セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:矢野邦彦『ケインズに先駆けた日本人』(明徳出版社)

2011-02-20 17:15:44 | 社会経済
先に、オーストリア学派経済学の一般向けの本は、日本では『世界一シンプルな経済学』(ヘンリー・ハズリット、日経BP)と『環境主義は本当に正しいか?』(ヴァーツラフ・クラウス、日経BP)の2冊だけと書いたが、もう一冊『メルトダウン 金融溶解』(トーマス・ウッズ、成甲書房)があるのを忘れていた。これは解説がリバタリアンとみられる副島隆彦氏なので、学問ジャンルはともかく思想的立場からみれば若田部氏よりふさわしいと言える。

ところで16日の『そうだったのか!池上彰の学べるニュース』を見ていたら「経済効果」というものの解説をしていた。僕は見ていて、「一次効果とか二次効果なんていっても、ある事に出費すれば、他の事への出費が減るものね。経済効果なんてあまり意味ないじゃん」と考えている自分に気がついて、自分のオーストリア学派的感覚に喜びを覚えた。書物でオーストリア学派が「経済効果」について言及していたのを読んだわけではないが、オーストリア学派ならそう考えるはずと思う。

でも池上氏もなかなかなものである。「経済効果」を無批判的に解説するだけではなく、たとえば新しい遊園地が開園するとそこに「経済効果」が生まれるが、近くの古い遊園地に客が来なくなりそこには「経済損失」が発生するとか、サッカーのワールドカップで放送業界とかマスコミに一定の「経済効果」が出る半面に、放映時間中に繁華街に人通りが少なくなり飲食店の売り上げが落ちるなど、別の面があることに注意を促している。でもオーストリア学派的には(素人が勝手に代表しちゃって御免なさい)、「経済効果」のあらわす支出自体が他の物への支出の減少と直接的に考えるけど。

オーストリア学派の主張にはいくつも重要な特長がるけど、『世界一シンプルな経済学』で主として述べられているテーマは「すなわち経済学とは、政策の短期的影響だけでなく長期的影響を考え、また一つの集団だけでなくすべての集団への影響を考える学問である。」と言うことである。もちろんこの場合の経済学とはオーストリア学派の事である。これ重要だよ。後で試験じゃないけどまた出てくるからよく覚えておいてね。

さて先日このブログ(2月10日)で、オーストリア学派と陽明学に共通するものがある主旨のことを書いたその後で、注文していた『ケインズに先駆けた日本人―山田方谷外伝―』(矢吹邦彦、明徳出版社)が届いた。著者の矢吹邦彦氏は『炎の陽明学―山田方谷伝―』(明徳出版社)の作者でそちらの方はすでに持っているが、『ケインズに・・』と言う本もあることを知りアマゾン(中古)で取り寄せたのだがそれを忘れていて、タイトルをみてビックリ。俺って勘違いしていたのか?

山田方谷は幕末期に活躍した陽明学者にして備中松山藩の理財家である。備中松山藩は表高5万石の譜代大名(板倉氏)ではあるが、実高は2万石を下回っており、上方商人などに10万両の借金がありその利息も毎年9000両に達していた。農民出身の儒学者であった山田方谷は藩主の養子勝静の学問の師であったので、勝静が藩主になった後に強く乞われて藩の再建に取り組むことになった。彼は7年間で10万両の借金を返済した上に10万両の軍資金をつくりなお1000名以上の農民も含む西洋式軍隊をもつにいたった。これは長州の奇兵隊に先駆けている。

矢吹邦彦氏が山田方谷を「ケインズの先駆け」と思ったのは以下の理由によると思う。1つは備中松山藩がV字回復したことである。江戸時代を通じていろいろな藩が財政再建に取り組んだ。有名なのは上杉鷹山(うえすぎようざん)の米沢藩が有名だが、米沢藩が借金を返し終わって蓄えができるのは改革を初めて100年後であり当然に鷹山はとっくに死んでいる。鷹山のとったのは倹約と殖産興業というオーソドックスなものだ。だからV字回復の備中松山藩は何か特殊な経済政策があったと思い、そこにケインズ的手法を連想したわけである。ケインズ的手法とは政府が財政政策や金融政策で経済を刺激するというもの。財政政策は政府支出による公共事業で、金融政策は通貨を多く流通させることだという。じっさい方谷は農民に賃金を払って動員して道路整備等の公共事業を行っている。たしかにケインズ政策に見えるね。また藩札などの藩内通貨もいじっている。だから矢吹氏は「備中松山藩藩政改革の真価を、・・・ケインズ経済学のレンズを通してしか、その真価を見ることはできない、・・」(p22、L8~10)という。

ではオーストリア学派経済学のレンズではどう見えるのかな。でもその前に矢吹氏の示した例が本当にケインズ的手法かな?まず道路などの整備は、土建業者に発注したわけでなく藩が直接に行なった。だから藩が権力で強制動員したのではなく賃金を払ったという以外は民間に仕事をあたえるという意味はない。道路工事などのインフラ整備は藩直営の鉄製品の製造や輸送のために必要なものだ。矢吹氏も現代の公共工事のような必要性のない工事ではなく必要なものだったと書いている。でもケインズ政策の真骨頂は穴を掘ってまた埋めるような無駄なことに財政支出するところなのだ。だから必要な工事を藩が自ら行ったものはケインズ的手法とはいえない。

方谷が藩札に手を付けたことはケインズ的手法にもリフレ派的お金ジャブジャブにも関係ないどころかその反対のことをやったのだ。方谷はむやみに発行されて信用を失った藩札を3年の期間を区切って回収した。そして布告して公衆の見守る中それを燃やしたのだ。そのご幕府の正貨と結びついた新たな藩札を発行した。幕府の正貨は金貨(小判)や銀貨を中心に体系が組み立てられている。金貨を用いるのが金本位制だが金貨に裏付けられた貨幣も金本位制だ。リフレ派が毛嫌いし、オーストリア学派が好きな金本位制を方谷は選択したんだ。
では方谷の改革とは何なのか。方谷は大阪の金主(貸して)に藩の実状と再建案をていじして借金の返済を棚上げしてもらうと同時に。担保の米を返還してもらった。そして今まで大阪商人に任せていた藩米の販売を藩独自で行うことにして、米の保管場所を藩内にいくつも作った。これは飢餓のときのお助け米にもなる。また藩内の商人から商権を取り上げ自ら鉄器の製造と販売に乗り出した。え?これはケインズ政策ではないけれど、それ以上にオーストリア学派が大反対の社会主義ではないかって?

ちがうよ、社会主義の国有化は市場の廃止が目的だけども、方谷のやろうとしたことは藩を1つの企業にして天下という市場に乗り出したのだ。江戸時代の中期までは藩と言う観念はなかった。「赤穂浅野家家中」とか「浅野匠頭が家来」とかいうように殿さまとその家来が1つの会社で領民は単なる販売地域の顧客みたいなもの。でも幕末には大名家臣団と領地領民を一体でみる藩という観念が一般化した。藩庁という行政府の中心をあらわす言葉も使われるようになった。方谷は家臣団だけでなく領民も社員とした大企業を作ったのだ。生産販売物流を統括する撫育局というものをつくり身分にかかわらす人材を配置した。

オーストリア学派は政府の役割には否定的で、社会発展の原動力を創造的起業家に置いた。人間の本質を行動することにみるオーストリア学派の人間観にも基づいてもいる。ここでも陽明学っぽいな。山田方谷は製鉄所や鉄器工場を作るとともに、いままで藩内商人を通じて大阪で販売していたルートを直営で江戸の市場まで運んだ。これにより大きな利益が得られるようになった。新しい生産要素の結合を発見して大きな利益をえるというオーストリア学派出身のシュンペーターのいうイノベイターの役割を山田方谷は行ったのだ。

さいごに山田方谷が書いた『理財論』という経済財政論の本のよく知られた一節を紹介しよう。
「総じて善く天下の事を制する者は、事の外に立って事の内に屈しないものだ。しかるに当今の理財の当事者は悉く財の内に屈している。」
え、この意味?それは「政策の短期的影響だけでなく長期的影響を考え、また一つの集団だけでなくすべての集団への影響を考える」ことが大切ってこと。そう山田方谷は陽明学者であり先駆けたオーストリア学派経済学者なのだ。


政権は鉄砲から生まれる

2011-02-10 15:58:57 | 名古屋
前に、河村市長の得票数の増減に注目していたところ、名古屋市長選挙史上最高得票の前回よりもさらに10万票以上を上積みしたのでビックリしたと書いた。でもよく考えてみれば、前回市長選では公明党が自民党と一緒に細川候補を支援していたのが、今回は事実上の河村支持に変わったのだから、10万票の増加も不思議ではないのだ。でもそうしたからくりがあったとしても、河村市長が多量に票を伸ばして圧勝というイメージは確固としてできてしまったので、市政の力関係は河村市長に大きく傾いた。

市長選の前は、市長選を行うために辞職するのは大義がないなどと反対勢力はぼやいていた。韓流歴史ドラマをよく見る僕は、「大義とか名分とか、お前らは老論(ノロン)派か?」と思ったものだ。老論派に限らず李氏朝鮮は朱子学の政治が国是の国家だ。だから大義名分が政治闘争の焦点になる。日本の江戸幕府も朱子学が公認哲学だが実質は他の儒教の学派や国学なども盛んだった。幕閣から諮問を受けた儒学者にも荻生徂徠など朱子学者でない者も多い。だから徳川幕府は朱子学国家ではなかった。むしろ明治になってから日本が実質的な朱子学国家となったと言われる。

大義がないといえば、参議院で郵政民営化法案が否決されたから衆議院(参議院に解散はない)を解散した小泉首相(当時)もその時点では大義名分がないと言われた。自ら大政奉還した徳川慶喜をさらに武力討伐しようとした西郷吉之助(隆盛)も名分がないと言える。しかし結果を知っている現在の人々はこれらを名分がないからといって間違った行動とは言わないだろう。それは勝てば官軍と言うことではない。政治における変革を大きく一歩進めるには、戦いによって力関係の大変動を知らしめるしかないからだ。「鉄砲から政権が生まれる」とは毛沢東の言葉だが、それはそうした意味を示している。結果からみれば、大義名分などというのはなんと空虚な言葉だろう。李氏朝鮮では大義名分は果てしない派閥抗争や流血を生み出してきたが、なんら有意義な進歩や変革をもたらさず国家社会を衰退させていた。大義名分は自らの利益のための口実に過ぎない。

ところで昨日の『学べるニュースSP』の「物価」について池上彰氏の解説でおやっと思った。というのはリフレ派的な解説が入っていたからだ。池上氏は以前の「日本銀行」の解説のときにははっきりとは言わないにしても金融緩和的手法に冷ややか感じがした。ところが昨日は1%ぐらいのマイルドなインフレが一番いいようなリフレ派寄りの解説があった。もっともリフレ派は3%ぐらいがいいと言っているが。これは先の「日本銀行」の解説を見たリフレ派の有力者や学者から何らかの圧力があったからなのかなと思う。圧力といっても政治的な圧力ではなくて、狂信的なリフレ派からのレクチャー攻撃があったのだと思う。というのは今国際的な商品相場の高騰により日本にも物価が上がる気配があるので「物価」というテーマはいいのだが、内容が今回の物価高騰の原因にはあまり触れないで、デフレとインフレのどちらがよいかという話に重点が言っているのだ。そこでデフレスパイラル的な解説とか、インフレで景気がよくなることという解説があった。デフレスパイラルは続かないし、インフレ下での景気後退というのも理論上あり得るだけでなく、歴史的に存在している。池上氏はリフレ派と同じ奇妙な論理を話した。「物価が上がると思うと上がる前に買おうとするから消費が増える」「物価が下がると思うと買うのを控えるから消費が減る」これらはリフレ派の誤った子どもだましの論理だ。現実には人々はそんな買いだめを行うかな?たとえそうして買いだめしてもそれは消費支出の先出しだから、後の反動で消費支出が減少する。企業は一旦増産しても急にブレーキがかかるのでかえって経済に害悪を与える。あっ、70年代の石油危機のときにスーパーからトイレットペーパが消えたのは、値上がりの予感ではなくて、石油がなくなると製紙工場が止まってトイレットペーパの出荷が止まるという噂のためで値上がりの予感のためではないよ。

ところで僕の書棚には、オーストリア学派の人が書いた一般向けの本が2冊ある。専門書はまだ何冊も出版されて僕も数冊も持ってはいるが、日本での一般向けはこの2冊だけだろう。一つはヘンリー・ハズリットの『世界一シンプルな経済学』で、もう一つはヴァーツラフ・クラウス(チェコ大統領)の『「環境主義」は本当に正しいか?』でどちらも日経BP社の発行だ。ところが驚きかつ不審に思ったのは、この2冊に解説文を書いているのは、リフレ派の旗頭の若田部昌澄教授(早稲田大学)だ。オーストリア学派とリフレ派は対極にあると言ってもよい。若田部氏も解説で自分のリフレ派的な主張を述べ「ハズリットの議論をそのまま受け取ることには注意が必要」と批判している。解説文を書いたのは若田部氏がアメリカ行ったときに回りにハズリットやリバタリアンに影響を受けった人が多くいたかららしいのだが何か釈然としなかった。日経BP社があまり懇意でないオーストリア学派の学者に頼むよりいろいろ付き合いのある若田部氏に解説を頼んだのだろうけど。でもなぜ真逆の若田部氏なのだろう。

その謎は若田部氏の本に書いてあった。若田部氏の『改革の経済学』(ダイヤモンド社)と言う本を古本屋で見つけて買った。その本の最後に「-エピローグ-なぜ私はリフレを唱えるようになったのか?」という章がある。それを見ると、若田部氏は大学院生時代に現代オーストリア学派に親近感と興味を持っていたという。「ゲ!では俺もやがてリフレ派になる可能性があるのか?」と恐怖におののいた。もうすぐ発狂すると宣告された感じ。

でも読んでいて安心した。若田部氏は現代オーストリア学派に親近感と興味を持ちつつも、3つの点で違和感を持っていたそうである。それが若田部氏がオーストリア学派にならなかった理由だが、まさにその3つの点こそ僕がオーストリア学派に魅かれるところなのだから。第1点は、オーストリア学派が形式性に強い忌避感持つこと第2点はオーストリア学派が不況と好況を一帯の流れとして政府の介入を不要とすること。第3点はオーストリア学派の設計主義批判である。

第3点の「設計主義」とは、社会などを予め設計図を立てて行おうという立場。一般的にその代表は社会主義・共産主義となる。でも設計主義というのは多くの役人の特徴だね。何か行うのにあらかじめ日程等を決めておかないと不安になる。そしていろいろ不利な要点を列挙して結局できないと結論付けるのだ。僕の考えは、必要な事態があるのならとにかく自分が引き受けて常に気にかけることだ。そうすると向こうから新しい事態がおこり霧の中にふと解決策が見えてくるのだ。形式性で言えば、公務員は研修で職場改善というと圧倒的多くはマニュアル作りを上げるけど、マニュアル作成が改善ではなく、そこに書かれる仕事の内容が改善されなきゃいけないのだよ。

若田部氏が違和感を持った3つの点は実は、オーストリア学派だけでなく、陽明学と親鸞にも共通するものだ。

今朝の全国的2大ニュース

2011-02-07 19:03:57 | 社会経済
名古屋だけでなく全国的にも今日のニュースの2大事件は大相撲の大阪場所の中止決定と名古屋市のトリプル選挙の河村市長の圧勝だね。どの新聞にも「圧勝」という文字が目についた。名古屋で今年生まれる男の子に、「圧勝」という名前を付ける人が多く出そうだ。むかし森田必勝という人がいたな。

僕は河村市長の当選は当然だから、選挙の勝敗は、前回より得票を伸ばすかに置いた。しかし史上最高の前回よりさらに10万票以上上乗せするとは驚いたね。県知事選で御園候補が重徳候補より得票が少ないという予想もあたった。でもこれは選挙前の世論調査でもその可能性は指摘されていたので僕の予想と言う必要はないけど、あえて予想したのは重徳候補に期待したから。でも大村候補の50%以上の得票はこれもビックリだ。

予想が外れたのは八田候補と杉山候補の合計が石田候補より少なかったこと。世間的にみれば当然の結果だろう。しかしあらためて共産党の影響力の凋落に驚かされる。数年前まで長いこと市職労の組合新聞を読んでいたのでは世の本当の流れがわかりにくいかもしれない。共産党は地方議員の個人後援会を廃止して共産党後援会なるものに統一しているらしい。地方議員が個人後援会を基盤に共産党から離反するのを防ぐためらしいが、そんな引きこもり方針では、次回市議選挙では壊滅も予想されるよ。

もうひとつのニュースは大相撲の八百長疑惑だが、2日前かな、携帯メールという証拠を突き付けられて否定できなくなった相撲協会の放駒理事長は問われる前に「いままではなかった」と言わずもがなの発言をした。これは以前に週刊誌を名誉棄損で告訴した協会の立場上そう言わざるをえないのだろう。でもさあ、日本の大相撲に八百長があることはアメリカでも常識になっているのだ。アメリカで100万部以上のベストセラーになった『ヤバい経済学』という本のその第1章は「学校の先生と相撲の力士、どこが同じ?」というタイトルだ。東洋経済新報社の邦訳書を読んだだけだから、原文も同じ意味のタイトルかは保証できないが、「相撲の力士」がアメリカの本の第1章を飾るなんてと喜んでいいのかは迷うけけど。

内容は行動のインセンティブについてだ。アメリカのシカゴでは学校の学力テストが行われたそうだ。学力テストの成績が悪いと学校が廃校になったりする。そのためクラスのテストの成績がよいとその担任の先生にボーナスが出る。そこで先生はクラスのテストの成績を上げようと、テスト中に黒板にテストの正解を書いたりするがそれは子供の口から親にばれてしまう。そこで先生が考えたのは、先生が回収したテストの回答用紙を改ざんすること。学校に引き渡すまでの短い時間に多くのテストを改ざんするには、生徒の多くが間違える難しい特定の問題の回答欄を集中して直していくのが一番だ。でも生徒がどの問題にどのように答えたかのデータを特定のパターンを見つけ出すアルゴリスムでコンピュータにかければ判ってしまうのだ。

大相撲では7勝7敗の力士が8勝6敗の力士が対戦した場合7勝7敗の力士が勝つ確率は8割となる。ふつうならその相手力士との勝率は5割を切っているのだ。だから八百長は判るよね。この本は大相撲では勝ち越せば番付が上がり負け越せば番付が下がることを説明し、上位40人の力士の待遇と70番の力士の待遇は大きく違うと説明している。ここにシカゴの学校の先生と相撲の力士の八百長の共通するインセンティブがある。まあ、本当はどちらもとりわけ八百長があってはいけない職業なのにね。

トリプル選挙の意義と予想

2011-02-04 15:33:44 | 名古屋
トリプル選挙も明後日に近づいたので今回の選挙について所見を述べよう。ナーンテネ。

河村手法を非難する人は「もっと話し合ってとか」「市長派の言いなりになる議会を作る気か」などと言うけど的外れな議論だね。特に日本では名古屋だけでなく地方議会全体がなんら二元代表制にふさわしい活動を行ってこなくて翼賛議会だった。今回は自分達の既得権益に手を突っ込まれようとしたので急に市長を独裁者と言うわけだ。市長が強く問題提起をしたから、せこいけど市議の今任期中だけ少し減額というポーズをとっただけなので、議会にお願いしただけでは議員報酬の削減というのは百年河清を待つのと同じだ。既得権を持つ者に自ら既得権を放棄せよというのは不可能なのは自明の公理。それをわかっていて河村手法を非難するのは卑怯だね。

日本の地方議会の報酬は世界一高い。それは外国ではボランティアだから。日本でも戦前はボランティアだった。それが戦後の高度成長の中で国や自治体の税収が増えてく中で、議会が首長となれあって財政拡大のおすそわけを受け取っていた。そして報酬が多くなり職業として成り立つようになった。いったん職業として成り立つと議員は当然のように職員の収入より低ければ威厳にかかわると主張しだし、名古屋市では議員の報酬は、一般職員の頂点の局長級の最高額よりちょっと上ということに慣習上なっている。

議員は国会議員も地方議員も報酬をもらっても選挙にお金がかかるとか事務所にお金がかかるのでそんなにもらったことにならないという。でも経済学的に言えば、それだけ選挙対策のお金を使っても当選すれば快適な生活を送れるが、お金を惜しんで落選したら特権を失うという均衡点で選挙対策費用が決まってくるのだ。だから正しい解釈は、選挙費用が高いから報酬をもらっても楽じゃないではなくて、選挙費用を多く出してもそれ以上の見返りはあるということだ。

でもさあ、高度成長はとっくに終わっているのだ。今じゃ国も自治体も借金漬けだよ。なんら有益な活動をしない議員に莫大な予算を使っていられない。逆に職業議員だからなんら有効な活動をしないかも。職業議員は市役所の監視者ではなくて寄生者になっているのだ。これに全国民が気づき始めたのだ。名古屋はその現れに過ぎない。寄生虫は高度成長期には気にならなかったかもしれないが、体力の衰えた老年期の日本社会には死活問題だ。今一度日本を洗濯する必要がある。

選挙の結果は世論調査でほぼ決まっているようだ。そこで当落とは別に自分なりの勝敗の分かれ目を設定して投票日を待とう。

まず河村たかし候補。
前回市長選の得票数<今回市長選の得票数
これだけ大騒ぎしたのだもの。それは有権者にどう影響しているか見ものだ。名古屋の有権者が覚醒してきたか、それとも引いてきたかということ。

次に石田候補。彼は当然当選できないが、以下のようでないと民主党政権に大打撃になるので。
石田候補票>八田候補票+杉山候補票

県知事選挙では大村候補が当選だが、御園候補と重徳候補のどちらの得票が多いか。御園候補が重徳候補より少なかったら、これも民主党政権に大打撃だ。でも僕の予想では市長選も知事選も民主党政権に大打撃になる気がする。

もう所得税の還付通知がきた

2011-02-03 18:25:11 | 社会経済
今日郵便受けに税務署からの所得税還付の通知はがきが入っていた。税金の確定申告期間の前なので、「お、早いね」と思ってしまった。でも考えてみればまだ税務署が暇な時に確定申告書を出したのだから、添付書類もきちっと付いているので、係の税務職員が当日か翌日にはさっさと処理できるはずである。かえって忙しい時期まで何もしないでため込む方が不自然と見える。

去年は確定申告期間の最終日間際の税務署に出した。前回も言ったが、還付申告なので3月15日にこだわる必要はないのだが、この時期までに出したのは市税の申告書の処理にあわせたため。ずるずると遅れては市税担当者に余分な事務負担をかけるかもしれないと思った元市職員の心づかいとでもいおうか。

今年は1月19日に確定申告書を税務署に提出したのだが、どうせ出すなら余裕をもってと社会保険料などの必要生類がそろい次第に早めに出したつもりだ。ところがそのあとに取引のある証券会社から「特定口座年間取引報告書」が届いた。これを見て僕はそこに載っている内容を確定申告すべきだったかどうか思いあぐねた。実は僕は株式の他に新興国の国債や株式を投資対象とした毎月分配型の投資信託を持っているのだ。それが僕の「特定口座年間取引報告書」の内容だ。確定申告した株の配当は昔から持っていたもので売買の予定はないので、この証券会社の特定口座には入っていない。

特定口座の内容を申告した方がよいか思いあぐねたのは還付される税額がもっと多くなっただろうということだ。脱税の汚名の心配ではないよ。

ブラジルボンドという投資信託を買ったのは一昨年(平成21年)の後半である。その11月ごろに証券会社から送られてきた分配金のお知らせハガキをみて心配になった。それは源泉徴収税がされてなくて税区分が総合課税になっているからだ「たしか源泉徴収されてそれで税務処理は終了と思っていたのに。これではこの年(平成21年)については非課税かもしれないが、次の年(平成22年)に丸1年の分配金がはいったら納税のための申告が必要となる。」でも心配は無用だった。だって税が源泉徴収されていないのは利益の配当の分配金ではなくて、特別分配金といって投資の元金を取り崩して配当しているからだ。「ああよかった。」「何がいいのじゃ。損しとるやないか!」と一人で突っ込みを入れる。とにかく毎月分配型というのはこういうことがあるので注意をするように。

さて今年送られてきた「特定口座年間取引報告書」をみると涙が出てきた。というのは特別分配金が1年に11回で、分配金はたったの3回なのだ。1年12カ月なのにたすと14回になるのは一月に分配金部分と特別分配金部分がある月があるから。結局1年間の大部分は利益が出ずに元金を取り崩しているからだ。このため3カ月ごとに証券会社から送られて来る「取引残高報告書」の評価損益は毎回ほぼ3カ月に受けた分配金(特別分配金を含む)の合計の約倍ぐらい減ってきている。一度むこうから電話が掛ってきたついでに「『取引残高報告書』が来るたびにウン十万円ずつ財産が減っている」と言ったら「そんなハズでは」とあわてていた。証券会社というのは、値がひどく下がると、「その銘柄は下がっていてよくないので、売って上がっている別のものを買いましょう」と言う。でも証券会社の言うとおりにすると、つねに上がりきった物を買い、下がった時に売って常に損をすることになる。よく訴訟で証券会社が勝手に売買を行いウン億円の損害が出たという民事事件がある。これはたまたま損が出て裁判になってニュースになったのかな?証券会社の自由裁量で大儲けしたというのはあるのかな?私の投資信託について言えば、値が好調の時は「儲かっています。もっと買い増しを」と電話をかけてきて、同じ銘柄が数ヵ月後下がった時は「手ごろな値段になっています。もっと買い増しを」と言う。まあ証券会社の人が顧客のため第一にアドバイスすると思うのは大きな考え違いだ。公務員が市民のためと第一に働いていると思うのもおおむね考え違いだが、こちらは会社(役所)の利益にも職員の営業成績にも関係ない(でも働きすぎると他の職員の迷惑になると嫌われるかも)  から中にはいないわけではない。少なくとも証券会社よりは多い気がする。市民第一がほんの少数。自己の利益を大きく害さなない限り市民のためが大多数。元々建前と職業上の口上以外には市民の利益に興味ないのは少数。1番目は出世コースとは無関係。2番目は出世とは無関係。3番目が官庁の出世のメインストリーム。

ずいぶん証券会社の悪口を書いたように見えるが実体を書いただけ。僕は証券会社に何の恨みもないし、証券会社社員の説得で行動したことは一度もないから、確かに損しているかもしれないがそれは自分の責任。まぁじっくり見ましょう。そのうち利益が出てくるかも。

話はもどると、投資信託は証券会社が税を源泉徴収して税務署に納めてそれで税務処理は終結するが、どうやら確定申告も可能らしいとも読める。だから特別分配金は預金を崩したのと同じだから無視して、分配金とその源泉税を株の配当と合わせて確定申告すれば所得税の源泉徴収されたものは全部戻ってくると思われるのだ。分配金は金額が多くないけど株の配当金とたすと所得税の基礎控除額を超えるが、社会保険料控除がかなりあるのでやはり所得税はかからないからだ。住民税では所得割はないが均等割がかかってくるかもしれない。そうすると国民健康保険料にも反映するな。でも差し引き還付される税金の方が多いだろう。1度出してしまった確定申告で税額を減らす(=還付金を増やす)ための更正請求は1年以内だったかな。でも僕の場合は今回の確定申告期間の3月15日が来ていないから再申告(そんな名前だったか不明)は3月15日まで簡単にできるかも。でも面倒だからやらない。来年は考えてみようかな。

ところで前回、確定申告書の住民税のページがなくなり、電子情報かされたデータが市町村に行けば、点検が不要で市町村役場の税務職員が確定申告の内容を理解しなくても仕事ができてしまうと書いたけど、市町村役場にはまだ重要な仕事があった。給与支払報告書や年金支払の資料、報酬などについての支払証書と確定申告を照合することだ。それから扶養親族が重複していないか、また扶養親族に限度以上の所得がないかも点検する。それで必要に応じて税務署にも通報するのだ。でも忙しすぎたなら、一旦税務署からの確定申告のデータだけで6月に納税通知書を出して、おいおい支払調書などを点検していくこともできるかな。まあ事務内容も知らないのに第三者が勝手な推測をしてもしょうがない。