にもどり再び李舜臣の部下になった。DVDを見ていて「そんな、ドラマでも作りすぎ」と思ったが、どうやら実話らしい。

6 勝利できる確信がない場合は出動しなかった。
 李舜臣は勝てないと思ったときは、王様の命令でも頑として出撃しなかった。李舜臣が戦うときは少数の敵に集中して攻撃せん滅して自分は被害なしという形が多いが、大砲と艦隊行動と地形などで、敵がある程度多くても勝てる自信はあったと思う。しかし釜山攻撃のように敵の兵力が5倍から10倍以上の中に突っ込むことは冒険すぎてできなかったのだろう。この李舜臣の態度は正しいと思う。こちらの兵力が圧倒的に少ない場合、一か八かでこちらの兵力をつぶしてしまえばもう後がなくなる。したがってこちらの兵力を温存しながら敵を少しずつ倒していくしか方法がないだろう。それから王様に一度でも負けたら水軍をつぶすといわれたことも少し関係しているかも。
なお李舜臣が復帰したとき、船は13隻しか残っていなかった。元均が大敗したとき、その直前に敵前逃亡した一隊の船があったからだ。日本水軍は制海権を完全ににぎろうと100隻以上の船で迫ってくる、ここは迎え撃たないと制海権は日本のものになる。そして李舜臣は初めて一か八かの戦いをする。この場合、李舜臣は部下の水兵たちに危険なことを承知させて作戦に参加を求めた。不敗の伝説が出来ている李舜臣なら「俺を信じろ。絶対勝つ」といっても通じそうなのだが、ここは危険なことを正直に伝えているというのは偉い。この鳴梁海戦では地形と住民の協力を得た奇策をもちいて、日本海隊を先頭の30数隻と後方の100隻以上を分断して、先頭部分を壊滅させて、日本軍を退却させた。